きのこのアヒージョ
「今日も美味しかったよ」
昼食を摂り終えたハンスを見送ると、残った客はアルヌとイングリドだけになった。
居酒屋のぶは夕方からしか暖簾を出していないのだが、常連はそれより前にやって来る。追い返すのも忍びないので食事は出すのだが、余程居心地がいいのかアルヌとイングリドはほとんど毎日のようにやってくるようになってしまった。
「アンタ、またテンプラ食べてんのかい?」
「そういうイングリド婆さんはまたプリンか」
注文はいつも決まって天ぷらとプリンだ。しのぶの方では、もう二人が硝子戸を敲く前から準備をはじめるようにしている。
「美味い料理を出す居酒屋に来ているんだから、テンプラ以外の物も食べたらどうなんだい?」
「それを言うならイングリド婆さんもプリン以外の料理を注文すればいいじゃないか」
「私はいいんだよ。老い先長くない身の上だ。好きなものだけ食べて儚く散っていくのさ」
「その調子だと百まで生きそうだと思うけどね」
憎まれ口の応酬だが、互いに悪気はない。薬師と放蕩息子というあまり接点のなさそうな取り合わせだが、どういうわけか意外に馬が合うようだ。
そんな応酬を繰り返していたイングリドがふと、アルヌの皿の上に視線を落とした。舞茸の天ぷらだ。今日の舞茸は良い物が仕入れられたので、信之も自信を持って出している品だった。
「きのこか。珍しい種類だね」
「え、ええ、特別な仕入れ先から取り寄せているんです」
ふぅんと言いながら、イングリドは舞茸をフォークに刺す。
「きのこというと、莫迦莫迦しい話があってねぇ」
くつくつと笑いながら語るイングリドの口調がとろりと砕けているのは酒精の所為だろう。
「昔々、聖王国にノッポの尼とチビの学僧がいたんだ。チビの方は、勉強はできたんだが、周りから小ばかにされていてね。いつも見返す機会はないかと窺っていた。そんなある日、ちょっとした大役が回って来たのさ」
大役というのは教会の総本山、聖王都の教導聖省に巡礼に来た大貴族を迎える饗応役の手伝いだった。莫大な寄附をしてくれる貴族へのもてなしは失敗が許されない。
若輩の二人が任されたのは、料理の吟味。聖王都でも有数の宿から料理人を借り受けての接待で出す品書きを確認する作業だ。出してはいけない食材や組み合わせ、調理方法を調べて除外していくのが役目だった。ノッポの担当は酒と甘味、チビの方は料理の担当だ。
「チビの方は張り切っちゃってね。古典の資料をどんどん調べ出した。いくつかのちょっとした発見もしたんだよ。ところがね」
「ところが?」
しのぶが先を促すと、イングリドのくつくつがさらに大きくなる。
「一番肝心の、サクヌッセンブルク侯爵領の仕来たりを調べ忘れてたんだよ」
サクヌッセンブルク侯爵という名前にアルヌが微かに反応したがイングリドはそのまま続ける。
「侯爵の領地ってのはちょうど古都の周りがそうなんだけどね。この辺りではきのこを食べない。それを調べてなかったチビは、よりにもよって一番目玉の大皿にきのこをふんだんに使った料理が出されるのを見過ごしちまったんだね。莫迦な話さ」
しのぶの背筋を嫌な汗が伝う。お客の苦手な食べ物や出してはいけない食べ物を事前に選り分けるのは料亭でも大切なことだ。今のような話にも思い当たる節がないわけではない。
ゆきつなではしのぶの知る限りそこまで大きな失態を晒したことはないが、雇い入れた料理人の中には似たような事件を起こして元の店に居られなくなったという者もいた。
「それで、サクヌッセンブルク候はどうしたんだ?」
沈痛な表情で尋ねるアルヌに、イングリドは笑ってみせる。
「お前さんの心配するようなことは起きなかったよ、アルヌ。チビは無事さ。当時のサクヌッセンブルク候は名君として知られた人だったしね。ただまぁ、誰かが責任をとる必要はあった」
「侯爵は怒らなかったのに?」
「シノブも子供じゃないんだから分かるだろう? 二人がこの役を引き受けるっていうのはちょっとした大抜擢だったんだ。選んでくれた人にも迷惑が掛かりそうな話だったからね」
「じゃあ、その学僧さんは……」
「いや、聖王国を去ったのはノッポの尼の方さ。全部の責任を引っかぶってね」
全ての責任は自分にあるという書状を関係者全てに送り付け、その次の朝にはノッポの尼の姿は聖王都になかったという。あまりに逃げっぷりの良さに、ノッポが真犯人でチビは巻き込まれただけだという話で落ち着いたらしい。
「なんといってもチビは勉強ができたし、将来も嘱望されていたんだ。それで万事解決、めでたしめでたしって奴さ」
「じゃあ、ノッポさんは?」
「さぁてね。案外どこかで上手くやってるんじゃないかね」
そう言って笑うイングリドの表情はいつもより明るい。
「それにしても、この辺りってきのこが駄目だったんですね。皆さん普通に食べてるから知りませんでした」
