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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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老人と魚(前篇)

 ヨハン=グスタフがこの店を訪れるのは随分と久しぶりのことであった。
 以前来た時は確か、まだ寒い時分のことだったと記憶している。
 我が侭な姪の婚姻の前に、せめてもの思い出づくりと市井に連れ出したのが、運よくこの店だったのだ。

「ヨハン=グスタフ、この店か?」
「ええ、伯父上。なかなか興味をそそられる店構えでしょう?」

 今宵もヨハン=グスタフには連れがある。
 その日連れてきた姪ほどではないが、少し難のある人物ではあった。
 髪が銀に染まってなお矍鑠としたこの伯父が、どういうものを居酒屋で食べるのか、ヨハン=グスタフにはまるで想像がつかない。

 初夏の陽射しは黄昏時といえども額に汗が滲むほどだ。
 こういう日には、この店でアレを飲んで涼を取るのも面白いと思いついて伯父を連れてきた。

「失礼するよ」
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」

 硝子戸を引き開けると店内から威勢のいい声とともにひやりとした冷気が流れ出て来た。冬に来た時も店が暖められていたが、何かそう言う工夫があるのだろうか。

「今日は随分と空いているね」

 伯父にカウンターの椅子を勧めながらヨハン=グスタフは給仕に尋ねる。
 これだけの店だからもっと客が入っているかと思ったのだが、今日だけはこの幸運に感謝する。

「明後日の会議の前で、街中がピリピリしているんですよ」
「ああ」

 会議と言われて納得がいった。
 二日後に、古都でちょっとした会議が開かれるのだ。
 帝国から離脱しようという意思を隠そうともしなくなった三つの領邦の代表を、帝国側が出迎える。
 直前で古都参事会議長のバッケスホーフが罷免されるという事件はあったが、他の参事会員の努力もあって無事に開催に漕ぎつけた。

 帝国の方針は離脱の阻止だが、相手側である三領邦は帝国のことを老いた豚と呼んで軽く見ているらしく、会議は難航するというのが大方の予想だとヨハン=グスタフは聞いている。

「それは居酒屋にとっては災難だね」
「そんなこともないですよ。暇な日がずっと続くと困りますけど、こういう日に来て頂いた方が、ゆっくりとお客様をおもてなしできますし」

 そう言って微笑みながら、給仕はオトーシを置いていった。
 小鉢の中には魚の料理らしきものが入っている。

「ほう、これはニシンかな?」

 珍しそうに小鉢を覗き込んで、伯父が尋ねた。

「いえ、鰊ではありません。これは小鯵の南蛮漬けですね」
「ナンバンヅケ、とはまた聞かぬ料理だな」
「一度揚げた小鯵を、甘酸っぱいタレに漬けるんです。揚げたてをお出しすることもあるんですけど、暑さが厳しくなってくるとこうやってちょっと漬け置いたものをお出しするんです」
「ほほう」

 興味が湧いたのか、伯父がフォークで小鯵を口に運ぶ。
 倣ってヨハン=グスタフもそれに続いた。

 酸っぱい、と言っても、嫌な酸味では全くない。
 口の中に爽やかな甘酸っぱさと、ほんの少しの辛さ、そして魚の味が広がっていく。これは美味い。
 ヨハン=グスタフも貴族として色々な腕自慢の料理を食べてきたが、これほど繊細な味の作り方をするのは東王国出身の数名に限られる。

「これは美味いな、ヨハン=グスタフ」
「ええ、伯父上。この酸味が素晴らしい。食欲の落ちた夏でもこれなら食べられそうです」
「全くだな。だがな、この酸味をしっかりと引き立てているのは、隠された辛さではないかな」

 伯父がフォークで取り出したのは、小鉢に潜んでいた小さな赤い輪だ。
 確かに、見るからに辛そうではある。

「正解です。それは鷹の爪という調味料で、その辛さが料理の味を引き締めるんです」

 給仕の説明に、伯父とヨハン=グスタフは顔を見合わせた。

「鷹の爪、ですか。伯父上に相応しい調味料ですな」
「全くだぞ、ヨハン=グスタフ。これは吉兆かもしれん」

 何のことか分からずに微笑んでいる給仕に、伯父は小さく咳払いをする。

「ところでお嬢さん。申し訳ないのだが、このナンバンヅケは余、いや、私の見立てでは大変に酒に合うと思うのだが」
「はい! 何になさいますか」
「エール、で良いのか、ヨハン=グスタフ?」
「以前来た時は、トリアエズナマの名前で出ておりました」

 その名前を出すと、給仕と店主、それに皿洗いの少女までが揃って申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「すいません、お客様。トリアエズナマは今、お出ししていないんですよ」

 店主が頭を下げるが、そこで引き下がる伯父ではない。

「それは困る。今宵、私がこの店に来たのはそのトリアエズナマとやらを飲みたいということもあるのだ。ここは枉げてお願いしたい」
「バッケスホーフ騒動のことは聞いている。もし在庫があるなら、伯父上に飲ませてやってくれないか」

 給仕と店主が顔を見合わせ、頷き合う。息が合っているというのはこういうことをいうのだろう。給仕がさっそくカウンターの奥へと姿を消した。

「本日は特別に、ということで」

 運ばれてきたジョッキには黄金色の液体が並々と注がれていた。
 きめ細やかな泡を見る伯父の目は鋭い。ひとしきり観察すると、伯父は掌を擦り合わせてジョッキと向かい合った。

「では、失礼して」

 伯父の喉が鳴ると、ジョッキの黄金がするりするりと胃の腑へと流れ込んでいく。とても今年七十八の老人の飲みっぷりとは思えない。
 ヨハン=グスタフも後に続く。前回はヒルデガルドを連れて来ていたのでしっかりとは味わえなかったのだが、改めて飲むとこの美味さは圧巻だ。

 ごとり、と空のジョッキを置き、伯父は突然笑い出した。
 昔からあまり笑うことのなかった伯父だ。それが、哄笑と言って良いほどの笑い声をあげている。

「ヨハン=グスタフ! 傑作だ! こいつは傑作だぞ!」
「と、申しますと?」
「これをラガーと疑った奴がおったと言っておったな?」
「はい、ブランターノ男爵からはそう聞いております」

 古都の近くに領地を持つブランターノ男爵はどういうわけかこの問題に執心していて、ラガー流通禁止の勅令を期限通りに撤回するようにと帝国議会に訴えを出していた。
 まさかあの気位の高い男が居酒屋一軒のために重い腰を上げたとも思えないが、理由が分からないので社交界では少しの間、話題になったほどだ。

「間違った奴がラガーを飲んだことがあるのかどうかは知らんが、これは“法律で取引を禁じられたラガー”ではない。私がそう証言する」
「では、エールですか」
「いいや。恐らくはラガーだろう。だが、帝都の造酒司で作っているものとは味わいが違う。あちらの方が懐は深いが、キレはこちらの方がいい」
「なるほど」
「別の場所で作られたラガーがもう既にあるというのなら、あの勅令は無意味だな。<気取り屋>ブランターノもたまには意味のあることを言う」

 上機嫌で伯父は次の一杯を所望する。ついでにオトーシもお代わりした。
 このナンバンヅケはラガーに合う。
 家でも作らせるべく、ヨハン=グスタフは見た目と味をできる限り覚えて帰ろうと思った。

「それではお客さま、お料理は如何致しましょう?」
「そうだな。では、私は魚を貰おう。とびきり旨い奴が良いな」
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