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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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だしまきたまご(後篇)

 信之の目が、いつになく真剣だ。
 無理もない。自信作の牡蠣殻のグラタンをして、本当の自分の味ではないと指摘されたのだ。
 このところの信之の味は、しのぶから見ても確かに少しぶれていた。
 信之の師である塔原であれば、厳しく叱正していたかもしれない。

 味をしのぶに見せるようになってからは、ほんの少しずつ味に落ち着きが出てきたが、それでも思いつきのような味付けで何かを作ることがある。
 自分の殻を破ろうとしている、ということはしのぶにも分かった。
 その苦境を抜け出す手助けが誰にもできないという事も、料亭の娘であるしのぶは知っている。
 そのことに、クローヴィンケルは気付いたのだ。
 本当の美食家とは、ああいう人を言うのだろう。

 客たちも厨房のただならぬ空気に気付き始めたようだ。
 特にゴドハルトとアルヌの二人は、固唾を呑んで事の成り行きを見守っている。憧れの吟遊詩人クローヴィンケルがどうでるのか、気になるらしい。

 信之は、何を作るのか。しのぶにもそれは全く分からない。
 注文は、最も自信のある料理だ。
 ただ美味しいとか、素材が良いとか、古都の人に目新しいという料理を出すわけにはいかない。本当に、自信のある料理。
 そんなことを急に言われても、普通はおいそれと作れるものではない。

 信之が鶏卵を溶きはじめた。
 卵を使った料理には色々ある。凝った物も、簡単な物も。
 どういう料理が信之の手から生み出されるのか、店内の視線は厨房に集まっている。
 当然、一番熱心に手元を見つめているのはクローヴィンケルだ。

 吟遊詩人を連れてきたブランターノはと見てみれば、どういうわけかアルヌと言葉を交わしている。
 同じ吟遊詩人を贔屓にしている者同士、話が弾むのだろうか。

 静かな店内に、信之が卵を溶く軽快な音だけが響く。
 だしまきたまごだ。何となく、そう思った。
 このところ、信之は出汁の引き方に細心の注意を払っている。
 今一番自信のある料理は出汁そのものであり、それをクローヴィンケルに食べさせるために、だしまきを選ぶのだろう。

 前掛けを締め直し、しのぶは戸棚に向かった。
 だしまきが一番美味しく見える皿は、どれか。
 実家のゆきつなに居た頃はどんな皿でもより取り見取りだったが、居酒屋のぶにはそれほど多くの器はない。
 吟味すると言っても自ずから幅はある。それでも、信之の作る渾身の自信作を盛るのに相応しい皿を、自分自身の手で選びたかった。

 とろりとした溶き卵が、だしまき用の巻き鍋にじゅっという音を立てる。
 手首の捻りを使って巻き上げて行く信之の手並みは、流石だ。
 あっという間に卵三個分のたっぷりとしただしまきが巻き上がり、それを巻き簾で受ける。
 ゆきつな流のだしまきは出汁の分量が多いので、巻き簾で形を整えてやらないと崩れてしまうのだ。

「できました」

 だしまきの淡い黄色が、しのぶの選んだ緑の皿に映える。
 腕を組んで調理の様子を見守っていたクローヴィンケルは、おもむろにフォークを手に取った。

「具無しのオムレツ(オムレット)を選ぶとは、なかなか勇気のある料理人のようです。材料の厳選や火加減、そして調理の手際に全てが収斂されるこの料理は、確かに腕を示すには最も適した料理の一つと言えるでしょうな。しかしこれで私を満足させることができるかどうか」

 クローヴィンケルのフォークがほろりとだしまきに吸い込まれる。
 崩れず、しかし手応えは無く。完璧な焼き加減だ。
 不思議そうな顔をして、老吟遊詩人はだしまきを口に運ぶ。

 沈黙。
 居酒屋のぶにいる誰も、言葉を発しない。
 ただ、万言を尽くして語られるであろう吟遊詩人の感想だけを待っている。

「……魔法だ」

 だが、クローヴィンケルの感想は一言だけだった。
 ぽつりとそれだけ溢すと、残りのだしまきを丁寧に味わいながら食べて行く。気が付くと、皿の上は舐めたように綺麗になっていた。

 観衆と化していた客の間に、微妙な空気が流れる。
 どんな麗句が飛び出すものかと身構えていたのだ。
 それが、一言だけ。
 特にブランターノとゴドホルト、そしてアルヌの三人は呆然としてクローヴィンケルが口を拭うのを見つめている。

「店主、約束通り、願いを一つ聞きましょう。とは言っても、私にかなえられるものだけですが」

 口を拭い終えたクローヴィンケルの顔は晴れがましい。
 そういう顔を、しのぶはかつて何度でも見てきた。
 本当に美味しい物を食べて、満足した顔だ。

「ありがとうございます。それでは一つお願いしたいことがあります」
「何だろう。これだけの料理人の頼み事だ。想像もつかないな」
「そこにいる、アルヌ君の詩を見てやって貰えませんか?」

 信之の願いは、予想外の物だった。
 突然指名されたアルヌは驚きと喜びの入り混じった顔で何も言えずに突っ立っている。隣で悔しそうにしているゴドハルトとは対照的だ。

「良いのですか、店主。私なら帝国中にこの店の素晴らしさを喧伝することも難しくはない。それどころか、帝都に今の店の十倍も大きな店を構えさせることもできるでしょう」
「いえ、お気持ちだけで。私がここで店を出せているのも、何かの縁です。ここから何処かへ移ることは、今は考えていません」
「縁ですか。なるほど、では、私はその幸運なアルヌ君の詩を見ることにします。その間に、さっきの鉄砲貝をワイン蒸しにしておいてください。もちろん、それ以上に美味しい食べ方があればそれでも構いません」

 その晩は、終始和やかな空気で細やかな宴が開かれた。
 クローヴィンケルのリュートと歌を愉しみながら、カキフライや牛すじの土手焼き、それに大量の天ぷらでビールや日本酒が飛ぶように出る。

 クローヴィンケルは約束を守り、アルヌの詩をつぶさに読んでいたが、どうすればいいかは後日手紙で送ってくる、ということになった。

「サクヌッセンブルクのアルヌ君からの手紙は、最優先で受け取ることにしましょう。ブランターノ男爵を通じて送って貰えれば、ちゃんと届くようにしておきますから」

 そう言って雄鶏が時を作る頃にクローヴィンケルは店を出て行った。
 酔い潰れたアルヌの首から下げられた護符に、青い宝石が涼やかな光を湛えていた。
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