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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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アイテーリアの休日(後篇)

 銀縁眼鏡のセレスが少し道に迷いながらも案内してくれたのは<馬丁宿>通りの入り口近くに店を構える異国情緒溢れる居酒屋だった。
 名を、居酒屋ノブというらしい。

「セレスさんは変わった店をご存知ですね」
「ここの料理がとっても美味しいんです」

 硝子戸を引いて開けると、店内は意外にも暖かい。

「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」

 話に夢中で全く気付かなかったが、外は寒かったのだ。そう気付くと手指の先がかじかんでいたということを思い知らされた。セレスもそうなのだろうかと思うと、コンラートは自分の鈍感さに憤りさえ感じてしまう。
 せめて上着の一枚でも貸してやればよかったかと思うが、そんなことは思ってもできることではない。忸怩たる思いでカウンター席に座ると、さっと濡れタオルが差し出された。

「おしぼりです」

 微笑む黒髪の給仕から受け取ると、その温かさに思わず取り落としそうになる。
 少し熱いくらいの温度が冷え切った掌に心地よい。
 セレスもオシボリで手先を温めている。その手指に指輪が嵌められていないことを見て少し安心してしまったが、なんとも浅ましい。
 相手が独身だからなんだというのだ。自分はこれから意に染まぬ見合いをせねばならぬ身ではないか。帝国で最も身分の高い者が、生涯の伴侶さえ自分で選ぶことができないという矛盾にコンラートは叫びだしそうなもどかしさを感じている。

 ああ、セレスに会わなければ。
 明日の見合いもただ失意の中で終えることができたはずなのに。今はそれも空虚なことだ。
 出会ってしまったからには、この後悔を胸に生きていかねばならない。

「はい、それでは串かつを二人前ですね」
 どうやらいつの間にかセレスが注文をしてくれていたらしい。それにしてもクシカツとは聞きなれない名だ。
「クシカツ?」
「ええ、フリットのような……こちらではシュニッツェルというんでしたか」
「そんな料理、はじめて聞きました」

 とても失礼な話だが、古都の場末の居酒屋で大した料理が味わえるとは思っていない。そう言えば先帝がこの街で新しい美食を発見したと近臣に語っていたが、その店をもっとしっかり聞いておけば良かったのだ。そういう店に女性を誘いたいと思う日が来るとは思ってもみなかったから、いい加減に聞き流していたのが今更ながらに悔やまれる。

 悔やまれるといえば“いとこ”のヨハン=グスタフも同じようなことを言っていた。いとこといっても正式のいとこではない。血のつながりの強い同年代の男子はみんないとこだ。
 そのいとこ殿も古都には美味いものがあるあると教えてくれた。その姪のヒルデガルドも似たような話題を振ってきた記憶があった。

 してみると惜しいことをした。古都に二軒も三軒も貴族の舌を満足させる店があるということになる。<気取り屋>ブランターノも最近は外食が増えたといっていたし、意外にも古都は空前の美食の流行を見せているのかもしれない。
 惚れた女を美味い店に案内も出来ず、自分はなんと不甲斐ないのだろう。
 そんなことをぼんやり考えていると目の前に皿とソースの容器が置かれ、二度漬け禁止の説明をされる。些細な食事の決まりなど言われるのははじめてのことなので、妙に新鮮に感じた。

「私、コンラートさんに感謝しているんです」
「感謝している?」

 感謝しているのはこちらの方だ。今日セレスに会わなければ、人生にこれほど楽しいことがあったと知らずに生きていくことになっただろう。

「今日、もしコンラートさんに会わなかったら私……人生にこれほど楽しいことがあると知らずに生きていったと思うんです」

 セレスの顔を、じっと見る。
 考えていたことが同じだったのはとても幸せだが、同時にとても残酷だ。
 二人の間に静かな沈黙が横たわる。

「お待たせしました、まずは海老です!」

 運ばれてきたのは、からりと揚がった海老だった。揚げ物自体は帝都でもよく食べるが、内陸だから海老を揚げたのは始めて見る。
 サクリ。
 食感の良さに思わず目を瞠る。
 軽い。揚げ物はどうしても重くなるのが常だが、この軽さはどうだ。油が違うのだろうか。一度しか付けられないソースもいい味を出している。端的に言って、美味い。
 何より、熱いのだ。毒見を経てからしか食事を摂ることを許されないコンラートとしては、皇太孫時代以来の久方ぶりの温かい食事だった。自然と胸も温かくなる。

「美味しい」

 満足そうにセレスが微笑む。美味しいものを食べているときの彼女もまた、可憐だ。

「以前いらっしゃったときは串かつをお出しできませんでしたからね」

 申し訳なさそうに給仕が謝る。これだけの規模の居酒屋では毎日全ての料理を用意するということはあまり効率的ではないのだろう。
 次々と運ばれてくるクシカツを頬張り、微笑み、感想を言い合う。
 幸せな食事、幸せな時間。

「あっ」

 レンコンというクシカツをソースの容器に入れようとして、失敗してしまった。
 端のほんの僅かな部分にしかソースがついていない。これは、しくじった。
 余は帝国皇帝なのだぞ、どうしてソースの二度漬けさえ出来ないのか。そう言いたくなるのを堪え、セレスの方にやせ我慢の笑みを向ける。
 すると給仕が脇に置いてあったキャベツを一枚手に取った。

「ソースをつけ足りないな、と思ったらこうやって調節してくださいね」

 匙に見立てたキャベツでソースを掬ってみせる。なるほど、この手があったか。
 無事にレンコンも食べ終わり、腹もくちくなった。居酒屋というからには酒も美味しいのだろうが、今日は酒精で意識を濁らせたくない。

「今日は、ありがとうございました」
「お陰で楽しい時間を過ごすことが出来ました、セレスさん」

 微笑み合う二人の前に、硝子の器が置かれる。盛り付けられているのは、氷菓だ。

「わぁ……」
「ほぉ……」

 銀の匙で掬って食べる氷菓は舌の上でとろりと蕩ける。乳酪の香りだけではない。この香りは、ヴァニラだ。帝室が禁輸指定しているものがどうしてこの店にあるのかは、今日のこの日に免じて不問にすることにした。何なら今日の記念にこの店でだけはヴァニラの使用を勅許してさえ良い。

 ふわふわとした気分のまま、食事は終わってしまった。
 いくら出してよいか分からず、自分の横顔が描かれた金貨を渡す。給仕が不思議そうに金貨とコンラートとを見比べる。これだけはいつまで経っても慣れないものだ。

「ありがとうございました!」

 送り出された古都の通りは、店の中が暖かかっただけに余計に寒い。
 既に陽は暮れて、辺りは暗く、冷たい冬の夜だ。

「コンラートさん、見てください!」

 言われて見上げると、流れ星が空を翔るのが見えた。雄月と雌月の子供である流れ星は、見たものに小さな幸福と未来を切り開く勇気を授けるという。
 掛ける言葉が見つからず、コンラートはセレスと一緒に空を見上げ続けていた。

 足の先から、寒さが這い上がってくる。

 二人はそれぞれの帰途に着くまで、無言だった。
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