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異世界大陸幻想譚アルカーティス 作者:水夜ちはる

1章・螺旋の想い

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1章・螺旋の想い(3)

 淡いランプの光が夜の酒場にほのかな陰影を流し込んでいる。人為的で、それでいて自然的な幻想が、そこにあった。この時代、人と自然とはまだ未分離の状態にある。

 旅の女の名前はシレーヌといった。まだ二十三になったばかりの美しい女剣士だ。
 彼女は今、苛立ちを隠しきれずにいた。しかし、それでもワインで濡れた甘い唇は限りなく艶美で、それを見る男達の心を溶かす鍵ともなっていた。

「たくっ……こんな街に三日も滞在する羽目になるなんて……」
「心配ない。明日ぐらいにもなれば、水も引いて、午後には渡しも再会するさ」
 その彼女のとなりでエールをちびちびやっているのはラルフである。

 竜の城の影響で、このノープルの街の近くを流れるアスト川が増水しているのだ。アスト川はさして大きな河川ではないが、流れが急であることで有名で、橋がかかっていない。
 唯一の横断手段は渡し船なのだ。無論、川が増水すれば渡しは中断される。かつて頑強な堤防がなかった時代、ノープルの街も幾度と洪水に見回れていた。

「まぁ……それほど急ぐ旅ではないんだけれどね」
 シレーヌは赤ワインのグラスを置いた。安酒場だが店でも最上級のワインだ。収入が不安定な流れ者にとって、高級ワインは滅多に飲めるものではない。
 だが、今夜は苛立ちを彼女は少し浪費で紛らわしたかった。

「じゃあ、ゆっくりしていた方がいい。忙しいときは忙しく、のんびりしたいときは、のんびりと……これが私の理想としている社会だからね」
「理想ね。それって都合が良すぎるんじゃない?」
「そうかなあ?」
 ラルフは苦笑いを浮かべて、本気か冗談なのか区別のつきにくい表情で言った。

 彼の声は異常である。男性にしては余りにも細い声をしている。声変わりをしていない少年のような高さと細さを持っている。
 だが、とてもきれいな声ではない。かすれているのだ。ハスキーと呼べるものではない。喉に障害があるかのようにかすれているのだ。
 それでも聞きづらいことはないが、その奇特な声は特徴として強い。その声は男性的なものが欠如しているに関わらず、男性的な優しさを含んでいて、女性を引き付けるに十分なものだった。例によって、彼は自身でそれを気付いていないが。

「この際だ、ひとつ相談に乗ってくれないかなあ?」
 ひどくぼんやりとした声でラルフは言った。

「へ? いいけど……所詮あたしは流れ者だよ? 相談相手には頼りないんじゃない?」
「いや、えてして身近な人じゃないからこそ相談できる、ってこともあるものさ」
「へぇ。じゃ、相談相手になりましょ」
 シレーヌは軽い気持ちでラルフに応えた。ラルフは小さく頷くとしばらく黙って考えをまとめて、それを言葉にする。

「一つ、私に依頼が来ているんだ。旧知の仲でね、無下に断わる訳にも行かない。とはいえ、受けるには危険すぎる……」
「危険? 一介の旅道具屋に依頼されたコトで?」
 シレーヌは怪訝そうに首をかしげた。彼女の言うことは最も常識的で、否はなかった。が、このときシレーヌはラルフの過去を知らないから仕方が無い。

「そうか……まあ、あなたには話そう。この街じゃ、私とファティマしか知らない秘密だけどね。ところで、あなたは『暗闇のラルフォード』って人を知ってるかい?」
「名前だけはね。有名な暗殺者じゃない。私が、まだ流れ者になってまだ駆出しの頃によく聞いた名前よ。最近聞かないけど……」
 シレーヌは記憶を掘り返して応えた。流れ者、女剣士として起伏の激しい生活をしていると、追憶することも少ない。

 暗闇のラルフォードと呼ばれる暗殺者も凄い。暗殺者という稼業は無論、裏の世界で暗躍する。その闇の者が一般人にまで有名になると言うのは、彼のおそるべき実績と強さを推して知るべし、だ。

「その人が、何か関係があるの?」
「いや、彼は私だよ」
 ラルフは唐突に言った。あまりにも何気ない声であったために、シレーヌは思わずその言葉を聞き流しそうになって、数瞬後に驚愕の瞳をラルフに向けた。

「冗談だとしたら、ちっとも笑えないわよ」
「冗談なんかじゃないよ。もっとも、信じて貰えないだろうけどね」
 ラルフは苦笑いして応えた。

 過去の自分をよく知る彼は、苦笑を禁じ得ない。闇の世界を暗躍し、金のために冷酷非道に人を殺してきた自分を。

「じゃあ、こうしよう」
 ラルフはゆっくりとシレーヌの方を向いた。カウンターで二人は飲んでいるわけだから、常は肩を並べているわけだ。その彼がじっとシレーヌの美しいヘイゼルの瞳を見つめる。

「あっ……」
 一瞬、ラルフの身体がぼやけたかと思うと、その刹那には彼の身体は忽然と視界から消えていた。カウンターの椅子に座っていた彼は身動き一つしなかったのである。彼女は文字どおり我が目を疑った。

 だが、その瞬間――
「と、言うわけだ。暗殺者がよく使う幻術。まあ、久しぶりだったからこの程度かな。分かって貰えた?」
 ラルフは微笑みを浮かべて、座っていた。

 愕然とするシレーヌ。幻術は魔法ではない。一種の催眠術で相手に精神波や時に薬物を用いての特殊な感覚を与え、相手に幻覚を見せる特殊技能である。その幻覚催眠の強度の物を「幻術」と呼んでいる。
 無論、誰もが使えるものではない。それを、ぼんやりした顔の街の旅道具屋の主人が使ったのである。否、彼は旅道具屋の主人などではない。

