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【Chapter:01 Page004】
 1929年。
 それは世界規模の災厄のフタが開かれた日でもある。

 ――世界恐慌。

 またの名を暗黒の木曜日。


 アメリカ合衆国の大暴落をきっかけに発生した経済危機。
 大半の国がアメリカに頼りきっていたがために、その支えを失ったことから世界のバランスが音を立てて崩れていったのだ。 


 そして、もう一つの災厄が――
 世界の外側から飛びこんでくる……。

 

___________________ 
1929年11月23日 AM1:24
ドイツ 軍領土エリア・シンロス村



 わらわらえ。
 炎よわらえ。

 燃え盛る赤が世界を包む。

 浮かび上がるのは黒い影。
 灯るのは紅き光。

 取り囲むのは、武器をたずさえた軍人たち。
 ライフルや大砲――さらには戦車まで持ちこんでいる。
 まるで国を侵略するような装備ではないか。
 
 だけど彼らの相手は――たった一人の少女だ。 


 二本の手が空をでる。
 まるで曲をかなでるかのように。


 それだけで、
 たったそれだけで――
 
 戦力の半分がごっそりと削ぎ落とされる。


 彼女が身じろぎすれば地面が揺れる。
 彼女が指を振るえば空気が燃える。
 
 
 首をはねろ。
 焼き払え。
 邪魔する者は叩いて潰せ。



 彼女が奏でるのは――絶望的な交響曲オーケストラ。誰一人として眠ることを許さぬ鎮魂歌レクイエム



 曲が終わったころには―― 一つの村が地図から消え果てる。
 そこにいた人々をも巻き込んで……。

 のちに――
 生き残った兵士の一人が残した証言は非常にシンプルなものだった。

 
 あれは魔女ヘクテだ、と……。





【Page004】
――――――――――――――――――――
       The moon has now eclipsed the sun





___________________ 
1929年11月23日 PM20:14
ソビエト連邦 ソロフキ修道院 所長室


 ソビエトで生を受けた少年、アクチェ=ティンクレア。
 刑務所に押しこまれた彼は、生まれて以来のピンチに追いやられていた。


 ゴージャスな部屋で花の匂いに包まれながら、美人に押し倒されているのだ。


 まさにピンチである。
 

「これから……どうして欲しい?」
 美人――この収容所の所長ことアナスタシア=ノグチェフは、うつ伏せになっている少年に問いかける。

 アクチェの答えはひとつ。

「ここから出たい」
 
 もっともだ。


「できればお茶菓子食べてから帰りたい」

 わがまま言うな。



 さてさてさて。
 この状況を傍観者的に見ている者がいた。

 アクチェ=ティンクレアである。
 アナスタシアに押し倒されているアクチェのことではない。
 彼の記憶を探っている――今現在のアクチェのことである。

 リクシスの助けで、失った記憶をつなぎとめるために、今の彼はここにいる。
 昔の記憶の海へと――。

 自分が襲われている姿を見るのは、あまりいい気分じゃない。
 手助けをしてあげたいところだが、今のアクチェには神様と同一いっしょで――見ることしか出来ない。
 だが、しかし――

