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無自覚の距離で告げる恋

作者:白銀トオル
 彼が視線を巡らせれば、全てを凍てつかせ。
 彼が口を開き語れば、小春日も氷で覆い尽くし。
 万が一にも、彼の怒りに触れたならば、生を絶望で塗り潰される。

 ……というような、一体何処の伝説ですかという畏怖と恐怖の入り混じる文句が、軍部のあちらこちらで実際に語られている。
 これらの重い言葉を生み出させた人物は、偉業を打ちたてた故人ではなくて、今現在普通に元気に生きている人物であるので間違えてはならない。軍部の方々で語られるその人は、戦闘部隊の一つを束ねる長の地位を賜っている男性だった。
 最初こんなものを耳にすれば、首を傾げる者と恐れ慄く者の半分に分けられて、そしてその後多くの者が後者の恐れ慄く者へと流れてゆく。苦い経験者はかくも語る、無事に過ごしたいならこれを忘れるな、と。一応其処の、事務作業員の軍属として働く己も耳にした。そしてその意味を、身をもって知った。知った上で思うのである、その通りなのかもしれないが言うほど酷くはないと。
 残念ながらそう思う己は、少数派どころか幻の一派であるらしい。何故だ。

 ちなみにその生ける伝説は、己――シエラにとっては……。



 今日も今日とて、仕事が順調に運ばれる。
 カリカリ、パサパサ。ペンと紙が移動する音は絶えず、実用性を重視した作業部屋を支配し続けている。その一角に自らの机を置いているシエラも、目の前の書類チェックで忙しい。
 各所、各部隊から毎日のように提出される書類のほとんどは、事務作業全般を請け負う軍属――事務官へと集積されるので、その量は笑えてくるほどうず高く積まれる。有事には剣を抜き荒事と渡り合う戦闘部隊と常に比べられる宿命にある事務官であるけれど、此処だって毎日戦場だ。

「――――シエラ」

 誤字や脱字の確認に検算作業、戦闘部隊が指を指して笑ってくるペンとインク壷と電卓が、事務官の三種の武器。今日も指に馴染む、頼もしい相棒たち。

「シエラ」

 それにしたって、どういう間違え方をしているのだろうかこれ……。こんな間違え方をする間は、事務官の電卓さばきを馬鹿になんてさせてやらない。

「……お、おい、シエラ、シエラっ」
「何ですかアインズさん。今ちょっとこの検算が……」
「シエラっ検算は良いから、おいっ」

 シエラの隣の机で同じ作業をしている、年の近い同僚の男性――アインズが、小声で必死に叫んでいる。掠れた小さな声なのに、凄まじい剣幕を滲ませている。アインズさんって器用ですねー、と思いながら作業を続投するも、肩や腕をボタン連打並みの速度でドスドスつつかれた。
 あー! 字が曲がっちゃった! アインズさんどうしてくれるんで、



「――――シエラ事務官、私が呼んだ際には直ぐに応じろと前にも言ったはずだが」



 ヒュウ、と凍える冷気を背後で感じた。作業部屋を覆う静寂が氷に閉ざされ、不気味な無音をシエラもようやく察した。
 抑揚なく呟いた低音が、後ろからシエラの頭の天辺へ落ちてくる。ぶわり、と冷や汗と悪寒が全身に広がる。それを聞くや否や、シエラは椅子から高速で立ち上がり振り返った。敬礼も忘れずにやったが、勢い良すぎて隣のアインズの顔面へ図らずも張り手を食らわせてしまった。「痛い!」と隣から聞こえた漏れた悲鳴に心の中で謝罪し、全神経は今僅か目と鼻の先に聳える人物へと注ぐ。黒い生地であつらえられた隊服に包まれた肉体は、がっしりと鍛えられしかも背丈が伸びやか、標準と比べ少々小さなシエラでは前に立たれるだけ聳える壁である。このほぼゼロ距離から顔を見上げても全貌が全く視界に入らず、目の前には胸の下、要するに腹部しか映らない。腰に差した剣の柄が、キラリと輝いているのはよく見える。

