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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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味は見かけによらず(後篇)

 いや、まさか、そんな。

〈やみつき馬鈴薯〉のせいか、今日は些か飲み過ぎているようだ。
 エトヴィンの正体が高位聖職者であることなど、実際にはありえない。
 あの怠惰な酒好きが演技だとしたら、あまりにも堂に入りすぎているではないか。

 そもそも、敬虔な高僧としての生活がどう考えてもエトヴィンには似つかわしくない。
 絢爛豪華な刺繍を施された正絹の僧衣に身を包み、荘厳な聖堂で朗々と経典を詠み上げるエトヴィンを思い浮かべ、ニコラウスは思わず吹き出しそうになった。
 あの老人のことだから、堅苦しい生活よりも、酒精とざっかけない肴に囲まれた生活の方を選んだのかもしれない。

「ニコラウスさん、さっきからどうしたんですか。独りで首を振ったり笑ったりして」

 心配そうに顔を覗き込んできたのは、エーファだ。
 最近では皿洗いも手早くなって、空いた時間にはこうして給仕の真似事をしている。

「ああいや、ちょっと考え事をね」

 言い訳じみた受け答えをしながら、ふと隣の席へ視線を巡らせるとエトヴィンの姿がない。

「助祭なら、所用で少し席を立たれましたよ」

 反対隣の席から急に声を掛けられ、ニコラウスは心臓を鷲掴みにされたような気がした。
 振り返ると、いつの間にやら司祭のトマスが寛いでいる。
 香りからすると、傾けている酒器の中身は葡萄果汁(トラウベンザフト)だろう。

 古都の聖堂でも指折りの優秀な司祭であるトマスが居酒屋ノブの半ば常連のようになっているのも、あの老助祭が引きずり込んだのだとニコラウスは見ていた。

「所用、ですか」
「ええ、ああ見えてお忙しい方ですから」

 ああ見えて、どう忙しいのだろう。
 トマスの意味深長な笑みが、ニコラウスの胸中の疑念に再び鎌首を(もた)げさせる。
 寒風吹き荒ぶ秋の夜更けに、いったい何の所用があるというのだろうか。

 いっそのこと、トマスにエトヴィンの正体を問い質してみようかとも思うが、それはできない相談だった。
 呑兵衛の仁義に反するし、第一、何と聞けばよいというのだろう。
 勤務態度が悪いだけのただの助祭の正体を疑ってみせるなど、却ってニコラウスの正気を疑われかねない。

 やはり今日は飲み過ぎているようだ。
 早々に切り上げて明日に備えよう。そう思って懐から合財袋を取り出そうとしたとき、タイショーが油の鍋から何かをさっと取り出した。

 見た目は、正直に言ってあまり良くない。薄く揚げたタツタアゲの出来損ないか何かのように見える。いや、鶏皮だけをカリカリに揚げたものの方が近いだろうか。

「大将、それは?」

 シノブが尋ねると、タイショーはハフハフと味見をしながら「せんじがら」と答えた。
 センジガラ、とは何だろうか。
 席を立つ機を何となく逸して、ニコラウスはもう一度椅子に腰を下ろした。

「ああ、せんじがら。大江さんの」
「そう、広島の大江さんの」

 聞くところによると、タイショーの元同僚である料理人が時々作ってくれた肴なのだという。

「見てくれは悪いんだけどね」

 そう言いながら供してくれた皿に盛られたセンジガラの見てくれは、良くない。

「豚の胃袋を揚げたものなんですよ」

 シノブにそう説明されると、ますます食べる気がなくなってくる。

「シロン油を何かに使えないかなと思ってさ。意外といけるよ」

 エーファにも試食分を手渡しながら、タイショーは二つ目に齧り付いている。
 お試しに、とせっかく出して貰ったのだからとニコラウスは覚悟を決めた。
 考えてみれば豚の内臓だろうがなんだろうが、煮込みにすれば食べたことはある。食べて食べられないことはないさと口に放り込んだ。

「ん」

 思っていたよりも、しっかりとした歯応えがある。
 噛めば噛むほど肉の旨味が口の中に広がるのは、これまでにない感覚だ。

「これは……トリアエズナマ、だな」

 アグアグとセンジガラを咀嚼しながら、トリアエズナマを流し込む。
 瞬間、口の中に幸せが広がった。

 肉、酒精、美味い。
 肉、酒精、美味い。

 こういう時には、エールよりもノブのトリアエズナマのキレのある味わいが心地よい。
 とても単純で分かりやすい幸福感がニコラウスを包み込んだ。
 ついさっきまで帰ろうとしていた意思はどこへやら。思わずもう一切れ摘まみながら、シノブにトリアエズナマのお代わりを注文する。

 奥歯で固いものを噛みしめていると、こんなにも幸せを感じることができるものなのだろうか。
 はじめはおっかなびっくり眺めていたトマスも、おずおずと手を伸ばし、一切れ口に含んだ。

