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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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お姫さまとアップルパイ(前篇)

 眼鏡を掛けた時だけ、本当の自分に戻れる。
 いつも通りの方法で古都の宿を抜け出したセレスティーヌ・ド・オイリアはお気に入りの銀縁眼鏡を掛けて、ただのセレスになった。頬を撫でる夕暮れの冷たい風が心地よい。

 セレスの暮らす王都ラ・パリシィアも、河に抱かれた街だ。
 同じ時代に築かれた街だからだろうか。遠く離れた二つの都は、どこか顔立ちが似ている。
 東王国の王女摂政宮であるセレスティーヌ・ド・オイリアは、帝国北方最大の要衝である古都へ外遊に訪れていた。外遊と言っても、当然ながら遊びではない。

 政治の季節が、東王国にやって来ていた。
 幼王などと嘲られていた弟ユーグも、もう十二歳になる。そろそろ、政務の執れる歳だ。
 王女摂政宮として長らく政治や外交を担ってきたセレスティーヌは、一歩引いた形に退く。いうなれば、譲位のようなものだ。
 譲位に当たって、問題が一つあった。
 ユーグの能力ではない。伝説上の国父と同じ名を持つこの弟は、姉であるセレスの目から見ても優秀だ。<聖王>と呼ばれた父を上回る才覚の片鱗を見せている。
 問題なのは、隣国だった。

 帝国。
 数百年の長きにわたり、東王国と覇を競い続ける巨竜。
 この国は英邁な主君を戴くと、恐るべき圧力を東王国に加えてくる。それは歴史上、幾度となく繰り返されてきたことだ。帝国の先帝の時代が、まさにそうだった。セレスとユーグの父が天才的な王でなければ、東王国は勢力図を大きく塗り替えねばならなかっただろう。

 だからこそ、帝国の力を削いでおかねばならない。
 十年後ならユーグが何とかするだろう。それは姉の欲目ではなく冷徹な政治家としての評価だ。その十年を稼ぐために、セレスティーヌ・ド・オイリアはここにいる。
 だが、<眼鏡>のセレスにはまた別の考えがあった。

 芳紀まさに十九歳。
 花も恥じらう箱入り娘が折角あの執務室から解放されたのだ。面倒くさい書類仕事は本来こなすべき国王ユーグがやってくれている。最初は困惑するだろうが、そのために官僚団はあるのだ。
 ならば、少しくらい羽を伸ばしてもいいはずだ。それは長年国と王家と弟のために全てを捧げて来たセレスにとって、当然の権利である。
 セレスは持ち出した鞄から羊皮紙の束を取り出した。奇譚拾遺使からの報告書だ。

「居酒屋ノブ、か。どんな店なのかな」

 違う国の都市は、実際に歩いてみるに限る。
 報告書では雰囲気や臭い、騒々しさは伝わらないし、馬車で通り抜けると人の目の高さでものを見ることができない。セレスは侍女と協力して、時々こうやって宿を抜け出す。

 もちろん、安全には気を付けている。宿からあまり離れないし、危なそうなところへは近付かない。普段はちょっとした散歩程度しかしないのだ。
 だが、今日は違う。
 奇譚拾遺使のジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーの報告書にある居酒屋で食事をするのだ。獲物は、クシカツ。これは絶対に押さえておきたい。

 王家の女性があまりガツガツと食べるのははしたないということで、セレスが食べられるものは限られている。フリットも食べてはいけないものとして、食事から除外されていた。弟のユーグは身体を作るためと称して飽きるほど食べているというのに。
 そういう訳で、セレスの目的はクシカツの制覇だった。
 “豚肉は揚げるのが正義”だの、“海老は揚げると甘味を感じる”だのと報告書に書く感性は信じられないが、食欲をそそる表現であることは間違いない。こんなものを読まされて食べたくならない方がおかしいのだ。

 水路に渡された丸木の橋を歩く。
 この街には橋が多い。朝降った雪の解け残ったのを水へ蹴り込んでみると、一度浮いて溶けながら沈んでいく。それが何だか妙に面白いような気がして、セレスは自分が自然と微笑んでいるのに気が付いた。ただ歩いているだけなのに、不思議と楽しい。

 石造りの家々が並ぶ通りを進んで行くと、帝国語で<馬丁宿>通りと書かれた看板が見えた。
 報告書が本当ならこの通りにその居酒屋ノブという店があるはずだ。
 小さく一つ深呼吸。泥濘るんだ道を踏み締めるようにして進む。道往く住民にとっては小さな一歩だが、セレスにとっては大きな一歩だ。

「あ、あるじゃない」

 心配は一瞬にして氷解した。木と漆喰ので建てられた見るからに異国情緒漂わせる店構えがセレスの眼前に佇んでいる。店の趣は報告書にあった通りだ。看板にはセレスでさえ見たことのない文字で店名が書かれているが、間違いはない。
 緊張と期待を胸に、硝子戸に手を掛ける。一枚ものの曇り硝子を引き開けると、店の中は思ったよりも暖かい。

「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」

 挨拶までも報告書の通りだと、セレスは何だか嬉しくなった。羊皮紙の中でしか知らない場所に、今の自分は立っているのだ。それが何だか面白い。
 案内されるままにカウンターの席に就く。オシボリとオトーシが出てくるのも報告書通りだ。

「ご注文は何になさいますか?」
「クシカツをお願いします」

 注文は、大きな声ではっきりと。
 これはジャン=フランソワの報告書で何度も言われている事だ。変に小声で話したりすると怪しまれるばかりでなく気恥ずかしくもなる。精一杯の勇気を振り絞った注文に、黒髪の女給仕はきょとんとした表情を浮かべた後、申し訳なさそうに深々と頭を下げる。

「申し訳ございません。本日は串かつの取り扱いがございません」
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