「は、も、申し訳ありません! あの、け、検算作業につい夢中に……」
「仕事に夢中になるのは結構だが、私の声は耳に入らないと言いたいのか」
「そんな、隊長の声はいつだってうるさいくらいに聞こえますンモグァ!」
「誰がうるさいか、一言多いのだ貴様は!」
「いひゃ、いひゃいでふ、たいひょ……ッ!」

 むぎゅむぎゅと、伸びてきた大きな手が顔をいじり倒す。シエラは咄嗟にその手を掴んでみたが、離れるわけがない。もう今己がどのような顔面になっているか定かでないが、少なくとも人様に見せるものでなくなっているのは確かだと思われる。そんな顔を、よりによってこの人へ見せるのは女心が傷つくのだが……見せたくない人がやってくるのでどうしようもない。嬉しいがしかし、あんまりそうやって熱心に見つめないで貰いたい。
 シエラの指先に触れたのは現れた人物の指であるが、滑らかな毛皮の感触もあった。シエラの頭も片手で覆ってしまいそうな、大きなそれは……薄い金色、人間の肌ではない。そして、ふかふかな柔らかな毛皮をたくわえた首の先、遙か彼方の頭上にあるお顔は人間の男のそれではなく。
 薄い金色の、それは凛々しい狐のそれである。
 不機嫌そうにシワが寄る鼻の筋、尖った口先、細めた炯眼、何よりも目を引く大きな三角の耳。何処を見ても人間の要素はない。彼は狐の獣人であるから。

 この人物こそが、軍部の方々で語り継がれる生ける伝説。
 戦闘部隊の一隊を統率する部隊長の狐獣人、レイフェンその人である。

 ここいらでは珍しい名の通りに、彼は元々異国の出身であるらしく、扱う得物は剣よりも太刀という異国の刀剣が得意だとか。シエラも数回、彼のその太刀を使っての訓練を見た事があるが、美しいの一言に尽きた。華美さはない殺風景な風景の中、金色の狐が尾を揺らし異国の剣筋と共に踊る。あれは本当に、美しい。
 だが通常はこの通りに、難儀な性格の残念な狐獣人である。それはシエラのせいであるかもしれないが、それはさておき。

 ピョコピョコと爪先立ちになるシエラの顔面をしばらく弄った後、ようやくレイフェンの大きな手が離れて行った。顔面大丈夫? 麺生地みたいに伸びてない? と見当違いなところをシエラは心配しながら、改めてレイフェンを見上げる。身長差が顕著で、本当に聳えるようである。
 隣の席のアインズも含め、下っ端事務官の作業部屋には沈黙が重く漂う。だが、その空気から切り取られているのは、レイフェンとシエラのみでしかも気付いていない。

「えっと、ところでご用は何でしょうか」
「……そろそろ時間だ、忘れないよう引き取りに来た」

 ちなみに彼が引き取るのは物品ではなく、シエラを指す。私は物かというつっこみはもうしない。慣れっこなので。
 ただ、シエラは壁に掛けた時計を見上げて首を傾げる。確かに、レイフェンと約束事はしていたのだが……。

「え、でも隊長……お約束していた時間はまだですよ」

 さすがに三十分以上も空いていると、かなりフライングではないのだろうか。と暗に含んでしまったのが伝わったのか、細い狐の瞳がキラリと輝く。勿論、マイナスの意味で。

「……ほう、嫌だと。そう言うか」
「ちが、違いますよ! 私の机の上がまだ片付いていなくて、隊長のお仕事の手伝いには直ぐ行けないんです」
「ならばそれらも持ってこい。問題ないだろう」

 わ あ な ん て 素 敵 な 横 暴 ぶ り

 さすがは気難しさも伝説級の御方だ。もはやシエラの事情などあってないようなもの、レイフェンの前では塵にほぼ等しい。ただ、そんなに時間を早めるなんて……もしかしたら突然仕事が降ってわいたのかもしれない。シエラは小さく肩を落とし、分かりました、と告げた。

