第十五章 修羅場
丸くて白いお洒落なテーブルを囲んで、ステラとアーヴィンは向かい合わせに腰を据えた。
テーブルの上に置かれているのは、平たいお皿に豪華に盛り付けられたパスタ。旬の食材が混ぜ込まれたソースをベースに、程良く湯がいたブロッコリーやニンジンがちょっとしたアクセントとして飾られている。もちろん、胡椒やハーブも忘れてはいけない。
「意外と美味しいね」
「だろ?」
器用にフォークでパスタを巻き取り口に運ぶアーヴィン。それを、頬杖をつきながらステラは嬉しそうに眺めていた。
「本当にいらないのかい?」
アーヴィンが、くるくるとフォークを動かしながら言った。するとみごとに麺がフォークに絡まり、ステラの口元にずいっと現れる。
「うん。実はさぁ、昨日飲み過ぎたせいで食欲わかないんだよね」
ふーん、と口許を緩めながら、アーヴィンはうっすら微笑んだ。
そして、ぐいっとステラのやわらかな唇にパスタを軽く押しあてた。
「――んっ」
「ほら、あ〜ん。一口でも良いから食べてごらん。美味しいよ」
パスタを押しあてられたステラは、む〜……と唸った後、まるで釣り糸に食い付いた魚のようにパクリとフォークにかぶり付いた。
――あ、美味しい。
もぐもぐと頬を動かしながら、ステラは満足げに舌で唇をペロリと舐めた。
なかなか、上品な味じゃないか。さすが評判高い店なだけはある。パスタの味が、白を基調としたこの店の小綺麗な雰囲気にぴったりとマッチしているのだ。
そんな折。ふと、アーヴィンの後ろの壁に飾り掛けられた絵画がステラの目に入った。なんだろう。どこかこの世のものとは思えない程に綺麗な草原と、風と共に駆る美しき羽の生えた二頭の白馬が生き生きと描かれている。
なんて美しい絵画であろうか。
ステラはしばらくの間、見惚れるようにしてその絵画を眺めていた。
すると、不意にどこからか自分に向けられているであろう視線を感じた。
穏やかでやさしげなその視線。辿っていくと――……
(――っ)
胸がトクンと高鳴った。温かな感情がどっとあふれた。
ステラは、息も忘れるほどに、固まった。――アーヴィンのその焦げ茶の深い瞳から、目がそらせない。
時間にすると、まだたぶんほんの数秒だろうか。でも、見つめ合っている時間が、ステラにはこの上なく長いように感じられた。
アーヴィンに見つめられると、調子狂う。いつもそうだ。心臓がありえないくらいに早鐘を鳴らし、愛しいという気持ちが胸の底から沸き起こってくるのだ。どういう理屈でそんな感情が生まれるのかなんて、考えている余裕などない。
穏やかでやさしい輝きを宿したアーヴィンの瞳。少し垂れぎみの目尻に、形良く整った眉毛が妙にセクシーで。――ドキドキする。
(とろけそうなその視線、やめろぉ!)
ステラは心の中でおもいっきり叫んだ。口になんか、出せるはずもない。
依然として二人は見つめ合ったまま。そしてついに、我に返ったステラはあまりの視線に耐えきれず、逃げるようにふいっと顔を逸らした。
「どうかな?」
今度はアーヴィンが頬杖をつき、首を傾げてステラに尋ねてきた。じっと見つめていたのは、どうやら、ステラの反応を待っていたらしい。
「ん……美味しい」
ステラはつとめて平静を装い言った。
そういえば。目の前のこの男は、最近よく自分に視線を向けている気がする。
それが熱い視線かと問われれば、少し違う気もする。というか、そもそもアーヴィンは自分に恋愛感情など抱いてはいないだろうから、それはきっと親鳥がヒナを見守るそれで。
でも、もしも。万が一にでもリリアの言ったことが可能性ありだとしたら?
『――でも、もしかしたらってあるでしょ? アーヴィンだって本当は――』
本当は――……。少ない可能性にいちいち反応する自分が恥ずかしいったらない。
なんだか、一人で思い上がっている自分に、情けなくなるではないか。それでも、実は心の隅で、本当はアーヴィンも自分を好きでいてくれたらな、なんて期待していたりする。
ステラの「美味しい」という受け応えに対してアーヴィンはにこやかに微笑み、何事も無かったかのようにパスタを口に運んでいた。
(……のん気なヤツめ)
コツコツコツ。――そこへ。ステラの耳に規則正しいヒールの音が聞こえた。テンポのかなり速いそれは、なぜか自分達のテーブルのすぐ傍でピタリと止んだ。
そして――。バシャン。と、代わりに冷たい水がステラの顔を襲ったのである。
「ひゃっ!」
声がひっくり返った奇妙な悲鳴。
水をかけられたステラは、訳も分からずに目をつむった。
どうしてかって、その水――氷水がキンキンに冷えていたから。そりゃ、素っ頓狂な悲鳴も飛びだすというもの。きっと、どれだけしとやかに教養されたお嬢様でも、結果はステラと同じであったに違いない。
あまりにも突然なことにステラは驚いて、隣を見上げた。
すると。感じの悪い薄ら笑いを口許に浮かべ、こちらを睨み付けるようにして見下ろす女と目が合った。
(っこの女……!)