 昔のアクチェ――今まさに押し倒されている少年の手は、少しばかりこわばっている。

 怖いから? ――違う。
 アクチェのことを誰よりも知っているアクチェには分かる。

 あれは――何かたくらんでいる、と。


 ……どうやら、アクチェは昔からアクチェだったらしい。





 粘着質のあるものが、アクチェの腕に巻かれていく。
 テープを巻きつけているのだ。――腕を縛るために。

「これはどういうこと?」
 うつぶせのまま、アクチェはつぶやく。   

「手放したくないの」
 
「抱き枕には固いよ? ぼく」 

 アクチェの体がころんと転がされる。
 仰向けになったアクチェの顔に、アナスタシアは自分の顔をくっと近づける。
 あと数センチで唇が触れ合いそうな距離。


「私の顔――どう思う?」

 アクチェは答えることにした。

「マスカラが玉になってる」

「……そういうところじゃなくて、顔そのものなんだけど……」

「……スラブ系っぽくない顔立ちだね」

 その言葉に、彼女はやわらかい笑みを浮かべる。
「私の母はモンゴル人なの。……ハーフなのよ」

 どこか疲れた瞳。

 なるほどね、と今のアクチェは思う。

 世界で二番目に社会主義国として立ち上がった国、モンゴル。
 反面、ソビエトのいいなり――お人形と世界からなじられている。

 人種に殊更ことさらこだわるこの国で、異国の血が混じっている彼女が所長になるまで登りつめるのに費やした努力は、生半可なものではなかったに違いない。

 そして、アクチェはエヴェンキ人。
 中国にも少数民族の一つとして存在する種族。
 それはつまり……。

「私とあなたには、東洋の血が混じってる。それが全てよ」

 ようはこういうこと。
 似た境遇の人間に対する同情だ。


 
 一瞬。
 ほんの一瞬だけ、アクチェの視界にノイズが走る。
 今のアクチェはいぶかしむが、残念ながら原因がわからない。


 そうこうしてるうちに、昔のアクチェが物事を進め始める。
「それなら逃がしてくれてもいいんじゃない?」

「それは駄目なの……」

「……どういうこと?」

「あなたを捕まえるように命令されてるのよ」

「誰から?」

「スターリン」

「…………」
 今なんて?
「えーと、スターリン?」

「ええ」

「ソビエト連邦共産党書記長の?」

「ええ」

「この国で一番偉い人?」

「ええ」

「その人がぼくを?」

「そうよ」

「何で? ぼくのサインでも欲しいの?」

「あなたのデータが欲しいらしいの。超能力活動研究所からアンドレイ=カジンスキーが今日来ることになってるわ」

「スプーン曲げでもさせるつもりかな?」

「生体実験って言ってたわ。あなたの血液や肉片をサンプルにしたいって」

 どうやら、ここにいたら死ぬよりひどい目にあうらしい。
 そして、昔のアクチェも同感だったようだ。

「……だったら逃がしてくれない?」

「悪いけど、それは出来ないわ」

 言いながら、アナスタシアはアクチェのボタンを片手で器用に外していく。
 薄い胸板と白磁はくじの肌がさらされ、彼女の五指がその肌をいとおしそうになぞる。

 ……なるほど。つまりこれは償いというわけだ。――彼女の自己満足も兼ねてはいるが。

 アクチェの上に彼女が覆いかぶさり、細い首筋をぬめった舌が這う。
 
 ……そろそろ頃合いだ。


「……える」

 ぼそりと、アクチェはつぶやいた。
 そして、アナスタシアの奉仕を無視して上体を起き上がらせる。

「……え?」
 当然、彼女はうろたえる。

「帰る」

「帰るって、どこに?」

ウチにだけど?」
 さも当然のように、アクチェは言い切った。
 

「どうやって? ここにはGPUゲー・ペー・ウーの特殊部隊もいるのよ? だいたい――ここからどうやって出るつもり?」

「縛られてるから?」

「ええ」


 アクチェは、両手を左右に広げてみせた。
 縛られているはずの、その腕で。

「外したよ」

「……っ!?」

 アナスタシアは、素早く腰の拳銃に指を差しこむ。
 だけど不意打ちである分、アクチェの動きのほうがわずかに早かった。

 彼女の喉元に【それ】が突きつけられ、彼女は銃を持っていながら反撃のチャンスを奪い取られてしまう。
 少しでも動けば、鋭利な【それ】が彼女の喉を突き刺すだろうから。

 アクチェが持っている【それ】は――



「……化石……?」
 かすれた声で、彼女はつぶやいた。

「あなたのコレクション……マンモスの牙の化石だよ」
 喉に凶器を突きつけたまま、アクチェは彼女の手から拳銃をむしりとった。
 TT-1930――ソビエト軍の正式拳銃だ。

