第12話 『ありがと』 オルトロス
オルトロスは奈美の住む新見家の帰路の途中、ぼんやりとあの不思議な少年――ライトの事を思い出していた。
闘技場で始めて目にしたときは何の魔力も有しないただの人間にしか思えなかった。しかし、少し冷静になって考えてみろ! 逆に魔力が全くない人間など考えられるか? 僅かしかない位ならまだ話は分かる。だが正真正銘まったく奴からは魔力が感じないのだ。これほどの異常は他にはあるまい。
ライトの異常性が証明されたのはキマーラとかいうオカマ幻獣がズダボロになったオルトロスの頭部目掛けて脚を踏み下ろしたときだ。
死を覚悟し目を閉じるが意識はいつまでたっても失われない。恐る恐る目を開けると、オルトロスを抱き上げているライトがいた。思考が真っ白に染まり、脳が考える事を停止する。
ライトはオルトロスを行員や客達の隣の床に下ろすと、にっと口端を引く。
「お……まえ?」
やっとのことで絞り出したオルトロスの言葉に対し、ライトの返答は『ここからは道を踏み外した僕ら外道畜生の生きる世界』だった。
この言葉に込められた真の意味をオルトロスはその直後、嫌っというほど理解した。
オルトロスがようやく視認し得るキマーラの爆撃のような攻撃を全て左手一本で受け止める。
最後の一撃を左手で軽々受け止めたライトの口角が上がり、人間とはとても思えない凶悪な顔を形作る。心臓を素手で鷲掴みされたかのような激烈な悪寒が身体中を駆け巡る。
飛び去ったキマーラの顔からは冷たい汗が滝のように流れ落ちていた。
「お前、誰だ?」
その疑問を契機にライトは本性を現し、銀行内は瞬時に魔境と化した。
可視化した濁流のような赤黒色の魔力がライトから放出され、部屋中に放出されていく。ライトの足元の床にピシリと蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
出鱈目すぎる。魔力強度だけなら、父であるフェンリルにすら達するかもしれない。
気に入らないがキマーラは強い。オルトロス以上に己の置かれている状況を理解していていた。
逃げるようキルに進言するキマーラ。その奴の腕から血液がシャワーのように流れ出す。そしてライトの手にはキマーラの腕。奴が何かしたのは確実だが、オルトロスには動きの微動すら見えなかった。
それからライトは怖気きった顔つきで逃げようとするキマーラの背後に一瞬で移動し、後ろ髪を掴み、床に叩きつけた。キマーラの顔は数回で潰れる。
ライトの右手から幾つもの魔法陣が出現し、キマーラの傷を直ちに修復する。オルトロスは魔術には疎いが、効果から察するに回復魔術。ならなぜ自ら傷つけた者を回復する? その素朴な疑問の答えは最悪な形で証明される。
「は、離――ぶっ!!!」
キマーラの拒絶の言葉など歯牙にも駆けず、ライトは顔面を叩きつけた。
……
…………
………………
恐ろしい。オルトロスは恐ろしかった。薄ら笑いを浮かべてこの悪魔のごとき所業を実行するライトがひたすら恐ろしかった。
傷害し回復し、傷害し回復する。キマーラの顔は次第に変形し見るも無残な肉塊へと変貌していく。
絶望からか回復されてもうめき声すらあげなくなったキマーラを放りなげ、ライトはキルにグルンと顔を向ける。
キルの口から悲鳴が漏れる。ライトがキルを見た理由は強いからなどではなく、この部屋で意識があるのは奴だけだから。キル以外の強盗達は皆とっくの昔に安眠の旅へと出発している。
キルは腰を抜かして立てないのか、腹這いとなって正面の自動ドアまで移動しようとする。外には警察が一斉に待機しているはず。つまり警察に捕縛されたい。その一心で奴は両腕を懸命に動かす。しかし、悪魔はそんな慈悲認めやしない。案の定、奴の眼前に移動したライトは奴の頭部を足で踏みつけ、動けなくする。
「許じて!!」
最後の絶叫にライトの口からクスッと笑みが漏れる。それは失笑だと思う。キルはライトの意図を理解し精根も尽きたのか気絶してしまう。
ことが済みライトの視線がオルトロスに向く。息が止まる。この時ばかりは猛獣の前で震える子羊の気持ちが容易に了知できた。
気が付くとオルトロスは抱き上げられていた。身体を強張らせるが、ライトはさっきまでの悪鬼のような姿は鳴りを潜め、年相応の少年の顔となっていた。
今のライトはオルトロスに危害を加えないと判断した途端、今まで麻痺していた気絶しそうなほどの痛みが襲ってくる。
朦朧する意識の中でオルトロスは地面に寝かされ、ライトがその胸に右手の掌を当てているのがわかる。
痛みが消えていき、次いで意識もはっきりとしていた。
胸に伝わる初めての感触と異性に触れられたというその事実を正確に認識し、羞恥で顔中が発火していく。ライトを突き飛ばして胸を抑える。
「き、君、まさか女の子?」
顔を引き攣らせてオルトロスに尋ねるライト。初めて異性に触れられたショックと壮絶に取り乱すライトの姿を視認したせいで、オルトロスにあった最後の恐怖が安堵と羞恥そして強烈な疑問に置換されてしまう。
此奴は何者なんだろう? 少し前まであった恐怖の権現のような存在は完全に姿を消し、今はどうみてもどこにでもいる慌てふためく年頃の少年が目の前にいる。
「お前は――」
口から疑問を絞り出そうとするが、疑問を自分でも上手くまとめられない。
不意に視線がライトと合うが、慌てて目を逸らす。逸らした理由はオルトロスにも判然としないが、不思議と恐ろしさが理由ではなかった。ただ奇妙な気恥ずかしさがしてしまっただけ。
そんなオルトロスに、プッと噴き出すライト。
全身の血液が沸騰するような羞恥心が湧き上がり、真っ赤になって疑問を投げかける。
「悪い、悪い。ちょっとした思い出し笑いさ。
もう大丈夫なようだし、僕はいくよ。君も奈美を安心させてあげなよ」
ライトはそう言うと、クルリと踵を返し歩き始める。
まだ知り合った期間は浅いが奈美は父以外にオルトロスを一人前の幻獣と認めてくれた数少ない友。奈美に早く元気な姿を見せてやりたい。
そしてオルトロスを認めてくれたもう一人の人物が目の前にいる。ライトはあの時、『君は英雄としての目的を果たした』、そうオルトロスに言ってくれた。
だからライトの背中に頭を下げ、言葉を紡いたんだ。『ありがと』と、そう伝えたんだ。
ライトの姿が、声、表情が頭にフライパンの焦げのようにこびり付いて離れない。何度も頭を振っても離れない。もう、微塵も恐ろしくなんてないのに、気が付くとライトの表情が浮かんでいる。あの屈託のない笑みが浮かんでいる。
オルトロスはどうかしてしまったのだろうか? 帰ったら奈美にでも相談してみよう。そう心に誓い、オルトロスは帰路につく。