紛れもない。ステラの二日酔いの原因を作ったあの女。昨日、部屋でアーヴィンと躯を交えていたあの女だ。
「あらま、ごっめんなさぁ〜い。ついつい手が滑っちゃって。あらやだ、折角の綺麗なお顔が台無しになっちゃったわ。ホント、ごめんねぇ?」
女は大袈裟に甲高い声を上げ、姿勢を低くかがめた。そしてステラの耳元でクスリと蜜に微笑み、ささやいた。それはそれは、まるで虫のささやきのよう。アーヴィンには聞こえない程に小さな声だった。
「……ねぇ。あなた、うざいわ」
カチン。――もう頭きた。
ステラはギリッと女を睨み、腹いせに女のつま先を強く踏んづけてやった。
すると、女は一瞬表情を歪めたが、ニヤリと口角を吊り上げて
「……そういえば、聞いたわよぉ?」とつぶやいた。
そしてまるで勝ち誇った微笑みを浮かべ、まざまざとステラの耳に呪いの言葉を焼き付けたのである。
「9年も一緒なのに、彼があなたに何の気も起こさないなんて……。女として絶望的じゃなくって?」
「……!」
「ンフフ。彼とのセックス……とーっても、気持ち良かったわぁ」
――お気の毒に。女がそう呟くよりも速く、パシン、という乾いた音が店内に響いた。
「っ……痛…」
この度、小綺麗で美味しいパスタ店は女の修羅場と化した。
女は涙をためた瞳で赤く腫れた自分の頬を手の平で押さえ、ステラは女の頬をぶった左手首をキュッと握っていた。
――ジンジンする。痛い。この女をぶった左手の平も、そして心も全部。
頭に血が上っていくのがわかった。いざ女を目の前にすると、まざまざと怒りが込み上げてくる。何よりも、その勝ち誇った笑みに腹わたが煮えくり返りそうだった。
――たった一度アーヴィンとヤッたからって、だから何なんだっての。
「ステラ!」
アーヴィンが、ガタンと音をたてて慌てて立ち上がった。周りからは、いっせいに好奇な視線が向けられる。
「やったわね!」
――バシッ。今度は、女がステラの頬をぶった。ついでに、女の伸びた紅い爪にかすられ、頬からツーッと血がたれた。
(この女、調子に乗りやがって!)
火山が噴火した。もう一発叩いてやろうと、ステラはおもいっきり腕を振りかざしたが、それはあっけなく拘束されてしまった。
アーヴィンに腕を掴まれたのだ。
「やだ、離せよ!」
「ステラ」
「離せったら!」
――パシン。三回目の音。それは、女のものでも、ステラのものでもなく。
「……目、覚めたかい」
「……っ」
アーヴィンが、軽くステラの頬を叩いた音だった。
「――いい気味」
女の半笑いなつぶやきが聞こえた。でも、もうそれすらどうでもいい。
――どうして。
(……アーヴィンは、その女の味方をするのかよ。あたしより……その女を選ぶのか……?)
女にぶたれた箇所よりも、アーヴィンにぶたれた頬の方が、よけい痛んだ。いや、頬だけではない。胸が、心までもが痛んだ。見えない雨が、虚しくステラの心を濡らす。
周りの視線が、容赦なくステラに降り注いだ。一人の男と二人の女。それも、ガキ(24歳)とスタイル抜群の美女。アーヴィンと並べてみれば、女の方がよく吊り合っている。はたから見れば、それはそれは誰が見ても一目瞭然。
――そうかよ。わかった。もう……いい。
こらえていた涙がひとすじ、赤く腫れた頬を伝った。――泣くもんか。泣いたりしたら、未練がましい。
でも、ひと粒涙が零れてしまうと、堰を切ったように次々とあふれだしてくるのが涙というもの。
ステラは唇を強く噛み締めた。
「……やってらんないよ」
ポツリとつぶやいて、ステラはアーヴィンに背を向けた。涙のしょっぱい味が、さらにステラの心に土砂降りの雨を降らせる。
「……さよなら」
背中越しに、告げた。別れを、告げた。
アーヴィンの呼び止める声も、周りの視線も無視して、ステラは店から出て行った。
――たとえ女として見られていなくても、アーヴィンの一番近くでいたい。
そう願ったのは、他ならぬ自分なのに。
自分から……最後の居場所も失ってしまった。
『――強いね』
リリアの言葉が、脳裏にくっきりとよみがえる。
「あたしは……弱いよ」
ステラは走り続けた。アーヴィンは、追っては来ない。
頬を伝う涙の粒が、今日はやけにしょっぱかった。 |