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故郷(前篇)

「今晩はちょっとくらい贅沢をしても許されるよな」


 春の夕暮れを行き交う人々の間を縫うように進みながら、マルコは財布を懐手で確かめた。

 ずっしりと重いのは、今日の商いが思いの外上手く行ったからだ。

 古都(アイテーリア)に運んできた馬車いっぱいの毛織物が、飛ぶように売れた。

 儲けの大きさに自然を頬も緩む。

 小柄なマルコは年若く見られることもあるが、十分な経験を積んだ遍歴商人だ。

 そのマルコでも、今回のような運に恵まれることは滅多にない。


 古都では今、春の大市が催されている。

 例年にはないこの大市は、帝国皇帝コンラート五世が皇妃セレスティーヌとの婚姻を挙げたことを祝しての特例で開かれたという。

 東王国(オイリア)へ毛織物の買い付けに出掛けていたマルコはたまたま大市の噂を聞き、古都へ立ち寄ることができた。神のご加護か偶然かは分からないが、次はこれを元手にもう少し大きな商いができそうだ。


 祝賀の大市というだけあって、街路で擦れ違う遍歴商人の出自も様々だった。

 帝国は元より東王国(オイリア)聖王国(ルプシア)、珍しいところでは連合王国(ケルティア)からもやって来ている。

 マルコが毛織物を売りつけた相手も、連合王国から遥々海を渡って来たとたどたどしい帝国語で教えてくれた。


「さて、今日はどの店に挑戦するかな……」


 旅から旅の遍歴商人であるマルコには、一つ楽しみがある。

 酒と、肴だ。

 金を惜しむ遍歴商人は、食事も宿で済ませることが多い。

 ただそれでは出てくる料理はどこの街でも代わり映えのしないパン(ブロート)スープ(ズッペ)、それにチーズ(ケーセ)が付けば御の字だ。


 だからマルコは酒場を探す。

 古都のように大きな都市なら、一軒くらいは風変わりな店があるものだ。

 自分で選んだ店が良い店ならばそれで良し。不味ければ不味いで笑い話の種になる。

 マルコにとって店選びは目利きと運試しを兼ねた一種の遊びにようなものだ。

 酒場の看板と雰囲気を眺めながら黄昏時の古都をぶらぶらと歩く。窓から零れる灯りと楽しげな声が、マルコの期待感を高めていった。


「……変わった店だな」


 マルコの目の前に姿を現したのは、随分と異国情緒溢れる酒場だ。

 まるでどこか御伽の国から一軒だけ店を選り抜いて来て古都の通りに嵌め込んだかのような存在感がある。

 店の名は、読めない。見たことのない文字で書かれている。

 看板を掲げているのだからどうせなら読めるようにしておけばいいものをとマルコは苦笑した。

 商売っ気がないのか、名を誇らずとも客が来るのか。漆喰と木で建てられた店は他と間違うことだけはなさそうだ。


 果たしてここで美味い物にあり付けるだろうか。

 陽はまだ沈んでいないが、マルコの腹の方がそろそろ限界を迎えつつある。

 今いる<馬丁宿>通りで他の店を探しても良いが、一瞥した限りではここより面白そうな店は見当たらない。

 よし、ここに決めた。

 口の中で呟くと、マルコは硝子戸をそっと引き開ける。


「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


 明るい声に誘われるようにして一歩足を踏み入れた店内は大入り満員だ。

 それほど広くない店の中にカウンターの空いている一隅を見つけたマルコは、身体をねじ込むようにしてそこへ座を占めた。

 ここは良い店だ。第一印象は合格だった。

 活気のある店がとんでもない外れだということはほとんどない。不味いものを出す店が繁盛するという道理はないからだ。


 ぐるりと店内を見回して、マルコは思わず笑み崩れた。

 壁に品書きが貼ってあるのだが、どれも聞いたことのない料理ばかりだ。これはいい。

 美味い酒と肴を愉しみたいのは当然だ。だが、珍しいものならなお嬉しい。

 この店なら、期待できる。きっと今までに味わったことのないものを食べさせてくれるはずだ。


「ご注文は何になさいますか?」


 小皿に盛られたオトーシなる料理を運んできた黒髪の女給仕がマルコに微笑みかけた。


「そうだな。エールで一杯と行きたいところだが……もしあるようなら、ここでしか飲めないようなものを。後、珍しい酒肴があればそれも頼む」

「はい、畏まりました」


 弾けるような笑顔で応じると、女給仕は料理人に何事かを伝える。呼び掛けからすると料理人はタイショー、女給仕の方はシノブというようだ。この辺りでは聞いたことのない響きだった。

 この店は小さいのに店員の数は多い。男が二人と女が三人。女の一人はまだ少女と言っても良い。

 それでもみんな忙しそうにしているのだから、大した繁盛ぶりだ。


 酒と肴を待つ間に、オトーシに手を付ける。

 白身の魚をからりと揚げたものに、とろりとした餡が掛かった一品だ。

 一口食べて、ほぅと声が出た。


 食感が、良い。

 サクリとした部分と餡の絡んだ部分、そして白身魚のほろりと崩れる身。餡にしっかりと味が付いているので、白身魚の淡白さが引き立っている。

 思わず口元が綻んでしまう味だ。

 先出しの一皿にしてはなかなか手が込んでいる。一口二口で食べられるような大きさになっているのも心憎い。ついつい同じものを頼んでしまいそうになる。


 周りの客は、エール党が多いらしい。

 トリアエズナマ、というのがこの店で出している銘柄のようだ。耳慣れない名前だが、古都の近くにそういう醸造所があるのだろう。

 きちんとした樽詰めのできない小規模な醸造所のエールは輸送に適さず、基本的に地元ですべて消費されることになる。商人でさえ名前を知らない幻のエールがあっても然程不思議ではない。

 マルコとしては噂に名高いラガーというのも一度飲んでみたいと思っている。


 乾杯(プロージット)と賑やかにぶつけ合っているジョッキは硝子製だ。

 黄金色のエールがなみなみと注がれた透明なジョッキは、美しい。横目に見る限りでは形も整っているから、結構な値段がするのではないだろうか。

 しまった、自分もエールを頼めばよかったのかもしれない。どうして他人が食べたり飲んだりしているものはこうも魅力的に見えるのだろうか。

 仕事上がりの一杯は、確かに素晴らしい。身体の疲れを苦味のある黄金色の液体が胃の腑へと押し流していく感覚は何物にも代えがたい。


 美味そうにジョッキを空にしていく常連客らしい職人を見ていると、思わずマルコの喉も鳴る。

 しかしここまで来たのだから、初志貫徹は大切だ。

 今日は、珍しいものを食べる。そう決めてこの店に足を踏み入れたのではなかったか。

 周りの客が食べているのを見る限り、どの料理も美味しそうに見える。


 さて、何が出て来るのだろうかと手を擦り合わせていると、先程の女給仕が何やら珍しいものを小ぶりな編み籠に乗せて持ってきた。

 栗だ。

 まだ(イガ)に包まれた栗はしかし、マルコの知っているものより黒い。

 それに、時期も違う。栗の食べ頃は秋だが、今は春だ。


「お待たせいたしました。こちらは雲丹(うに)です」


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