「それで……そのラルフォードさんが何を依頼されたの?」
 シレーヌは表情を驚愕から微笑に変えて尋ねた。皮肉っぽい口調は明らかにこの状況を楽しんでいる。彼女も彼女で、なかなかの心臓の持ち主だ。

「一人の女性の救出、と言うよりは解放かな? こいつが問題なんだ」
「へえ、すると、かなりの大物?」
「まぁね。その人の名前は、ルシア・フォルグルド・アムル」
 シレーヌは立て続けに驚愕の表情を作らねばならなかった。あのラルフォードが目の前の男だと知らされ、さらにはその彼の依頼の仕事の対象は滅びたはずのアムル公国第一公女ルシアだとは……

「まさか、アムル大公の一族は確か皆殺しにされたはず……」
 いくらラルフォードが驚異の暗殺者であったとしても、死人を救うことなど出来るはずが無い。
「いや、ルシアは殺されていない。アムル戦役の時、彼女だけが、カランダへ送られていたのだ。本当ならば、彼女も処刑される身分であったのだが、カランダ王弟ラウエルの婚約者であると言う立場で、処刑を免れているらしい」
「ふうん。それで、その依頼主はその婚約を善しとしない者ね。誰?」
 明敏なシレーヌは状況を読み取ることが出来た。しかしその質問は、領分を越えたものかも知れない。
 だがラルフは頷いて答えた。

「彼女、自身さ」
「へぇ、面白そうじゃない? 受けるの?」
「まだ、決めてない。そこをあなたに相談したかったのさ。もっとも、これは私の個人的な問題なんだけれどね」
 ラルフは苦笑と入り乱れた微笑みを浮かべて、エールを飲み干した。

「受けた場合、敵に回すのはあのカランダとなる。余りにも……大きい」
「へえ、暗闇のラルフォードも相手を選ぶのね」
 シレーヌはラルフの言葉を痛烈に皮肉った。最強と呼ばれた暗殺者を前にして彼女もどうしてなかなかの毒舌を振るえるものだ。だが、意外にも、いや意外ではなかったかも知れないが、ラルフはそれに苦笑いで応えただけだった。

「いや、そういう問題じゃなくて……その仕事を受けて、うまく行っても、ここには戻れないって事だよ」
「なるほどね……ファティマちゃんか」
「そういう事……まあ、ファティマなら私がいなくても十分生活して行けれるはずだ。私なんかより、ずっとしっかりしてるからね。ただ……」
「一人ぼっちにするには、気が引ける……と?」
「するどいな。その通り。何故か、くっついて離れないんだよな、あいつ」
 ラルフは苦笑いした。

 彼は天下無双の暗殺者であったが、そのほかにおいては限りなく愚者であったのだ。一番身近にいて、同じ所帯で生活を送る女の子の気持ちも察することが出来ないのだ。シレーヌは少し呆れた。彼女ははやくもファティマの思いを感じ取っていたのである。女性ならではの勘かも知れないが。

「そんな相談、受けれないわよ。あなた自身の問題よ。どちらを取れば、どちらか捨てなきゃならない。単純なコト。まあこの際、どちらが捨てるものが大きいか、そう考えると、楽かな?」
「捨てるもの……か」
 ラルフは少し瞳を細めて、遠くを見つめるような目を見せた。いつもはぼんやりしていて人の良さそうな瞳が今は違う。

 シレーヌの意見は僅かにファティマを応援する意味が含まれていた。彼がファティマという人を失うことは、相当大きなものに違いないと判断していたからだ。彼女も女である限り、ファティマを応援したくもなる。ラルフが鈍感なのはファティマがかわいそうだが、彼女にとっては、ラルフの側にいるだけでも十分幸せなのかも知れない。

「一度、私はルシアの依頼を捨てている。アムル戦役の時、私はリヒャルト三世の暗殺を彼女に依頼されたんだ。アムル公国には打つ手など、それくらいしかなかったからね。でも、私は断わった」
「どうして?」
「もう、私は暗殺を止めると誓ったからさ。ソフィアに……」
「ソフィアって?」
「私の妻。もう、四年前になる。殺された。因果なものだ。多数の幸せを奪った私はやはり、幸せを奪われる立場にあったらしい」
 ラルフは自嘲気味に笑みを浮かべて言った。

 その笑みに含まれるのは彼女を守れなかった過去の自分のふがいなさに対する嘲笑と、過去への追憶を捨てきれない現在の自分への嘲笑である。明敏なシレーヌにはその笑み一つでそれらを察することが出来た。

「ソフィアと出会わせてくれたのはルシアだ。恩を受けて、二度も裏切るか……暗殺者らしいな。ソフィアは暗殺機械として育てられた私に人の心をくれた。私は、ルシアを裏切ることはソフィアをも裏切る事にならないと割り切れないよ」
 ラルフは淡々と話していた。しかし、それでもその苦悩をシレーヌは感じ取ることが出来た。彼女もかなしい色の瞳を赤ワインに映してつぶやいた。

「そっか、結局は、どちらも捨てられないって事ね……」
「でも、必ずどちらかはとらなきゃならないものでもあるしね。でも、きっと私は心の中で決めてるさ。どっちを取るべきか、とね」
 まるで他人事のようにラルフは笑ってみせた。その空虚な笑いが何を意味するのか、それを察するにはまだ、シレーヌも若く、経験が浅かった。
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