第八章 翌朝のできごと
天井に映ったものは、ゴツゴツした木目模様。目が覚めると、そこは巨木の空洞の中だった……。
「……どうして」
クロードはわけが解らずに、空洞の中から呆然と外の景色を見渡した。草木の鮮やかな黄緑に、煌く朝の光がやさしく降りそそぐ。夜の間に霜に濡れたであろう葉っぱは雫を滴らせ、その透明感たっぷりな水滴が地面に吸い込まれていく。少しひんやりとした、なんとも爽やかな朝。
きっといつもなら、こんなに気持ち良い朝に満悦して、のん気に背伸びでもしていただろう。しかし今日は違う。のん気になんか、なれるはずもない。
「あれは夢……だったって言うのか?」
この状況下、哀しいことに最もその解釈が違和感も無くしっくり来る。だが、クロードにはどうしてもそんなことは受け入れられなかった。嘘だ。絶対に。そんなはずはない。次第に冴えてきた頭に、必死に繰り返し言いきかせる。
「俺は確かにジュリアに逢ったんだ。この腕で、彼女を抱きしめた。……よな?」
最後は疑問形。時が経ち、考えれば考えるほど、だんだんと曖昧にぼやけてくるのが記憶と言うもの。
もしかして本当は全部夢だったのかもしれない。こんな思いが胸をよぎる。しかし、どうしても納得いかない。いや、認めたくない。
「……そうだ。そういや俺は湖に落ちて、……声を聞いたはずだ。耳に心地よく響くあの声を……」
クロードの記憶に残っている光景、それは――――……
水に飲まれて沈みながら、朦朧と霞みゆく意識の中、神々しく神秘的な光を纏った美しい人魚を見たのだ。人魚はクロードの体をやさしい光のヴェールで包み込むと、やわらかな黄金の瞳を細め、そっと語りかけて来た。
『若き光の民よ……ここで命尽き果てるつもりですか? 足掻きなさい、もがきなさい。貴方はまだやり残したことが沢山あるはず。今ここで死ぬことは、けっして許されません』
(……そうだ。…俺は…まだ、死ねない……。…でも……身体に力が…息が…)
クロードは、ぼんやりとした意識で考えていた。まるで脳が麻痺したかのよう。半分、もう何が何だかさえわからなくなってきている。それに、頭で考えても、水に沈みゆく身体が言うことをきいてくれない。
冷たい湖の底が呼んでいる……。水に揺られ、ずっしりと、瞼に重みが加わる。眠りの世界へ誘うように、心地よい睡魔の波が押し寄せてくる。そしてついに、とうとうクロードは瞼を閉じた。
『哀れな光の若者よ。我が名は“水のウンディーネ”。主の命により……貴方を救ってさしあげましょう。貴方は我々の、この世界の希望なのですから。光の敬愛に満ちあふれた、あの世界を取り戻すのです』
どこまでもやさしく、それでいて深く心に響く、そんな声が微かに耳の奥に浸透していった気がした。やがて瞼の裏が真っ白な光の世界になり、そこで、完全にクロードは意識を手放した。
それからのことは、一切覚えていない。記憶というパズルの破片が、すっぽり抜け落ちているかのように。
――あの声の主は……精霊?
クロードはハッとし、立ち上がった。巨木の幹に手を添えて、今だおぼつかない足取りで空洞から外にでた。
すると一瞬、外のまぶしさに目が眩み、反射的に頭上を手のひらで覆った。
目一杯新鮮な空気を肺に取り込み、クロードはお目当ての人物を探す。
その人物は、案外簡単に見つけることができた。それもそのはず。彼女は近くの丸太に腰掛けていたのだから。いつもは結っているグリーンの髪を、今朝はおろしたまま、おもむろに風に靡かせている。彼女はクロードの接近に気が付いたようで、緩く波うったその綺麗な髪を、細く白い手でかき上げると、ゆっくり振り向いた。
「おはよう、リリア」
「あら、おはようクロード」
にこりとやわらかく微笑むリリア。小鳥のようなその愛らしさに、きっと数多くの男性陣がハートを射抜かれ、くらっとくるだろう。
しかしクロードは、至って普通にリリアの傍まで歩み寄ると、あー…と少し躊躇った後に咳払いをして訊ねた。
「昨日の夜のことなんだけど……何か覚えてないか?」
問われたリリアはきょとんとしたままだ。それでも、ぴくりとほんの微妙に眉が痙攣した。
「昨日の夜? どうして?」
「あー……いや、だからその。例えばいつの間にか俺がいなかっただとか、リリアが精霊を呼びだしたんだとか。ほら、なんかあるだろう。……な?」
必死に取り繕うクロードに、本来の高めで可愛らしい声のトーンを、少し下げてリリアが言う。
「知らない。別になんにもないもん」
リリアはなぜか少し頬を膨らませ、ぷいっとクロードから視線を逸らした。
――なんでリリアが怒るんだ? 俺がなにかしたか?
