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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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一歩(後篇)

 驚いたのはハンスだけではない。しのぶもリオンティーヌもエーファも、信之の方を見ている。
 賄いは確かに上達したが、店に出す料理を作らせるのはまだ先だろうと思っていた。

「い、いいんですか?」
「いいと思ったから、任せると言った。今日の仕出し弁当はもう終わったんだろう? それなら晩の仕込みに入ってくれ」
「はい!」

 気合いの籠もった返事をすると、ハンスはてきぱきと動きはじめる。
 ここ数日の様子がまるで嘘のようだ。
 元が衛兵ということもあって、ハンスの動きはキレが良い。洗練された動きというのは見ているだけでも気持ちのいいものだ。店の中の客も、ハンスの所作に見惚れている。

「これは今晩が楽しみだな」

 ベルトホルトがそう言うと、周りの客も深く頷いた。
 豚肉と生姜ということは、生姜焼きだろう。肴にもいいが、ご飯が進む。

「エーファちゃん、少し多めにお茶碗を用意しておいてね」
「ご飯が進みそうですもんね」

 しのぶの意を察したのか、エーファはすぐに準備を始めた。
 信之がハンスを高く評価しているのはしのぶも知っていたが、まさかもう客に出すものを作らせるとは思わなかった。もう半年は下積みをさせるだろうというのがしのぶの予想だったのだ。
 料理人同士にしか分からない成長もあるのだろう。
 確かにハンスの腕前の上がり方には目覚しいものがあった。信之がいいというのなら、シノブから言うべきことは何もない。

 昼営業が終わると、ハンスは厨房に籠もり切りになった。
 信之は、普段通りの仕込みをするだけでハンスには何の助言もしない。成功するにせよ失敗するにせよ、自分ひとりの力だけでやってみろということなのだろう。

 静かな店内にはハンスが生姜を下す音が響いている。賄いがなくなったので、リオンティーヌはエーファを連れて他所へ昼食を摂りに出掛けた。
 ありあわせのおかずで茶漬けを流し込みながら、しのぶはハンスの仕事を見ている。

 お仕着せ姿のハンスが薄切りの豚肉をたれに漬け込んでいるのを見ていると、なんとも不思議な気分になった。
 ここは異世界で、ハンスは異世界人だ。
 そのハンスが作っている料理は、しのぶもよく知る日本の料理。
 いや、ハンスが作った時点でそれはもう異世界の料理なのではないか。
 今でこそ日本から持ち込んだ食材と調味料を使っているが、ハンスの熱意はいつかそれすらも異世界のもので何とかするようになるだろう。

「大将は、ハンスの料理は日本の料理だと思う? 異世界の料理だと思う?」

 小声で問うと、信之は顔も上げずに即答した。

「決まってるさ。ハンスの料理だよ」

 それはそうだ。しのぶの中にある小さな引っ掛かりを、信之はとうの昔に乗り越えていたらしい。

「なぁんだ、そういうことだったのか」

 たったの一言で、しのぶの気持ちは随分と軽くなった。
 何かを守らなければならないのではないかという気持ちは、単なる思い込みだったのだ。

 大切なのは、今、ここにあるということ。
 本当に守らなければならないものは、守ろうとしなくても手業の一つ一つや些細な心掛けの中に宿り、伝えられていく。
 ハンスの包丁捌き一つとっても、そこには信之や塔原の姿を重ねることができた。

 ここは異世界の居酒屋のぶだ。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 米粒の一つも残さずお茶漬けを食べ終え、しのぶは手を合わせた。
 今日がハンスの新しい第一歩だということは、宣伝するまでもなく常連には伝わるだろう。

 きっと今晩は忙しくなる。
 両頬を叩いて気合いをいれ、しのぶは食器の準備を始めた。
 折角集まってくれたお客さんに、粗相があってはならない。



「おぉい、まだ開かないのか!」
「少々お待ちください!」

 予想通りに、その日の夜営業は店を開ける前から大変な騒ぎになった。
 古都の硝子職人の顔役ローレンツが声を掛けるのだから、職人たちは仕事どころではない。
 ハンスの親友ニコラウスがエレオノーラに伝えたから、水運ギルドの幹部連中にも連絡が回る。<鳥娘の舟歌>に動きがあるといえば、<水竜の鱗>と<金柳の小舟>も黙ってはいられない。
 もちろん、古巣の衛兵隊も訓練を切り上げて駆けつける。

 <馬丁宿>通りは思いもかけない大混雑に見舞われた。とは言え上手い具合に衛兵隊がそこにいるので、怪我人その他が出ることはなかった。

「とんでもないことになったねぇ」

 この混乱の原因の一人、リオンティーヌが硝子戸の隙間から外を眺めて楽しげに呟く。
 エーファと昼食を摂りに出掛けたついでに。あちらこちらで今日のことを吹聴して回ったのだ。
 お陰で常連や職人、水運ギルドの人夫や衛兵以外にも駆けつけた一見さんも少なくない。