 そこらかしこが欠けている化石。
 アナスタシアは傷物と呼んでいたけど、実際は違う。

「この化石はね、太古の原始人が槍の穂先に使ってたものなんだ。――獲物を【切り裂く】ための道具だよ」

 アクチェはこの化石をひそかに隠しておいて、うつぶせになって時に腹の下に隠し――そして転がされた瞬間にテープを切る道具として活躍させたのだ。


 今のアクチェは、ことの一部始終を眺めながら「お見事」と、少し――ほんの少しだけ楽しそうにつぶやいた。



「今度からは手錠のほうがいいよ?」

 アクチェはマンモスの化石をベッドに転がす。もちろん、代わりに拳銃を向けておくことを忘れない。

 これでも食べてと、アクチェはオレンジが盛られた皿を手にして、その中身を彼女の前に転がした。


 アナスタシアは、なんともいえない表情をしていた。
 怒っているというよりは、信じられないといった顔立ち。

 今のアクチェから見れば、気持ちが分からなくもない。理屈が通らないことを大人は嫌う。

「……本気でここから出るつもりなの?」

刑務所ここにずっといたいって物好きがいる?」

「殺されるわよ?」

「子供だからね」

「……?」

「諦めるのが下手なんだ」

「…………」

「……笑えないよね」
 苦笑して、アクチェは所長室を出ていった。

 アクチェの自論は、大人の観点からすればひどくつたない理想論に過ぎないだろう。
 彼女からすればそれは――


 しばらくして、所長室からこぼれた声がアクチェの耳に届いた。



「……甘酸っぱい」



 オレンジの味のことだろうな、と今のアクチェは思うことにした。



▼△▼△▼



 月の光どころか、も星のまたたきすらない夜闇よやみを駆ける。
 なるべく足音を立てずに、だけど急いで。 

 さまざまな場所に潜んで、看守の目が甘くなる深夜まで潜んで――ついにチャンスがやってきた。

 とはいえ――はてさて、これからどうしたものか……?

 今のアクチェには、どうやってここから逃げればいいのかわからなかった。

 今日入ったばかりで構造のわからない刑務所。 
 周りを守るのはプロの軍人。
 こっちにあるのは拳銃一丁。

 こちらに有利なカードは何一つないのだ。
 せめてアナスタシアを人質にすれば選択肢の幅も広がるのだが、いまさら「すいませーん。人質になってほしいんですけどー」と頭を下げるわけにもいかないだろう。というか無理。

 どうしたものかと考えながら、無機質な廊下を進む。



 次の瞬間――アクチェの頭にノイズが走る。

(……っ!?)

 
 何だろう。にごり水が混じってくるようなこの感じ……。

 ノイズが入るとともに、視界が変わる。

 否。
 正確に表現するなら、少し違う。

 歩いてる廊下そのものは変わらない。けれど、違うのだ。
 変わり果てているのだ。   



 ――真っ赤に。


 何もない廊下。鉄骨とコンクリートで造られた、温かみを失った一本道。

 ノイズが走る。

 血みどろの廊下。血糊ちのり腐肉ふにくで彩られた、奥の見えぬ空洞。



 だだっ広い広間。窓がひとつも無く、人を寄せ付けぬ冷たい空気。

 ノイズが踊る。

 歪んだ立方体。天井や壁に人という名の肉が埋めこまれ、不快な生ぬるい空気を発している。



 何だろう、これは……。ビフォーアフターとしては劇的すぎやしないだろうか?
 今のアクチェは、この状況を努めて冷静に考える。

(今と、先の記憶が混ざってる……? 多分……数時間後くらい……。刑務所が襲われた? ……誰に――それとも……)

 


 ――何に?




 誰もいない、暗い闇。
  
 ノイズがわらう。

 誰かいる。



(――っ!?)

 アクチェの目の前に、誰かいる。

 赤い血と黒い闇を匂わせながら、黒いコートを揺らしてケタケタ笑う。笑ってる。
 



 
 ノイズが走って、アクチェの視界が再び変わる。
 
【誰か】が遠くからこちらを見ている。遠く? ……時間が逆行してるのか?


 闇の奥からふらふらと、まるで人形のようにおぼつかない足取りで。

 ノイズがわらう。 
 
 アクチェと誰かの距離が縮まる。まるで瞬間移動でもしたかのように。
 

 ノイズがわらう。 
 
 アクチェと誰かの距離が縮まる。

 
 ノイズがわらう。 
 
 また距離が縮まる。


 ノイズがわらう。 
 
 また縮まる。


 
 ノイズがわらう。 
 
 また縮まる。



 わらわらう何度もわらう。

 そのたびに距離が縮まって近づいてくるよほらもっと近くにいる逃げなくちゃでも来るんだよほらもっともっと近づいてくるの近づいて、






 そして距離はゼロになる。

【誰か】はそこにいた。
 アクチェ=ティンクレアの目の前に……。

 肉の埋まった天井。
 だらりと虚空にれている手足。
 何もつかめぬ指先からしたたるのは――赤黒い水。

 死と衰退と絶望と闇が腐って散らばったこの世界で、その中心にいるのは――さらにそれ以上の死と衰退と絶望と闇を寄せ集めてし取った深い【何か】だ。

 人でも動物でも無い――ましてや生き物ですらない。



 それが誰なのか、今のアクチェは知っていた。そう、よく知っている。


 影とともに揺れる黒装束
 闇をたっぷり含んだ長い髪。
 死者のような白い肌。

 そして――血を吸ったかのような赤い瞳と、その下に刷りこまれたくま


 彼女の名前を――今のアクチェは知っている。

 ノイズがわらう。彼女もわらう。




 心の中で、今のアクチェはつぶやいた。







 ――サーヤ=ネストーム。



  -BLACKBOX-
―ブラックボックス―

The moon has now eclipsed the sun――月が今、太陽を汚してる。
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