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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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トリアエズナマの秘密(壱)

 その日は朝から雨だった。
 雨足は強い。しのぶと信之の店が古都に繋がって一番かもしれなかった。
 まだ朝の内から降り始めた雨は次第に風をはらみ、硝子戸を揺らす。
 昼前にはちょっとした嵐のようになったので、この日の鰻弁当は取りやめることになった。

「ご飯を炊く前で良かったですね」

 最近エトヴィン助祭から簡単な計算を習うようになったエーファは在庫の管理にも興味を持ち始めている。
 仕入れが多過ぎると相手が信之でもきちんと怒るので、店への貢献度は大きい。しのぶが言っても絶対に気にしない信之だが、エーファに言われると気まずいらしく、買い出しでのしくじりは少なくなった。

「鰻は幾らか捌いてしまったから、今日の賄いは鰻だな」
「本当ですか? 私、ヒツマブシが食べたいです」

 段々と店に馴染んできたヘルミーナの最近のお気に入りはひつまぶしだ。
 ひつまぶしと言えばおひつに盛った鰻ご飯を三等分か四等分にしてそれぞれ食べるのが流儀だ。
 だが、賄いにおひつを出すわけにも行かないので、ヘルミーナは熱いだし汁を掛け回してさらりと食べる。
 あっという間に箸の使い方まで覚えて、食べる姿は堂に入ったものだ。

「ヘルミーナちゃん、昨日もひつまぶし食べてなかった?」
「ひつまぶしなら毎日でも食べたいです!」

 ヘルミーナが宿から通ってくるのもあと数日を残すばかりだが、新居に移ってもここに通いたいと言ってくれている。
 鰻人気が下火になるまではどうやってもヘルミーナの手助けを借りないと店が回らないので、しのぶも信之も胸を撫で下ろしていた。

 日が暮れても硝子戸の外は相変わらずの豪雨で、通常通りの営業はできそうにない。時々エーファが隙間から外を覗こうとするが、あまりの雨音にすぐに閉めざるを得ない程だ。
 そうは言ってもこの雨の中をやって来る酔狂な客がいないとも限らない。
 念のために営業中の札は出してあるが、店内は静かそのものだった。
 賄いを食べ終わるとすることもなく、ぼんやりとした時間が過ぎていく。

「大将、こう言うのって何て言うんだっけ?」

 椅子の背にだらりと身体を預けたまましのぶが問うと、包丁を研ぎながら信之が面倒臭そうに「閑古鳥」と答える。
 確かに客は来ていないが、閑古鳥というのは少し違う。
 どういう訳か入り口が古都に繋がったばかりの頃は、もっと酷い閑古鳥だったのだ。閑古鳥の群生地だと冗談で言ったのをしのぶは覚えている。

「違うよ、何かもっと別の言葉だった」
「分からんなぁ」

 テーブルに突っ伏してうとうとし始めたエーファも、ボトルシップを熱心に眺めているヘルミーナも、この場合は当てにならない。思い出そうとしているのは元の世界の言葉だ。

「あ、分かった。“嵐の前の静けさ”だ」
「嵐ならもう来てるよ」

 信之の心ないツッコミにしのぶはぷぅと頬を膨らます。
 そんなことは分かっている。ただ、何だか胸の奥がちりちりとするのだ。
 それが何かは分からない。何が起こるのか想像して暇を潰そうとしのぶが考えたその時、表で馬車の停まる音がした。

「……馬車?」

 寝惚け眼を擦りながらエーファが顔を上げる。
 しのぶは信之と顔を見合わせ、慌てて客を出迎える用意をした。言われずともふかふかのバスタオルを用意するヘルミーナは大人しそうに見えてやはり漁師の娘だ。

 がらりと硝子戸が引き開けられる。その瞬間、激しい横殴りの雨が店内にも降り込んできた。

「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」

 いつも通りの応対をする間に、硝子戸が乱暴にピシャリと閉められた。
 ぼたぼたと滴を垂らしながら店内に入って来た客の数は二人。
 すかさずヘルミーナがバスタオルを渡すと、大柄な方の客が鷹揚な仕草で受け取った。

