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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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茶碗蒸し(前篇)

 夕暮れ前からしとしとと降り始めた雨は馬丁宿通りの路を濡らしている。
 居酒屋ノブと書かれた看板の前を歳若い照燈持ちが一人、先程からずっと行きつ戻りつしていた。
 ただの照燈持ちではない。
 エンリコ・ベラルディーノ。大司教に仕える腹心の一人である。
 若くして教導聖省の俊英として名を知られた僧で、大司教の古典回帰論に同調して聖王国から距離を置いた者の一人だった。

 そのエンリコが居酒屋ノブの様子を窺っているのは、ある密告があったからに他ならない。
「居酒屋ノブは、魔女の(ねぐら)である」
 最近、大司教と懇意にしているダミアンとかいう小柄な男のもたらした情報だ。ゴロツキの顔役のような俗物かと思っていたが、意外に教養がある。なので大司教も使い減りしない手駒として重宝していた。

「まさか本当に魔女が、な」

 魔女が居るというのは、古典回帰論者にとっては重要なことだ。
 この地の魔女を狩り出すことで教導聖省の堕落の証明とし、古く正しい教えに回帰しなければならない。
 古く正しい教えに立ち返れば、邪な者どもは立ち所に姿を消す。
 それだけに、エンリコの責任は重大だ。
 本当に魔女がこの酒場に集っているのか、確かめなければならなかった。

 暫く雨中に身体を曝していたが、手掛かりは掴めていない。
 魔女が易々と正体を現すとは思えないが、このままでは手詰まりだ。
 いつまでもここで逡巡して居ては、こちらの身も危うい。
 そうなれば思い切って、と硝子戸を引き開ける。その瞬間、エンリコは不思議な暖かさに包まれた。

「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」

 冷たい雨を一人浴びていたからか、出迎えの声が心地良く響く。
 騙されるものか、とエンリコは口中で小さく呟いた。
 愛らしい給仕の女も、皿洗いの少女も、テーブルを拭いている新妻風の女も、全て魔女かも知れない。店主の男も、魔女である可能性がある。
 かつての魔女狩りの伝承によれば、男の魔女というのも少なくはない。
 騙されるわけにはいかなかった。

 カウンターに腰を落ち着けると、何も頼んでいない内から暖かい布とちょっとした肴が運ばれてきた。オシボリと、オトーシというようだ。
 濡れて芯から凍えている手に、このもてなしはありがたい。こうしてこちらの警戒を解き、心の内側へと忍び込む策略であろうか。

「ご注文は何になさいますか?」
「……温かい白湯を。酒は嗜みません」

 応えてしまってから、しまったと思った。
 ただの照燈持ちがこんなことを言うだろうか。
 長く修行の庭に身を置いてきたエンリコは、酒場という物を訪れるのは今日が初めてだ。酒場に来て酒を頼まないのは、ひょっとするととんでもない不調法に当たるのではないか。
 そう言う不安が胸の内をじわりと侵していく。

 しかし、そういう不安は単なる思い過ごしだったようだ。
 給仕の女はにこりと笑うと、陶器の杯に白湯を持って来てくれた。
 包むように持つと、温かさがじんわりと悴んだ両掌を蕩かしていく。

 肴は、煮付けた小魚だ。
 あまり味の濃い物は食べ付けないエンリコだが、甘辛く煮たこの小魚は、妙に口に合う。
 ついつい同じものをと注文しそうになるが、彫塑した石像の如き自制心でその欲求を抑え付ける。
 執着は堕落であり、堕落は信仰の敗北だ。温かい白湯で身体を温めながら、そっと店内の様子を窺う。

 ここはやはり、魔女の塒なのだろうか。
 直接はおろか文書でさえ見たことのない奇妙な装飾や調度が店のそこここを占拠している。
 異国の文字の品書き、色とりどりの酒瓶、瓶詰になっている船の模型。
 とりわけ、店の奥の壁に祀られている異国の神の祭壇からは強い力を感じ取ることができた。

 酒場に足を踏み入れたこともない清廉潔白なエンリコ・ベラルディーノが今回の偵察行の実行者に選ばれたのには、合理的な理由がある。
 この世ならざる力を、感じ取ることができるのだ。
 悪しき力、聖なる力、どちらでもない力。
 人の力の及ばない天然自然の中には様々な力が満ちていて、しかも常に転変としている。

 厳しい修行を積んだ僧でも、こういう力を感じ取ることができる者は片手で足りるほどに限られているのが実情だ。
 それだけに、エンリコに課せられた使命は重大だった。

「ご注文は何になさいますか?」

 先程の給仕が尋ねて来るが、エンリコは何も答えることができない。
 よくよく考えてみれば、こういう店で何が出て来るのかを知らないのだ。
 大司教の下で古典回帰派の厳しい修行を積んでいる時は、パンとシチュー、それに水で割ったワインを嗜む程度である。後は精々がプディングか。
 肉や魚はほとんど摂らず、むしろ野菜の比重が高い。

「何か、温まる物を」

 言ってしまってから馬鹿な注文だと思う。
 だが、意外にも給仕はにこりと微笑んで頷いた。
 照燈持ちの扮装が、こういう店に慣れていない若者といういい意味での誤解を与えたのだろうか。何にしても、良かった。怪しまれずに済んだらしい。

 改めて見回すと、店内は程々に賑わっている。
 幸いにして、まだ不審の目は向けられていないようだ。
 油断することはできない。ここが異教の信仰渦巻く魔女の塒であるという可能性は、十分にある。
 ただ、異教の祭壇から感じる不思議な力をどうしてもエンリコは邪悪な物だと断じることができない。

「お待たせしました、茶碗蒸しです!」
「ありがとう」

 朗らかな笑みに気圧されそうになりながら、器を受け取る。
 運ばれてきたチャワンムシという料理は、具入りのプディングらしい。
 名前の響きこそ異国風だが、これならば馴染みがある。

 それに、ここが魔女の塒であるかどうかを判断するのにも、具入りのプディングは御誂え向きだった。
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