「じゃああの、せめて上に言って……」
「あーシエラ、事務長がさっきから一生懸命GOサイン出してるから、気にしないで行きな」

 アインズの小声が、こそっと届けられる。顔をレイフェンから逸らして室内を窺うと、その上座に机を置く事務長(御年五十歳)が身ぶり手ぶりで「行ってよし」と確かに告げていた。だが年を感じさせない動きの切れの良さに、彼の感情が透けているようにも感じる。
 事務長、嬉しいけど、何も其処まで真っ青にならずとも。
 相変わらず沈黙する部屋で、真摯に向けられるのはレイフェンの無言の眼差し。周囲を見向きもせず、シエラの頭の天辺へ降り注ぐ。シエラの頭の天辺へ降り注ぐ。

「……分かり、ました」

 シエラに出来る事と言えば。いつものように、事務官の三種の武器という名のマイ文房具を携えて。やりかけの仕事を、全て小脇に抱えて。行くぞ、と低い声で告げたレイフェンの背後へこそこそと続く事である。
 いつもの光景、いつものやり取りであった。
 シエラとレイフェンが立ち去った部屋からは、あからさまに安堵し緊張を解く空気が感じられた。



 んしょ、んしょ、と仕事道具諸々を両脇に抱えるシエラの前を、軍人らしい無駄のない姿勢で狐獣人レイフェンは進む。金色の豊かな尻尾が左右に揺れる様は美しいが、歩くの早い。さすがに言える気がしないので懸命に着いてゆくが、廊下を行き交う人々から哀れみや苦笑いや憐憫などの感情の混ざる視線を幾つも賜った。これはやっぱり私に向けられているのだろうか、とシエラは気にしながらも、見据えるは目の前の長躯の広い背中のみ。

「……シエラ」

 と、レイフェンの背が振り返る。翻る尻尾の動きを視界の隅に納め、頭上の狐のかんばせを見上げる。顔が狐の為に感情は読みづらいものの、険しく顰められているような気がした。遅すぎたのだろうかと内心ひやりとしたが、レイフェンは大きな溜め息をつくと、シエラが抱えていたやりかけの仕事の書類束をすぽんっと引っこ抜く。途端に軽くなる、シエラの左脇。そしてその抜き取られたものは、レイフェンの大きな手で持ち上げられる。

「お前は見ていてまだるっこい……さっさと歩け」

 どちらかと言えば冷厳な口調であるが、言葉と行動がちぐはぐである。一瞬驚いたものの、こういうところが難儀な人であるのだと再確認し、シエラは特に怖くも無く笑みをこぼした。
 荷物を強奪してさっさと歩き出すレイフェンの背中を追いかけて、シエラも足を動かす。先ほどと比べれば、少しだけ歩く速度が落ちていたような気がする。
 言葉少なく向かった先は、本来ならば無縁なはずだった、けれども今や見慣れてしまった……レイフェン率いる、第四戦闘部隊の仕事部屋である。

 レイフェンが率いる部隊ともなれば、彼をそのまま転写したような人々がいるのではなかろうかと想像が過ぎるものだが、実際はそうでもない。扉を開けて踏み入れる隊長にも、その後ろにちょこんと着いているシエラにも、等しく「お疲れ様でーす」と和やかな声が掛けられる。全て男の、低かったり野太かったりする声であるが。
 事務官ならば女性も多いが、やはり戦闘部隊ともなると男性が圧倒的に多い。それはどの部隊も同じで、第四部隊もそうなのである。隊服に身を包む鍛えられた男性達が、部屋の中で作業をしている光景も、シエラには見慣れてしまった。戦闘部隊なんて、無縁だったはずなのに。
 お疲れ様です、失礼します、と頭を下げ彼らの脇を通り抜けてゆく。

「あれーシエラちゃん、今日は随分と早いね。どうしたの」
「どうせ隊長が連れて来たんだよ。時間まで我慢できな、」
「無駄口を叩くな其処の阿呆、仕事増やすぞ」

 被さったレイフェンの冷徹な声の声が大きく、第四部隊員の声が聞こえなかった。彼らは仕方なさそうに肩を竦めるが、シエラには微笑ましそうな、或いは苦笑いのような、不思議な笑みを向ける。会釈しながらもシエラの頭上では「?」マークが飛び交った。が、レイフェンが冷ややかな声で「気にしなくて良し」と背中を見せたまま告げたので、疑問は言葉にならなかった。
 レイフェンは自らの席に辿り着き、椅子を引いて腰掛けた。今日も机上の書類は山積みのようだと、シエラは片隅で見下ろす。