 大柄と言っても肉付きは良くない。
 豪勢な服に身を包んでいるが、案山子のように細くなよなよとしている。
 そしてもう一人は対照的に背が低く、貧相な顔に口髯を蓄えていた。
 この髭には確かに見覚えがある。それも、あまりよくない記憶だ。

「相変わらず小汚い店だな」

 髭の小男の言い放つ程度の低い罵りにもしのぶは笑顔で堪えた。

「ようこそお越し下さいました。サンドイッチはお気に召しましたか?」

 問われて男は不機嫌そうに猪首を竦める。

「あの一件のせいでオレはブランターノ男爵家から暇を出されたんだ。忌々しいとは思っても食いたいとは二度と思わん料理だな」
「それは大変失礼をしました」

 言われてみれば後ろに立っている男はあのブランターノ男爵とは別人だ。
 男爵もいけ好かない所があったが、こちらの客は輪をかけて嫌な雰囲気を醸し出している。
 貴族には見えないが、両の手指十本すべてに指輪を光らせているところを見ると、商人か何かだろうか。

 料亭の娘として育てられたしのぶは、人を見る目に自信がある。
 一度だけ男を女と見間違えたことがあるが、職業当てではあまり外したことがない。

 お通しを出すと二人は生ビールを注文した。
 出したのはいつの通りの生ビールだったのだ。だが、この二人の飲み方は妙だった。
 ソムリエがテイスティングをするように、ビールをもったい付けて飲む。
 あんな飲み方をしたらビールが不味くなるのではないかと思うのだが、特に痩せ男の方は何かを確かめるような飲み方でジョッキを空にした。

「この居酒屋でウナギを面白く調理しているとお聞きしましてね」

 注文は鰻だ。
 若作りにしているが近くで見ると意外と年は食っているようで、四十の後半にも、五十の前半にも見える。

「バッケスホーフ様がウナギを御所望だ。早くお出ししろ」

 凄みを効かせて小男が唱える名前に、しのぶは聞き覚えがあった。
 確か、バッケスホーフと言えば今の市参事会の議長だ。
 議長といっても持ち回りだが、バッケスホーフは古都で一番金を持った商会主だと誰かから聞いた記憶がある。

 しのぶは素早く信之に目配せした。
 信之の目は好きにしろと笑っている。

「大変申し訳ございませんが、当店の鰻は昼食のみの販売となっております」

 最上級の謝意を込め、しのぶは頭を下げた。
 鰻もある。米も炊けばいい。
 この雨の中、折角来てくれた客だ。鰻を出すつもりはある。それでも、一度は断って見せるのがしのぶだった。
 相手がこの街でもっとも権力を持っているものだということもある。

 居酒屋の中では誰もが平等。
 だからこそ一度断り、普段来て下さっている客の顔も立てつつ、こちらが折れる。そういう手筈にするつもりだった。

「では、この店ごと貰おう」

 バッケスホーフがそう言うと、髭の小男は懐から革袋を取り出し、テーブルの上にぶちまけた。中身は銀貨だが、量は多い。

「これはどういうことでしょうか?」

 笑顔を崩さずに努力しながらしのぶが尋ねると、バッケスホーフは眉間を揉みながら低い笑いを漏らした。

「何でもこの店は市参事会でも噂になっている店だとか。私は帝都育ちだから古都の食事は口に合わないのですが、こういう店を一軒二軒持っておくのも面白いと思いましてね」
「……仰っている意味がよく分かりません」

 しのぶの言葉にバッケスホーフは片目を見開いてわざとらしく驚いた振りをする。

「この店をね、買おうというのですよ」

 この男が何を言っているのか、しのぶにはさっぱり理解できなかった。
 いきなりやってきて、店を買う。そんな馬鹿な話が通るのだろうか。

「どこから流れてきた異国の者か知りませんが、後ろ盾もなく古都で店を構えるのは大変でしょう。それをバッケスホーフ商会が支援してあげようというのですよ」

 しのぶや信之を見るバッケスホーフの目は完全に二人を見下している。
 見下しているというよりも同じ人間として見ていないかのようだ。

「もちろん、居酒屋のような賤業をバッケスホーフ商会の一員として連ねることはできませんから、ここにいるダミアンくんが表向きの店主ということになりますが」
「そんな話、お受けすることはできません」