ますますわからなくなったクロードは、がしがしと困ったように頭を掻いては、リリアに聞こえない程度の小さなため息を吐くのであった。
「おーい! “ゼル君特製スペシャル朝飯”の準備ができたぜー!」
そこへ、タイミングが良いのか悪いのか。朝からやけに元気なゼルが駆けて来た。片手には、小ナイフを握って。それも、なんだろう、刃先に付着した青い液体が、朝日を吸ってギラリと輝いた。それを目撃した瞬間、リリアが慌てて立ち上がる。
「ちょっと! それ血! ゼルったらなに捕ったの……」
「え? 何って――“フェルー”――だけど。こう見えても俺って実は料理上手でさー! 今日はデッカイ獲物も捕れたし近くにチコの葉もあったし、絶品料理が――」
浮かれるゼルとは反対に、だんだんと顔色を青ざめはじめたリリア。
“フェルー”という名を聞いて、その刃先の青い血を凝視して、リリアはガクンと膝を折った。力なく地面に座り込み、今にも涙が垂れそうな勢いで、ひとりブツブツ言っている。まるで、そこだけズーンとした暗くて重いオーラがあるかのように。
「あれ? リリア〜」
ゼルがリリアを覗き込むと、リリアは素早く顔を上げて上目遣いに潤んだ瞳でゼルを睨んだ。
反則だ。その瞳にうるうると溜まった愛らしい涙は反則だ。
「ゼルのバカぁ〜! フェルーはね、フェルーは“神鳥”なんだからぁ! 神に仕える神聖な鳥なの! 捕まえちゃダメなのっ、殺しちゃダメなのっ!」
「しんちょー?」
頭の上に“?”を浮かべ小首を傾げるゼルに、リリアはこくんと頷いた。
フェルーとは、全身をふさふさの真っ白な羽毛に覆われた巨鳥のことである。その神々しいまでの姿、そして響き渡る教会の鐘の音よりも綺麗で天使の歌声よりも美しいとされる鳴き声に、神の化身とまでされ、古くより“神鳥”として扱われてきたのである。――ある種族の間では。
そしてちなみに補足すると、ゼルの摘んできたチコの葉というのはハーブの一種だ。
ゼルに引かれ、半ば強引に料理の前に座らされたリリア。
葉でできた器に、太い木の枝を刳り抜いて作ったであろう即席フォーク。目の前には、あられもない姿に変わり果てたフェルーが、チコの葉に包まれた状態でこんがり焼けていた。そして極めつけには、人数分のなんと三羽、それも親子であろうフェルーが美味しそうに並べられている。
ちらりと横目で見やれば、フェルーを焼いたであろう薪の燃えかすが、リリアの目にとまった。
「そんなに落ち込むなって、大丈夫大丈夫! やっちまったもんは仕方ないし、きっと鳥だってリリアに食べてもらいたがってるぜ。な?」
豪快に、焼けたフェルーに丸ごとかぶりつくゼル。
クロードもそ知らぬ顔で黙々と食している。時折ゼルに称賛の言葉を口にしながら。
「……っ」
しばらく焼けた料理を眺めていたリリアだったが、あまりの香ばしい匂いに、食べてくれと言わんばかりの焼け加減に、ごくりと生唾を飲み込んだ。
そして、なんとも間の抜けたグゥ〜というお腹の音が。それを耳にして、にやりと、男二人が笑った。
「わかったわよ! た、食べればいいんでしょ、食べれば!」
リリアは恥ずかしそうに赤面すると、もうどうにでもなれと、フェルーに噛り付いた。
……意外と絶品。なにか飲み物が欲しい。リリアがそう想っていると、丁度良くクロードが水筒を取りだし、ごくんと水を喉に流し込んだ。
「ね、それちょうだい」
リリアは、クロードがまだ飲み掛けていた水筒を奪うと、スッと自分の唇にのせた。そのまま口内に冷たい清涼水を含む。さり気なく間接キス。
「ん、美味しい♪」
なにが美味しいのかクロードには内緒。リリアはふふっと笑うと、ふわふわの笑みでクロードに微笑みかけた。
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