「……時間になったらまた来い。それまでは、こっちの方を全て片付けておくように」
「はい」

 軽かった左脇に、再び荷物が戻る。シエラは頭を下げて、慣れた足取りで一度レイフェンの側から離れた。そして向かう先は、レイフェンの机の隣にある書庫である。大きな扉は開け放たれ、きちんと窓と換気扇もついているので特有のこもった匂いは和らいでいる。その部屋の中央、レイフェンの姿も丁度良く見える場所に、小さな机と椅子が陣取っている。其処が、シエラのもう一つの仕事場であった。
 慣れたように其処へ荷物を置き、椅子へ腰掛ける。持ってきた仕事をまずは片付けるべく、手早く作業に取り掛かる。これが終われば、レイフェンとの約束――――彼の仕事の手伝いだ。


 事務官の他部署への貸し借りは、珍しい事ではなかった。
 事務官は何かにつけて戦闘部隊と比べられる事がある。双方の仕事が、ある意味では正反対だからだろう。だが、戦闘部隊はその訓練量と派遣回数ゆえに、書類仕事を期日中に終わらせる事が難しい場合が結構、いやわりと頻繁に、多い。言い訳といわれてしまうとそれまでだが、其処で活躍するのが事務官である。戦闘部隊の全体人数のおよ半分ほど、少ないが彼らは書類さばきを生業としているので当然その処理速度は馬鹿にして貰っては困る。書類仕事が苦手な者も多い戦闘部隊のあちらこちらで、事務官を借り、手伝いをして貰っているのだ。特別な規約や明記はなく、どの部隊もしている公然のやり取りだ。事務官からすると、やる事も普段と変わらないので、派遣業務のようなものか。
 ちなみに当然だが、散々事務官を蔑ろにした場合には、力を貸して貰えない。「こいつらは絶対に手伝ってやるな」とこっそり回るブラックリストに一度でも乗ったら最後、彼らの多くはほぼ毎回徹夜で殺されるらしい。
 そして、事務官の数も決して少なくないので、数あるその中からお気に入りを見つけるのだ。


 ――――そんなわけで、シエラにもそんな派遣業務が舞い込むのである。現在のように。
 ただ不思議な事に、彼女の場合はどうしてだか第四部隊長の生ける伝説、狐獣人レイフェンにやたら目を掛けて貰っている。特別腕が良いなんて思ってはいない彼女としては、部隊長に此処まで声を掛けて貰える事が毎日不思議で仕方ない。毎日、本当に、よく引っ張り出されて。下手したら、事務長よりもレイフェン部隊長の顔を見る回数の方が多いのではと思う日だってあった。おかげで多くの事務官の中に埋もれる下っ端のはずだったシエラは、レイフェンに首根っこ掴まれたり呼びつけられたりして、とても目立つ羽目になった。
 何でだろう、本当に不思議でたまらない。
 のだが、其処はシエラ、結構上手く渡り合っている。というより、レイフェン相手に今では楽しくお喋り出来ている。……仲良く騒いでいるといった方が良いのかもしれないが。
 ただ、目立つ羽目にはなってしまったけれど、何であれ事務仕事の一部を任せて貰えるのは嬉しい。それも、シエラの本心であった。

 それに、シエラにとっては。部署違いだがレイフェンはもはや上官であり、それと同時に。

(恩人だし、好きな人だし、ね)

 春先から働き始めて、気付けば半年が経過。暖かな風も、秋風となって涼やかに吹いている。シエラは事務官として勤め始めた当初から、この生ける伝説レベルで難儀な人、狐獣人レイフェンに。
 恋をしている。


 作業する事、数十分。ひとまず持ち運んだ仕事は終わらせて、シエラは一度ほっと息を吐く。書庫の小さな時計を見ると、時間も丁度よく、シエラはレイフェンのもとへ向かった。椅子に腰かけるその姿は、すっと伸びてだらしなさが無い。冷ややかな狐の横顔の、その美しい事。