しのぶの呟きに応えたのはアルヌだ。
「百年くらい昔、この辺りで魔女狩りがあったんですよ。魔女がきのこで食中毒を広めたっていう疑いをかけて。結局は濡れ衣だったんですが、その反省を忘れまいという話ですよ。それにこの辺りには見分けの付きにくい毒きのこも多い。酒と一緒に食べたときだけ毒性を発揮するきのこもあるっていう話です」
「随分と詳しいじゃないか、アルヌ」
「この辺りの出なら誰でも知ってるよ、若い奴は気にしてないし、出されたものを残すのももったいないしね」
笑いながらアルヌは舞茸の天ぷらを一口で食べる。
「という訳でシノブにタイショー。あまり悪いことは言わないから、この辺りではきのこをきのこと分かる形で料理するのはお勧めしないというわけさ」
「もう随分売ってしまいましたけど」
「百年も経てばきのこ断ちの習慣も薄れているんだろうけどね。用心にこしたことはないさ。テンプラみたいに形の分かりにくい料理なら問題ないのかもしれないけどね」
なるほど、と頷くしのぶに信之が悲しそうな視線を送ってくる。
「まさか、大将」
「いっぱい仕入れたばかりなんだ……マッシュルーム……」
信之の悪癖の一つが、仕入れ過ぎだ。
いい食材を見つけるとついつい必要な量よりも買い込んでしまう。
信之の示した袋の中を見て、しのぶの喉からうへぇという声が漏れる。
「これ、どうするの……」
「それほど日持ちのするものでもないし、早く出してしまいたいな」
悩む信之に、イングリドとアルヌが気持ちのいい笑みを向けた。
「幸い、私もアルヌもきのこ断ちなんかは気にしない性分だから、どんどん出してくれて構わんよ。在庫処分に協力しようかね」
イングリドのその一言でなにかに火が付いたのか、信之は腕まくりをするとマッシュルームの準備に掛かる。
ザクザクと食べやすい大きさにマッシュルームを切り揃えると、フライパンにオリーブオイルを熱していく。唐辛子も忘れずに。
「ほぅ、オイル煮にするのか」
「知っているんですか、イングリドさん」
「若い頃に何度も食べたよ。安い割に美味い。こちらでもカミラに作ってやろうとしたんけど、ここまで北だとオリーブオイルのいいものがなかなか手に入らないからね」
オリーブオイルのいい香りが鼻をくすぐった。たっぷりのにんにくも投入しているので、その匂いは空きっ腹を直撃する。
後は塩とパセリを好みで振れば、アヒージョのでき上がりだ。
「そう言えば大将、この間もアヒージョ作ってなかった?」
「あの時は蛸だったけどね」
「今まで和食一辺倒だったのに、どういう風の吹き回し? のぶは居酒屋だから色んなメニューがあってもいいと思うけど」
「守破離、だよ。守破離」
しのぶが巧くはぐらかされたのは、皿に盛ったアヒージョがあまりにも美味しそうだったからだ。きのこの問題さえなければ、定番に加えたいくらいだ。
テンプラ党のアルヌも、プリン党のイングリドもフォークを手に唾を飲んで待ち構えている。
「さ、召し上がれ」
カウンター越しに皿を出しながら、信之はパンを焼き始めた。
本式ならバゲットを焼く処だが、さすがにそこまで用意周到ではない。
店の二階に住む信之が朝食で食べるために買い置いていたものだろう。
マッシュルームとにんにくの旨味をたっぷり吸ったオリーブオイルに、パンを浸して食べる。考えただけでも殺人的な美味さだ。
食べたい。これは、食べなければならない。
少し分けて貰おうとしたしのぶに、大将がにこやかにほほ笑む。
「ごめんね、しのぶちゃん。にんにくたっぷり入れちゃった」
「た、大将ぉ……」
接客業である以上、にんにくがたっぷり入ったものを開店前に食べるわけにはいかない。
血涙を流しながら怨嗟の声を上げるしのぶを尻目に、信之はさっさと次の作業に取り掛かった。
寸胴鍋に湯を沸かし、パスタを茹でる。
たっぷり作ったアヒージョの残りをフライパンで熱し、そこに茹で上がったパスタを投入。
しっかりと絡めるとマッシュルーム入りのオイルパスタになる。唐辛子とバジリコを少し加えているので、食べやすいはずだ。
「お師匠様、今日もこちらですか?」
ちょうどそこにひょこりと顔を出したのはカミラだった。
前は赤いローブを羽織っていたが、イングリドに貰った黒い方が最近のお気に入りらしい。
何でも、射陳院前の薬師になる為に師匠のイングリドと同じ格好をしているのだそうだ。
「あ、師匠ずるい! 美味しそうな物食べて!」
「カミラもどうだい。タイショーがパスタを茹でてくれてるよ」
「いただきます!」
信之の茹でたペペロンチーノにカミラがフォークで挑みかかる。
「辛い!」
カミラの口には少し辛かったようだが、ひぃひぃ言いながらも美味しそうに食べている。
きのこの在庫を使い切る前に、にんにく抜きのアヒージョパスタを作って貰おうと心に決めたしのぶであった。