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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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一歩(前篇)

「なるほど、そこのところをもう少し詳しく教えてくれないか」

 ベルトホルトが教えを乞うているのはエトヴィン助祭だった。
 頬張っているのは今日の日替わりである若鶏の照り焼き定食だ。のぶの昼営業はすっかり定着し、今では暖簾を出す前から店の前にちょっとした行列ができるほどになった。
 並ぶことの嫌いな古都では珍しい現象だと、少し噂になっているほどだ。

 今日の照り焼きも上手くできていた。少し濃い目に味付けをしたたれが食慾をそそるようで、ごはんをお代わりする客もいる。味見をしたしのぶも納得の出来栄えだ。
 二杯目のごはんを掻き込むベルトホルトに、エトヴィンが解説する。

「うむ、つまり、たっぷりと乳を飲ませた後は、げっぷをさせないまま寝かせると戻してしまうことになる。気を付けねばならんよ」
「げっぷをさせるにはどうしたらいいんだ?」
「それには背中を優しくたたいてやることだ。ぽんぽん、とな」
「なるほど、ぽんぽん、か」

 食事時に相応しい話題かどうかは分からないが、店の客は皆ベルトホルトがどれだけ熱心に育児について学んでいるかを知っているので、余計な口出しをしない。
 ベルトホルトの妻、ヘルミーナのお腹はもうかなり大きくなっている。本人はこれまで通りに生活したいと言うのだが、無理はさせられないとベルトホルトはのぶで食べることが多くなった。
 帰りに仕出し弁当を提げて帰るのは妻想いの彼らしい。午後からの訓練では相変わらずの<鬼>っぷりを見せているようだが。

「しかしどうしてまた、エトヴィンさんに聞くんだろうね」

 ロンバウトとベネディクタの冷やし中華を運びながらリオンティーヌが首を傾げる。
 ビッセリンク商会の二人はこのところ毎日のようにやって来るようになった。余程冷やし中華が気に入ったらしい。

「エトヴィンさんが昔いた教会に孤児院が併設されたんだってさ」

 仕出し弁当の受け取りに来たニコラウスは相変わらず事情通だ。今は衛兵から足を洗い、水運ギルド<鳥娘の舟唄>でエレオノーラの秘書のようなことをやっていた。

「孤児院の併設された教会ねぇ。結構大きそうじゃないか」
「どこの教会かまでは聞いてないんだけどね」

 リオンティーヌと受け答えをしながら、ニコラウスの視線はカウンターの方へ注がれている。
 ハンスだ。
 今日はまだ落ち着いているが、例の一件の日とその翌日は随分と塞ぎ込んでいた。
 自分で立て直してはいるようだが、親友のニコラウスの目から見るとまだまだ不調のようだ。

「シノブちゃん、アレ、どうしちゃったの?」

 小声で話しかけてくるニコラウスに、しのぶも声を潜めて応じる。

「ずっと探していた醤油の手掛かりが見つかったから、自分で探しに行きたいって言い出して」
「シノブちゃんとタイショーに止められた、と」
「まぁそんなところ」

 しのぶが希望をきっぱりと切り捨てたことを、ハンスは恨みに思っているだろうか。
 そんなことを悩みはするが、こればかりは認めることができなかった。
 ハンスは優秀だが、まだ修業を始めたばかり。今の段階で中断するのは、誰のためにもならないということをしのぶはゆきつなでの経験から固く信じている。
 料理人として広い世界を見るのは、もう少し基礎を身に付けた後でも遅くはないはずだ。

「それで拗ねてるのか」
「拗ねてるというかなんというか、気持ちの整理の問題じゃないかな」

 この問題については信之もしのぶに賛同してくれている。
 少し違うのは、しのぶがハンスの修業のために残って欲しいと思っているのに対して、信之はちょっとした嫉妬からのようだ。
 料理修行よりも醤油を優先しようとしたことに、信之はほんの少しだけ腹を立てている。
 もちろんハンスがそんな風に思っていたわけでないことは信之も承知していると思うが、職人の感情というのはままならないものだ。

「ちょっとくらい旅に出ても変わらないと思うけどねぇ」

 いつの間にか会話に混ざっていたリオンティーヌが呟く。
 リオンティーヌはハンス派で、ハンスが連合王国まで醤油を取りに行くことに反対をしていない。元傭兵だから旅慣れているということもあるのだろう。

「今が大事な時期ですから」

 実際、ハンスにとっては今がとても大事な時期だ。
 見習いとして厨房に入ったのは年明け頃だが、半年少々でその力量はめきめきと上がっている。
 賄いを作らせても、しのぶが唸るようなものを作ることが少なくない。
 信之は、期待をかけているのだ。だからこそ、旅に出させたくなかったのだろう。

「それで、ショーユの方はどうなんだい?」
「それはもうばっちり」

 醤油については上手く事が運んでいる。
 ハンスの兄であるフーゴがビッセリンク商会から大口の注文を受けたのが、良い縁を繋いでくれた。さすがは大商会というべきか、海の向こうの連合王国にも支社があるらしい。
 関わりができた者の誼で、連合王国でアリイルが買い付けた醤油を古都まで運んでくれるという手筈になっている。
 どこで買い付けられるのかを調べている最中だ。
 話の流れでしのぶが軽く会釈をすると、ロンバウトが不思議そうに会釈を返した。
 ベネディクタもそれに倣うと、美しい赤髪が揺れる。この辺りでも赤髪は珍しいので、思わず見とれてしまいそうになった。

「……それにしても、大事な時期、とはね」

 呟くニコラウスの表情は、我がことのように嬉しそうだ。
 しのぶが何か聞こうとすると、ニコラウスは照れ隠しにように茶碗に口を付けた。
 相変わらず、仲がいい。
 ニコラウスが茶を飲み終ったのを見計らったようにハンスが二人前の仕出し弁当を持ってくる。
 もう一人前は忙しいエレオノーラへ持って行ってやるのだろう。

「良かったなハンス。お前、大事にされてるよ」

 ハンスの背中をぽんぽんと叩き、ニコラウスはさっさと店を出る。後に残されたハンスは訝しげに見送ることしかできない。
 微笑ましい二人をしのぶがぼんやりと見つめていると、信之が厨房からハンスを呼んだ。

「ハンス、今日の賄いは何をやるつもりなんだ?」

 信之が事前に賄いの内容を聞くのは珍しい。これまでになかったことだ。

「えっと、豚肉と生姜(インガー)を使おうと思っています」

 目を閉じて、三秒。信之の考えが決まったらしい。

「よし、それを今晩店に出すぞ」
「えっ」
「作るのはもちろん、ハンス、お前だ」
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