「レイフェン隊長、終わりました!」
「見れば分かる。さて……其処に乗っかっている書類を、とりあえず種類分けしてくれるか」

 其処にって……この小山の事だろうか。シエラはそれを見下ろし、頷いて両腕をその小山へ伸ばす。

「隊長、今日も仕事は多いですね」
「隊長職というのは、そんなものだ」
「そうですね、そのお仕事を任せて貰って……光栄です、んしょ」

 シエラはそれを両腕で持ち上げ、よいせよいせ、と書庫の机へ持ってゆく。

「シエラちゃーん隊長のそれが終わったら、ほんのちょっとだけ俺のところも手伝ってー!」
「あ、はい!」

 彼方から聞こえる男性隊員の声に、シエラは反応して書庫から顔を覗かせた。が、ギラリと光った狐の炯眼に、シエラはヒッと悲鳴を上げる。

「……シエラ事務官、隊員の手伝いもまあ構わんが、私の補助として連れて来た事を忘れて貰っては困るぞ」
「だ、大丈夫です、忘れてません! 隊長の為に、頑張りますから」

 と、ついうっかり恋心が背中を押して要らぬリップサービスをしてしまった。こういう媚びるような言葉を、彼は確か嫌っていたはずだった。まずい、とシエラは焦ったのだけれど……そのレイフェンからはお咎めの言葉は来なかった。ただ少し大きな声で「良いからさっさと仕事を始めろ、お前達もだ!」と周囲にも檄を飛ばす。ぱたぱたと忙しなく揺れる狐の大きな耳と尻尾を視界に納め、慌てて書庫へ引っ込んだ。引っ込んだところで扉は開けられているので、椅子に座って横を向けばレイフェンの姿が見える。

「隊長、心が狭いっす……」
「隊長、独り占めはよくないっす……」
「さっさと仕事を始めろと言ったのが聞こえなかったか阿呆どもが」

 そんな会話を耳にしながら、シエラは小さく微笑む。第四部隊はいつも賑やかで、誰もが冗談だって軽く言い合う。部隊長が引っ張ってきたとは言え、ほとんど毎日のように出張事務に来る下っ端のシエラを、誰も蔑ろにしない。本当に嬉しい事だ。
 その時、不意にレイフェンの視線がシエラへと動く。彼の顔は机へと向いたまま、細い眼から放たれるそれは書庫のシエラに届いた。金色の毛皮に覆われた、獣と人の二つの性を持つ輪郭。ゆっくりと瞬いた獣の瞳は、冴え冴えとして美しい。何を言うでもなく、シエラがにこりと微笑んでみると、意外やレイフェンの尖った口にも笑みが浮かんだ。ほんの一瞬の事で直ぐに消えてしまったけれど、常に気を張って冷厳とする彼を思えばレアな仕草だ。シエラの心の中はふわふわとした暖かさで満ちていた。作業に取りかかるレイフェンに習い、シエラも小山の種類ごとの選別を始めた。

 事務官としても、人間としても、まだまだヒヨッコな私を使ってくれるのだから、精一杯きちんとこなさないと。シエラは自らの仕事を全うすべく、真摯に取りかかる。其処には確かにレイフェンへの恋心もあるけれど、それとこれとはまた別の問題。恋をしても、其処に余計な私情は持ち込まない。
 他ならぬ、シエラが既に知っている事なのだから。
 たかだか下っ端の事務官と、戦闘部隊の生ける伝説。小さな人間と、長躯の狐獣人。ちっぽけな小娘と、荒事を潜り抜けてきた大人の男。
 どうすべきかなんて、考えるまでもない。だからシエラは恋をしながら、既に其処で想いの歩みは止めている。別に苦しくなどない、こうして仕事の一角に触れる事を許され、こうして近くで仕事をさせて貰って。人生に何度あるか分からない、僥倖そのもの。
 それだけで、十分じゃないか。
 これも、嘘偽り無くシエラの本心だった。


 そうして一生懸命に仕事をするシエラを、レイフェンがたびたび静かに盗み見ている事など……知る由もなかった。



 厳かな正午の鐘の音が、建物と敷地内に響き渡る。昼の休憩の時間だ。半分ほどは、時間と共にぞろぞろと移動を始め、敷地内の大きな食堂で昼食を取る。その中には、丸々午前一杯を第四戦闘部隊の事務に当てたシエラも含まれている。ちょこちょこと、獣人などの異種族と人の間をすり抜けて、空いている机の一つに腰掛ける。とん、とトレーを置いてフォークを握ると、その斜め前からすっと人影が近づいた。