「ああ、なるほど」

 何がなるほどなのかはよく分からなかったが、何か得心するところがあったらしい。
 なるほど、なるほどと言いながらトマスもしっかりと噛みしめている。
 さすがにこれは葡萄果汁という訳にもいかなかったのか、一杯だけと誰かに断りを入れるようにしてトマスもトリアエズナマを頼んだ。
 ここで頑なに酒精を拒めば立派なものだが、一杯だけと喉を潤してくれる方が親しみも湧く。

「このセンジガラ、エトヴィン助祭のような肴ですね」

 よく冷えたエールを甘露のように味わいながら、トマスがぽつりと呟いた。

「助祭のような?」

 ええ、そうですと朗らかに笑うトマスは、どういう意味か答えるつもりはないらしい。
 ニコラウスは心地良く酔いに霞んだ頭を働かせてみる。
 見てくれはああだが、味わってみるとなかなかに味がある、ということだろうか。
 いやいや、神学の天才との呼び声高いトマス司祭の謎かけだ。もっと深い意味が込められているに違いない。

 豚の胃袋、というところに何か意味が隠されているのだろうか。
 腹に一物隠している、だとか。そういう暗示だとすると、これは興味深いことになる。
 聖王国には〈法主の長い手〉と呼ばれる謎の密偵組織があると耳にしたことがあった。
 まさか、あの好々爺然としたエトヴィン助祭がそれと関係しているということもないだろうが、何かしらの裏を持った人物だという可能性は捨てきれない。

 酔った頭で思い返すと、確かに不自然なことがある。

 かつてバッケスホーフ商会が居酒屋ノブをラガーの密輸の疑いで告訴しようとした事件の時、エトヴィン助祭は枢機卿から婚姻確認の書類を取り寄せたことがあった。
 あの時は何の気なしに聞き流していたが、よくよく考えればただの助祭の地位でそんなことが可能なのだろうか。

 他にも、思い返せば不自然なことはいくつもあった。
 いや、今の自分は酔っているだけなのだ、とニコラウスは自分に言い聞かせる。
 酒精が脳の良くないところに溢れているときは、本来繋がるはずもないことをつなげて考えてしまうものだ。

 下らない考えごと噛み下してしまおうと、センジガラを口に含む。
 我ながら埒もないことを考えていると自嘲しながらトリアエズナマのジョッキに口を付けていると、不意にエトヴィン助祭がなかなか帰ってこないことが心配になり出した。

 酒席を中座するにしては、少々長い。
 静まり掛けていた疑念がニコラウスの中で渦巻きはじめたその時、引き戸を開けて当のエトヴィンがひょっこりと顔を出した。

「いやいや、済まん。重要な呼び出しがあったもんでな」

 重要な呼び出し、とは何だろうか。
 ニコラウスは居酒屋ノブでジョッキを傾けているとき、エトヴィンが何度も聖堂からの呼び出しを無下に断っているのを目撃している。
 頭を悩ますニコラウスの目の前で、聖堂からの呼び出しよりも重要な所用の正体は、エトヴィンの背中から現れた。

「……ボルガンガ?」

 エトヴィンが後ろ手からひょいと取り出して見せたのは、巨大なボルガンガだった。
 古都の運河の底に棲む雑魚であるボルガンガはその横に広い口で泥を食べて暮らしており、とても泥臭い魚だ。
 井戸水で暫く泥抜きをしても食えないほどの魚だが、魚醤の材料となるので需要はある。

「いや、実はな。深秋のボルガンガの肝を煮込んで食べると美味いらしいという噂を小耳に挟んでな。前々から釣り人に依頼をしておったんじゃが、秋のボルガンガは用心深くてなかなか掛からんそうなんじゃ」

 特に肝煮にできるような大物はなかなか針に掛からないらしいという話を身振り手振り交えて話すエトヴィンを見て、ニコラウスは小さく溜息を吐いた。
 この老人が〈法主の長い手〉であるはずがない。
 聖堂の呼び出しよりも見てくれの悪い雑魚の釣果を重視するような密偵がこの世の中に存在するはずがないのだ。

「で、タイショーに頼みなんじゃが、このボルガンガを肝煮にしてくれんかのぅ」



 その後はニコラウスとエトヴィン、それにトマスという三人でしばらく呑むことになった。
 妙な取り合わせだが意外に話が弾み、気がつけばすっかり夜も更けている。
 さすがにこれ以上は明日に障るということで散会になった。

 ちなみに、ボルガンガの肝煮の味について、ニコラウスはあまり憶えていない。
「煮ても焼いても食えん魚、というのもおるんじゃな」というエトヴィンの述懐だけは、しかと聞いたのだが、どうしても味が思い出せないのだ。
 噂は噂のままにしておいた方が良いこともある、ということなのだろうか。

 引き戸から夜の通りへ足を踏み出す。
 冷たい空気が、酔って火照った頬に気持ちが良い。
 ふと気になって、ニコラウスは前を行くトマスに尋ねる。

「そう言えば、さっきのセンジガラとエトヴィン助祭の話、どういう意味なんですか」

 トマスは一瞬だけ振り返り、珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「お酒と相性が良い、ということですよ」
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