「リオンティーヌさん、このお客さんをどうするんですか……」

 呆れたようなエーファにリオンティーヌは豪快に笑う。

「いやぁ。誰も来ないよりは余程いいだろう? 混雑を捌くのは私とシノブがいつもの倍働けばいいんだからさ」

 そう屈託なく言われてしまうと誰も責めることはできない。

「で、当のハンスはどうなんだい?」

 これだけの数のお客さんを前にして怖気づいているかと思えば、全くそんなことはない。
 お仕着せ姿のハンスは落ち着いて料理の準備をしている。その表情にも気負ったところはまるでなかった。勝負度胸のようなものがあるのだろう。

「そう言えばハンス、キャベツは切っておかなくていいの?」
「……キャベツですか?」

 しのぶが聞くとハンスは不思議な顔をする。
 そこでしのぶは気が付いた。
 豚肉の生姜焼きと言えばキャベツの千切りだとしのぶは思っていたのだが、ここは異世界だ。そんな常識は関係がないのだ。

 古都で作られれば、それはもう古都の料理だ。古都には古都の新しい形式がある。
 ハンスの料理は、ハンスが思う通りに出せばいい。
 千切りキャベツのない豚肉の生姜焼きというのも、また面白そうだ。

「さあ、そろそろ暖簾を出そうか」

 信之の言葉で、しのぶが硝子戸を開ける。

「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」

 先頭に並んでいたローレンツとフーゴが暖簾をくぐった。

「ご注文は何になさいますか?」

 尋ねるまでもなく、ローレンツの答えは決まり切っている。

「今日のオススメを頼む」
「はい、今日のおすすめですね!」

 しのぶが注文を受けると同時にハンスが動き始める。取り出すのはしっかりと味の染みた豚肉。
 それにハンスはさっと衣を付け、油に放り込んだ。
 おや、と思うがしのぶは口に出さない。お客さんの見ている前だ。
 それにしても、今日のおすすめはてっきり豚肉の生姜焼きだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。豚肉の揚がる小気味の良い音が食欲をそそる。

「豚のタツタアゲです」

 ザクザクと食べやすい大きさに切り分けられた竜田揚げはしっかりと揚がっていた。
 一切れ目を口に含んだローレンツがおほぅと声を上げる。

「これはトリアエズナマが進むな!」

 そう言いながら豪快にジョッキを干す。
 フーゴはもむもむとしっかり味わった後で、リオンティーヌに(ライス)を注文した。
 ビールにもご飯にも、どちらにも合うということだ。こういう肴は店として有難い。
 信之に手招きされ、しのぶはカウンターの陰にしゃがんだ。

「しのぶちゃんも、食べてみて」

 差し出された竜田揚げを一口食べ、しのぶはなるほどと頷く。
 しっかりと味の付いた豚は生姜で臭みもなく、実に食べやすい。
 これは確かにビールが欲しくなる味だ。
 生姜焼き用のタレに漬け込まれた豚肉を揚げると、肴としてこれほどいい具合になるとは。

 もし仮に料亭で出すとすると少し味が濃すぎる気もするが、ここは居酒屋だ。ビールに合う方が良いに決まっている。

「どうですか?」

 豚肉を揚げながら尋ねるハンスに、しのぶと信之は頷きを返した。
 これは、美味しい。
 生姜焼き用の薄い豚肉だから、タレの味がしっかりと沁みているのだ。揚げ具合も申し分ない。
 ほんの微かに古都の魚醤(フィゾーサ)が香るのもまた良い味を出していた。

「出されていた課題が、トリアエズナマに合う肴、だったので」

 そう言ってはにかみながら、ハンスは次々に豚を揚げていく。
 確かに以前、そういう課題を信之がハンスに出していた。餃子をメニューに加えたのも、その時のハンスのアイデアからだったはずだ。
 あれからずっと、一人で肴を考え続けて来たということなのだろう。この執念は確かに信之が認めるだけのことはあった。

 お客さんの評判も上々で、しのぶもすぐに注文取りに戻る。
 信之もハンスもしのぶもリオンティーヌもエーファも、必死に働いてまだ間に合わないという大繁盛だ。ついには近くの店がテーブルと椅子とを貸してくれることになって、店の前でも飲めや歌えの騒ぎが始まった。
 揚げ油を三度も替えながら、ハンスは豚を揚げていく。

「全く、ハンスは愛されてるね」

 エレオノーラのお供としてやって来たニコラウスは混雑を見て早々に引き揚げることになったが、ご祝儀にと少し多めにお代を包んで置いて行った。
 戦場のような忙しさが終わったのは、夜も半ばを過ぎた頃のことだ。
 店中の食材という食材がなくなってはお開きにせざるを得ない。

「お疲れ様」と信之がハンスに茶を淹れてやる。
「お疲れ様です」と受け取るハンスの顔には、さすがに疲労の色が浮かんでいた。だが、やり遂げたという満足感の方が大きそうだ。

「明日からはもっと厳しく行くぞ」
「はい!」

 夜の古都にハンスの威勢の良い声が響く。
 今日の一歩は、ハンスにとっても、居酒屋のぶにとっても、意味のある一歩だった。
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