「よっお疲れ。此処、良いか」

 事務官の部屋では隣の席の、アインズである。シエラは頷いて、どうぞ、と勧めた。いそいそと昼食のトレーを置いた彼は、シエラの正面に腰掛けた。

「今日もレイフェン隊長に捕まったなあ。周りなんか見向きもしないし、よっぽどお前の事が好きらしい」
「それだけ評価してくれてるなら、嬉しいですよねー」
「うん、いや、そういう意味じゃないんだけど……」

 アインズの物言いたそうな眼差しをさらっと流し、シエラのフォークは昼食のサラダへ刺さる。それを口に運んでもしゃもしゃと咀嚼する。

「あ、そうだ。午前中で私の机の上、結構もう仕事来てますか?」
「ん? ああーちらほら来てたよ。でもお前、午後は戻ってこれるのか?」

 アインズはスープの器を持ち上げ、ずず、と啜る。

「え、戻りますよ? 隊長のお手伝いはしましたし、他の人達のもやりましたし。それに、午後からは訓練だって言ってたので」
「……よく了承したな、あの隊長」
「え?」
「何でもない。お前もお前であっさりしてるよなあ、いつも思うけどさ」

 アインズは不思議そうに、シエラを正面から見つめる。シエラよりも数歳だけ年上の、人間の男性。だが、異性というよりは近所の兄ちゃんといった雰囲気がある為に、シエラが事務官になって最初に親しくなったのが彼だった。席の関係もあったのだろう。
 アインズは、シエラが誰を思慕しているのか、知っている。

「一緒にお仕事出来て、それで十分なのです」
「女の子だなあ」
「女の子ですよー」

 隊長には毎日顔面を伸ばされているけれど。
 仕方なさそうに笑う彼に、シエラも笑みを返す。

「――――お話中悪いね、此処、空いてるかな」

 そう言って会話へ入って来たのは、第四部隊の男性だった。シエラも今ではすっかりよく知る人物であり、またアインズも面識があるので、どうぞどうぞ、と促す。彼は笑い、アインズの隣に座った。

「シエラちゃん、今日も隊長に拉致されてきたな。いつもの事ながらお疲れ様、俺のも手伝ってくれるし助かる」
「いえ、役に立てて良かったです」
「いや本当……徹夜して死んでる連中見るとつくづくそう思う。事務官様々だ」

 それなのに、うちの隊長ときたら。男性はくっと苦々しい表情をした。

「シエラちゃんにろくなお礼も言わんし側に置こうとするし……そのくせ、俺達が頼もうとすると凄い嫌そうな顔するし」
「やっぱりそうなのか、あの人……」
「面白い人だと思いますけどねー私は」

 恐ろしい事を耳にしたとばかりに、男性二人が表情を歪めるその先で、シエラはのほほんとサラダを平らげ丸いパンを二つに裂いた。

「……あの隊長を面白いって、猛者だな」
「……こんなだから、シエラをしょっちゅう呼びつけるんだろあの人」

 こそこそと耳打ちし合う彼らの会話は、シエラには届かず賑やかな食堂の空気に溶けて消えた。

「でもさ、シエラちゃんは実際、うちの隊長平気だよな」

 第四部隊の男性が、しげしげと呟く。まあ言わんとする事は、シエラも察する。非常に長躯な狐獣人の姿は、周囲を圧倒するものもあるし、彼本人の気難しい性格も加わってしまい苦手としている者も少なからず存在する。だがそれだけであれば、方々で語り継がれる事もない。レイフェンの名と存在が目立っているのは、彼の功績がやはり大きかった。

 今は安定して平穏であるこの国は、十年近く前にはとある戦いがあった。都市部を根城としていた過激な犯罪組織と、国の戦闘部隊による、掃討作戦だった。その抗争はとても激しく、組織は最期の足掻きに辺境の田舎へと踏み込み、小さな村々を盾にする行動に出た。その一帯で暮らしていた人々は浅からず巻き込まれたけれど、当時編成された部隊は迅速に当たり、被害を最小限に抑えて無力化した。
 その中にいたとある獣人の働きが、特に目覚ましかったと今も語られている。
 異国の刀剣を操り闇夜の戦いを征した、狐の獣人。彼はその時の姿から《冷血の野狐》と畏怖され、現在は部隊長として君臨している。

