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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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ハンスと豆の木(前篇)

 このところ、ハンスに元気がない。
 いや、元気がないというとまた少し違うのだろうか。表情が冴えない、といった方が正しいのかもしれない。そうかといって仕事の手を抜いているというわけでもなかった。

 こういう時にどう扱って良いものか、信之はほとほと困り果てている。
 店で使う今日の分の出汁を引きながら思案してみるが、どういう対処が正しいのだろうか、とんと見当が付かない。
 料亭〈ゆきむら〉にいた頃であれば、覇気の無い後輩はどやしつけるなり酒を飲みに連れて行くなりといった対処のしようもあったのだ。

 だが、ここはまったくの別世界で、ここは自分の店で、しかもハンスは自分の弟子である。
 後輩と、弟子。
 接し方は違って然るべきだということは分かる。しかし、どうすれば良いのかが分からない。

 ハンスが、優秀過ぎたのだ。
 これまで、助けられることはあっても困らされることなど何一つなかった。
 文句の付けようのない弟子としか、言いようがない。

 教えたことはすぐに覚えてくれるし、教えないことも貪欲に学んでいく。オリジナルのレシピを考えさせてもしっかりとしたものを作ってくるし、何よりも素直だ。
 優秀な弟子であるハンスに、今まで自分は師として甘えてきたのではないか。
 そんなことをぼんやりと考えながら、信之は開店の準備を手早く進めていく。

 このところ、アルヌの考えた〈やみつき馬鈴薯〉の評判が良い。信之としては煮物をたっぷり作りたいところだが、今日も揚げ物の動きが良さそうだ。
 ハンスには隣で今日の分のお通しを作ってもらっている。

 客の口に入る料理を任せるのは早いかもしれないという危惧は、もうない。
 厳しく下積みをさせるよりも、自分の作ったものを食べる人の表情を見せて育ってほしいというのがしのぶと信之の共通した想いだ。

 今日は大豆と手羽元を煮込んでいる。
 じっくり煮込んだ手羽元から出た旨味を吸った豆が、実にふっくらと炊き上がっていた。
 お通しを任せるようになって暫くは突飛なものを作ってくることもあったが、最近では地に足の着いた料理を仕上げてくる。

 信之の味を受け継ごうとしてくれていることは、とても嬉しい。
 その一方で、もっと挑戦心を持ってくれてもいい、という気持ちもある。
 ハンスは幼い頃から父親に連れられて旅の中に生きてきた。
 信之が味わったことのない料理や、見たことのない風景、感じたことのない世界を、ハンスは知っている。料理の創作に活かせば、きっと信之の思いもよらない味を作り出してくれるはずだ。

 料理の修行に専心してもらうためにも、ハンスの不調の原因を確かめなければならない。
 何と切り出せばいいのか分らぬまま、居酒屋のぶの開店時間がやって来た。



「ん、今日もオトーシは豆料理なのか」

 開口一番、肉屋のフランクが呟く。
 この店の入り口が古都(アイテーリア)の〈馬丁宿〉通りに繋がった頃からの常連の一人だ。
 ふっくらとしたお腹の持ち主で、お通しには一家言ある。

「そう言えば、昨日も豆だったか……」

 首に片掌を当て、信之が昨日のお通しを思い返す。言われて思い返してみると、ハンスが作ったのは、昆布と豆の煮物だった。

「タイショー、昨日だけじゃない。一昨日も、その前も豆だったはずだよ」

 指折り思い返すと、今日は豆と手羽元の煮物、昨日は昆布と豆の煮物、一昨日は豆とひじきの煮物でその前は豆ごはん、五目豆も出したような気がする。

 フランクに指摘されるのも当然だ。
 いや、そう言えばしのぶにも同じようなことを注意されていたような気がする。ハンスの様子の方が気になって何となく聞き流していたが、完全に不注意だった。

「どうも申し訳ございません」

 頭を下げる信之に、フランクがいやいやと手を振る。

「豆のオトーシは美味いからいいんだけど、さすがにちょっと気になったからさ」

 そう言ってもらえるのはありがたいが、五日続けて豆料理がお通しというのは疑問を持たれて当然のことだ。
 今日は綺麗な鯖が入っているので、豆と手羽先の煮物だけでなく、焼き鯖もお通しとして出すことにした。お詫びというほどのものでもないが、ちょっとしたサービスだ。

「いやぁ、悪いねタイショー。何だか催促したみたいでさ」

 しのぶと一緒に頭を下げながら、信之はハンスの方をしっかりと見ることができなかった。



「それでハンス、豆で何か気になることがあるのか」

 のれん後の居酒屋のぶ。
 エーファもリオンティーヌも先に帰した店内で、信之としのぶ、そしてハンスが向かい合って座っていた。
 店の中はさっきまでの活気が嘘のように静まり返っている。

 フランクにお通しのことを指摘されてから、今日のハンスはいつも通りの仕事にも精彩を欠いていた。大きな失敗をするわけではないが、何となく集中ができていない。ほんの些細な差であっても、同じ調理場に立つ信之の目を誤魔化すことはできなかった。

 誰も口を開かないまま、ただ時間だけがゆっくりと過ぎる。
 しのぶの淹れた熱いほうじ茶の湯気だけが揺蕩う空間で、信之もしのぶもハンスも、表情は曇ったままだ。

 ハンスは、何を思い悩んでいるのだろう。
 信之は視線を伏せたまま、想いを巡らせる。
 料亭〈ゆきつな〉時代での経験から考えると、こういう場合に若い料理人が悩んでいることはいくつかに分類することができるものだ。

 金か、女か、家族の健康。
 ハンスの父親ローレンツも兄のフーゴも最近店を訪れたばかりだから、三つ目ということはないだろう。そうなると、前に挙げた二つのどちらか。
 それ以外の場合は、突拍子もない理由だということになる。

 返答次第では、厳しく叱ることをしなければならないかもしれない。
 長い長い沈黙の後、漸くハンスが重々しく口を開いた。


「実は、豆を育てているんです」
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