 強い口調でしのぶは断言した。
 いくら金を積まれたところで、そんな話を受けるつもりはない。
 ダミアンと呼ばれた小男がニヤニヤとしのぶをねめつける。

「お嬢ちゃん、気の強いのは良いが…… 相手を考えた方がいい。バッケスホーフ様と言えばこの古都で今一番お偉いお人だ。その御方が店ごと買い取って下さると仰ってるんだ。あまり莫迦なことは考えなさんなよ」
「店ごと?」
「おうさ。お前さんたちもな、ちゃーんと雇ってやるよ。そりゃそうだ。欲しいのはこの店の料理人であって、ボロい店は潰しちまっても良い」
「何を勝手なことを言っているんですか!」

 思わず声を荒げたしのぶを、バッケスホーフが下卑た目で舐めまわすように見つめた。舌舐めずりでもしそうな表情だ。

「元気のいいお嬢さんだ。うちの囲い女が年を喰ったんで実家に送り返したんだが…… どうだね、君さえよければ」
「んな……」

 想像していたよりさらに失礼な言葉をぶつけられてしのぶは絶句する。

「うちの従業員に変なことをいうのは止めて頂けますか」

 研ぎ掛けの包丁を持ったまま凄む信之の声は地の底から響いてくるようだったが、商人主従はどこ吹く風だ。

「まぁ、儂としては大人しい方が好みなのでね。そちらの亜麻色の髪のお嬢さんは如何かな?」

 声を掛けられ、ヘルミーナがびくりと身を震わせる。
 それを庇うようにエーファが前で大きく手を広げて立ち塞がった。

「ヘルミーナちゃんは新婚なんです。妾なんかになるわけないでしょう!」
「新婚? それはまた良い趣向ではないですか。どうせ婚姻の手続きなんてどうとでもなるのです」

 片方の口角だけを上げて微笑むバッケスホーフに、ヘルミーナは弱弱しく首を横に振る

「ますますそそりますね。ああ、そのお嬢さんをこちらに引き渡すのなら、あの事は黙っていてあげてもいいくらいです」
「……あの事?」

 抜身の包丁をぶら下げてカウンターから出てきた信之に、ダミアンが割って入った。

「これだよ、これ」

 突き出したのは、さっきまで並々と生ビールの注がれていたジョッキだ。

「ジョッキがどうかしたっていうのかい?」
「ジョッキは関係ありませんよ。儂が問題にしているのは、中身です」

 ほんの少しだけ底に残った泡を干しながら、バッケスホーフが続ける。

「貴方たちはこれをエールだと言って売り捌いているようですね。確かトリアエズナマでしたか」
「それが何か問題でも?」
「大問題ですよ。だってこれはエールなんかではない」
「エールじゃない?」

 しのぶはビールの知識を頭の奥底から引っ張り出す。エールとはビールのことだが、確かに今の日本で流通しているビールはエールではない。

「そう、これはラガーです。間違いなくね」

 勝ち誇ったようにバッケスホーフが宣言する。
 何が言いたいのかわからず、しのぶも信之も黙ってしまう。
 確かに、居酒屋のぶで出しているビールはラガーだ。だが古都の人間はビールのことを全てエールという。だからこれまで何も気にしてこなかった。
 店の外ではまだ激しい雨が続いているらしく、雨音だけが店内を満たす。

「どういうことでしょうか?」

 意を決してしのぶが問うと、ダミアンが腹を抱えて笑い出した。

「こいつは傑作だ。バッケスホーフ様、こいつら何も知らないようですぜ」
「いえ、しらばっくれているだけでしょう。ラガーが法律で禁止された御禁制品だということを知らないはずがありませんからね」
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