 それでもシエラにとっては。彼は、今も昔も、恐怖の対象ではない。

「恩人ですから」

 にこりと微笑む彼女に、アインズらは一瞬面食らう。

「怖くなんかありません」

 あの十年前、辺境の少女を助けてくれたのは、真っ赤に染まっていながら力強く大丈夫だと告げてくれた、狐だった。多くの人が思う《恐怖》を、抱くわけがない。彼女にとっては彼がヒーロー、恩人だったのだから。
 第四部隊の男性が、しばし呆けてシエラを見つめる。柔らかい笑みから何かを察したのか、スプーンをくわえた唇が弧を描く。何処か楽しげな、それでいて納得したような笑みだ。

「……あ、そうだ、アインズさん、さっきの続きですけれど。午後は机の上の仕事、片付けにちゃんと行きますからね」
「ああ、うん、それは良いけど……」

 アインズの目が、途端に物言いたげに陰る。だがシエラは気付かず、カチャカチャとフォークを動かして早めに昼食を腹に納めた。

「ごちそうさまでした」
「はっや、お前今日は昼当番だったか?」
「いいえ、レイフェン隊長が」

 くふふ、と含み笑いをして、シエラは席を立つ。

「午前のお駄賃にお菓子をくれるそうなんです。ちょっとこれから受け取りに行ってきまーす」

 うはは、お菓子も食べれて隊長とお話出来るなんて、役得役得。
 ほとんどスキップに近い、軽やかな足取りで食堂を去ってゆくシエラの背後では、唖然とするアインズら他食堂に居た人々が居たのだが、脳内がお菓子で占拠されているシエラにはやはり気付くのは無理であった。

 シエラの戻った第四部隊の部屋の中には、誰もいなかった――――狐獣人レイフェンを除いて。
 そっぽを向きながらレイフェンから投げ渡された菓子を、シエラは大切に両手で包んで礼を告げる。片手で持てる程度の、小さな包装。中身はクッキーだった。せっかくなので半分ずつ分けようかとも思ったけれど、彼はそれを断って全てシエラに持たせてくる。

「隊長、ありがとうございます」
「ふん、貰い物だ。さっさと食え」
「はい……あの、隊長も食べませんか? 甘いの、お好きですよね」
「……私の事は気にするな。全部食べろ、其処で」

 レイフェンの顔はシエラへと向かず、机を見下ろしている。本を開いているようだ。凛々しいその狐の横顔が、今日もやはり素敵だ。せめて人間でなく獣人であれば、と思う時もあるけれど、これ以上の僥倖を求めはしない。
 せっかくなのでお言葉に甘え、シエラはレイフェンの隣に椅子を持ってきて、ちょこんと腰掛ける。包装の中に指を伸ばして、一つ摘んで口に運ぶ。

「ふふ……美味しい」

 シエラは上機嫌にクッキーを口へ運ぶ。しっとりとした食感と甘い香りが口に広がって、自然と笑みが咲く。
 小動物のように夢中でクッキーを頬張るシエラを、レイフェンの細い狐の眼が盗み見る。その目が《冷血の野狐》と称される軍人とは思えないほど柔らかかった事を囁き合う者は、この部屋にいない。




 ――――その頃、シエラが去った食堂では、ちょっとした会談が開かれていた。

「……なあアインズ、シエラちゃんってさ」
「ああ、シエラ、レイフェン隊長の起こす行動に全く疑問も何も抱いてないぞ」
「マジかよー普通気付くだろー!」
「気付かないのがシエラだろ。というか、最初から『想うだけで十分です!』って勝手に悟りを開いてる。俺が何度もさりげなく言ったって聞きゃしない」

 アインズと第四部隊の男性は、昼食を食べながら、常思う事を吐き出した。

「他人を滅多に近づけないあの隊長が、職権乱用しまくって呼びつけてるのに?」
「そういえば最初からシエラを気に入ったな。しかも気付いたら増えてるし、第四部隊のところに行く時間」
「此処のところ人事部と大論戦してるぞ、専属事務補助員をつけろと」
「完全に囲う気じゃねえか!」

