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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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ある宿屋店員の初恋(後篇)

 その一言は、思ったよりも堪えた。
 もちろん、告白をしたわけではないし、パトリツィア自身の想いを確かめたわけでもない。それでも脈があるのではないかという淡い期待は今の今まで持ち続けていたのだ。

 それが、こうも明確に否定されてしまうと立つ瀬がない。
 立つ瀬はないが、ここで不機嫌にでもなれば自分を許すことができなくなる。
 女にちょっと関係を否定されたくらいで態度を変えてしまうような小人物に、シモンはなりたくはなかった。

 考え方を変えるのだ。
 パトリツィアのいうそんなんじゃないという関係はあくまでも現段階でのこと。将来どうなるかまでは含んでいない。
 奇跡的に職場も同じなのだから、彼女に想いを打ち明ける機会もその先を育む時間もたっぷりあるはずだ。ここで挫折しては男が廃る。
 さあここで失地回復、名誉挽回、汚名を雪ぐ時だと口を開こうとしたシモンに、パトリツィアが追い討ちをかけた。

「だって……シモン先輩は、従兄のお兄さんみたいな人ですから」

 シモンの中で、何かの崩れる音がする。
 従兄のような、ということは結婚どころか恋愛の対象ではないということではあるまいか。
 確かにシモンは子供の頃からパトリツィアのことは実の妹のように大切に扱ってきた。しかしそれは仄かな恋愛感情があったればこそだ。
 まさかそれがここにきて裏目に出るとは思ってもみなかった。

 カウンターの下で握りしめる拳に、じっとりと汗が滲む。
 気持ちが通じていないのではないかと心配していたが、兄のように愛で慈しむ心だけはしっかりと伝わっていたというのだから、これ以上の皮肉はない。

 駄賃が入ったからと、変に恰好を付けるべきではなかった。
 今日は失敗だ。隣で俯きながら酒を飲み続けるパトリツィアに対して、申し訳ないという気持ちが湧き上がってくる。

 先ほどから見慣れぬ酒を舐めていたクローヴィンケル似の老人が、リオンティーヌに何か耳打ちをするのが見えた。
 何やら楽し気に頷いたリオンティーヌが、とても小さなグラスに老人が舐めているのと同じ、琥珀色の液体を注いで持って来てくれる。

 ジョッキと同じく透明なガラスで作られた小さなグラスは、普段シモンが湯冷ましを呑む湯呑みの半分くらいの大きさしかない。
 老人なりの慰めのつもりだろうか。
 つくづくお節介な老人だと呆れるが、今は酔ってしまいたいのも事実だ。

 もう抗うこともせずに、シモンはその小さなグラスに注がれた琥珀色の液体に口を付けた。
 濃い。
 喉を焼くように強い酒精が、シモンの目を覚まさせる。

「強いだろう。ウイスキーという酒だ」

 同じものを舐めるように飲みながら、老人は口元だけで笑った。
 火酒とはまた違った強さがある。
 古都で暮らして十二年になるシモンも、こんなものを呑むのは初めてだった。

「連合王国の西で飲まれているという話は聞いていたが、ここで飲めるとは思わなかった。念願叶って飲めたのでね。君たちにも御裾分けだ」

 君たち、という言葉にパトリツィアの方を見ると、少し顔を伏せながら、大きな目をさらに大きくしてちびちびと舐めている。さすがに飲み過ぎたのか、頬はさっきよりも赤い。

 もう一口、舐める。
 一口目では濃さに驚くだけだったが、味わって飲むと鼻腔を抜けていく馥郁とした香りがなんとも溜まらない。
 さっきまでの情けない気持ちも、いつしか蕩けるように消えていく。

 穏やかな時間。美味い料理。そして、隣にはパトリツィア。
 恋人でなくても、これはこれで幸せな時間なのかもしれない。
 さてと、と呟き、老人が椅子から立ち上がった。

「タイショー、今日は珍しい酒を飲ませてもらった。ありがとう」

 本当は諸国の酒を飲んで歩きたいと思っているんだが、寄る年波を理由になかなか旅立てないままにいるんだ、と老人は自嘲した笑みを浮かべる。

「人間、何かをしない理由を作ることにかけては天才的な力を発揮するからね。今日ここでウイスキーに出会えたのは、何かのきっかけになるかもしれない」

 そう言って差し出したのは、帝国金貨だ。泪滴型(トロプフェン)銀貨の三十枚分の値打ちがある。シモン自身、大口客が大事そうに革袋に仕舞うのを見たことがあるだけで、実際に触ったことはない。
 居酒屋ノブの支払いがどれくらいのものかはシモンには見当もつかないが、明らかに過大だということだけは分かる

「ちょっと、クローヴィンケルさん。これはいくらなんでも貰い過ぎだよ」

 リオンティーヌがそう言うと、既に引き戸を開けて夜の路地へと足を踏み出していたクローヴィンケルが振り返った。

「それは私からの感謝の気持ちだよ」

 貰い過ぎというなら、今いる客の支払いに充ててくれたらいいさ、と言いながら、背中越しに片手を振って去っていく。
 シモンもパトリツィアも、カウンターに座ったまま呆気に取られてその背中を見送ることしかできなかった。



「世の中、お金ってあるところにはあるものなんだな……」
「……うん、そうだね」

〈四翼の獅子〉亭へ帰る道を、シモンとパトリツィアは連れ立ってゆっくりと歩いていく。
 心地よい酩酊が、二人の歩みを遅くさせていた。
 双月は夫婦のように、古都の夜を優しく照らし出している。

「今日の店、なかなか美味かったな」
「……うん、そうだね」

 宵闇に紛れ、隣を歩くパトリツィアの表情は伺えない。

「また来ても良いかもな」
「……う、うん、喜んで!」

 よほど居酒屋ノブの料理が気に入ったのだろう。
 上の空で返事していたと思ったのだが、パトリツィアは思わぬ勢いで食いついてきた。
 今日は焦り過ぎた。これから、じっくりとパトリツィアに想いを伝えていこう。

「今度は誰か別の奴も誘ってみるか?」
「あ、いや、それはどうかな。こういう小さいお店だし、一応、〈四翼の獅子〉亭の商売敵でもあるんだし、やっぱりこのお店はシモン先輩と二人の秘密にした方がいいっていうか……」

 珍しく捲し立てるパトリツィアにシモンは気圧されたが、言われてみればそういうものかもしれない。確かに居酒屋ノブは〈四翼の獅子〉亭の商売敵だ。
 口さがない連中は、こういう店ができたから〈四翼の獅子〉亭が落ち目になったと噂していると聞いたこともある。

「それもそうだな。また、二人で来よう」
「うん、それがいいと思う!」

 今度はちゃんと値段を調べてから来よう。
 そんなことを考えながら歩くシモンは、知らなかった。

 パトリツィアの父親は、彼女の母親にとって従兄に当たるということ。
 そして、パトリツィアは両親のような幸せな家庭を築きたいと思っているということを。
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