「自分以外がシエラちゃんを呼ぶ事を嫌って、部下にまで嫉妬剥き出しなんだよ。それでも俺は仕事を頼むけどな」
「お前いつかレイフェン隊長の太刀の錆になると思う」
「それを言ったらお前もだろ、アインズ。一番敵視してるのお前だもん」
「言うなよ、毎日痛感してるよ。事務官の部屋に来るたびに突き刺さるあの視線……毎日戦いだ、背中を刺されやしないかって」

「全然見てないぜって振る舞っていながら、わりとシエラちゃんガン見してるし。しかも気配消して」
「ちょこちょこ動いて可愛いんじゃないのか。……ガン見すると言えば、あの人シエラの顔を高確率で弄るんだけど」
「ああ、そういえば」
「シエラの唇をな、美味そうな肉を見つけた肉食獣みたいな目で見下ろしてるんだ……」
「怖いな! わりと洒落にならないよあの外見だと!」

 其処で二人の会話が途絶える。こうやって、改めて考えると……。

「……うちの隊長、ちょっと行動がへんた……」
「言うな、それ以上は言うな。威厳に関わるから」

 ずず、と二人揃ってスープを口に含む。

「……何で気付かないんだろうな。やる事全部、シエラちゃんの事が好きだって叫びまくってるのに」
「さあな……レイフェン隊長のコミュニケーション能力が絶望的なせいか、それともシエラが鈍感過ぎるのか。というか、隊長本人は自覚してるのか?」
「どうなんだろうな、あれは。自覚はしてるけど認めきれない、みたいな曖昧な感じもする」

 下っ端と隊長。少女と大人。人間と獣人。
 何もかも違う位置に存在しているくせに、互いを結びつける明らかな引力が発生している。それでもあの二人は。

「……俺たちが心配したって仕方ないかもなあ」
「……そうかもなあ」

 その後、二人は黙々と昼食を平らげて、トレーを返却口へと持ってゆく。あ、と思い出したように声を漏らしたのは、どちらであったか。

「心配といえば、一つ思い出した」
「奇遇だな、俺もだ」

 二人の肩が並んで食堂の出入り口へと向かう。

「春先の、獣人の発情期……どうなるんだろうな」

 ふと過ぎる、人間とは異なる獣人の習性。発情期、すなわち、繁殖期。獣性を持つ種族の、連綿と続く本能だ。
 これまでは多くの獣人は薬で抑制したり休暇を取ったりとして各自が対応していた。あれらの中でレイフェンは、普段と全く同じように職務をこなすという鉄人ぶりを発揮していたのだが、果たして今回はどうなるのだろう。
 何せレイフェンを唯一崩壊させる、シエラという存在がいるのだから。
 二人は考えてみたが、直ぐにそれを振り払った。心底面倒くさそうな、或いはとばっちりが向かってきそうな、嫌な予感しかしなかったので。

「……平穏でありたいな」
「……そうだな」

 その願いが叶うかどうかは、秋が過ぎて冬となり、春を迎えた時に分かる事である。



「隊長、やっぱりクッキーお一つどうぞ~」
「ッく、口にわざわざ持ってくるな! 貴様は阿呆か!」
「ええー! どうして今怒られたんですか私?!」
「それが分からんから貴様は阿呆なのだ! 全く……ッ!」

 レイフェンは仕方なさそうに、シエラの細い手首を握り引いた。その指先に摘まれたクッキーを、狐とは言え鋭い牙の生え揃う顎を開いて食らいつく。
 シエラは、レイフェンの手の大きさに。レイフェンは、シエラの手首の細さに。それぞれで驚いて、息を飲み込む。

 部屋の外には、秋風がそよぐ。冬の気配が近づくこの頃だが、暖かな春は――――まだまだ先である。


なんちゃって軍部の片隅で今日も繰り広げられる、人間の少女と狐の男によるかみ合わない話。
平行線を辿るのは、主人公が悟りを開いてしまったからか、それとも狐隊長の絶望的なまでのコミュニケーション力のせいか。
多分どっちもです。

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