意地悪な姉
唯一手元に残ったのは古い懐中時計。もはや時を刻むことのない時計に頬ずりする。何度も何度も。失われた時間を愛しむように。私を狙う二つの目に気づくことなく。
***
弟のイアンがアリシアとの婚約を破棄したいと言ってきたとき、初めは何を言われたのかよく分からなかった。他に好きな相手で出来たという言葉もやはり上手く呑み込めなかった。だって、婚約者のアリシアは美人で気立ても良くて伯爵の娘なのよ。イアンとアリシアは幼い頃から仲が良くて、年頃になると顔を合わせば頬を染めるようになった。幼なじみの二人が成長して恋に落ちる。私の計画は完璧だったはず…なのに。どうして?誰のせいなのかしら。
調べてみると、イアンの想い人は旅一座の踊り子だった。よりによって私が最も忌み嫌う踊り子!娘の名前はナターシャといった。美しく可憐な。そういった形容詞が似合う子。男を愛し、愛されることが似合う女。
高価な宝石を持って、ナターシャに会いに行った。はっきりと言ってやったわ。悪魔のような笑みを湛えて。
「弟と別れてちょうだい。あの子には婚約者がいるのよ。勿論、タダとは言わない。この宝石を持って弟の前から消えなさい」
ナターシャは泣いた。大きな瞳から真珠のように輝く大粒の涙が後から後から溢れてくる。泣き方も嫌いだわ。そうやって泣く人をもうひとり知っているの。卑怯な女だった。
踊り子が泣いていると、天幕に一人の男が入ってきた。背が高く、がっしりとした体格。鷲鼻に鋭い眼光。無造作に伸びた黒髪を首の後ろで結っていた。まるで盗賊の頭だわ。踊り子と盗賊なんてお伽噺に出てきそう。つい笑い出してしまいそうになった。慌てて口元を引き締める。
男は庇うように踊り子の前に立って、怨念のこもった眼差しで私を睨んだ。ちっとも怖くなかったわ。ずっと昔、一人の盗賊に会ったから。
「卑しい俗物め。出て行け。二度と妹の前に顔を見せるな」
男は私に向かって言い放った。台詞を取られた気分だったわ。だって、その台詞の方がナターシャに向けて放った私の台詞より遥かに気が利いていたんだもの。悪意の塊。いいわ。私はそういう方が好きなの。
結局、ナターシャは宝石を受け取らなかった。ナターシャの兄は私を天幕から追い出した。丸太のような腕に抱えられちゃ、抵抗の仕様がないわよね。
私を信用していなかった男は、私が一座の天幕を出て町に向かって歩く間ずっと後をついてきた。恐ろしい形相をしていたので、美しい顔立ちが台無しだと思ったわ。
「あんたのような女は一生独り身だろうな」
町に入る門の前で別れるとき、男はとっておきの失礼な台詞を吐いた。私は笑った。
「いいえ。もうすぐ結婚するわ。私に相応しい人と」
「お前のように性根の腐った男にちがいない」
「ええ。性根の腐った卑しい俗物よ」
男は絶句したので、私は晴れやかな気持ちで背を向けることができた。
***
一週間後、弟のイアンは家を出た。ナターシャと別れないというから、私が勘当した。老いた馬をつないだぼろい馬車に積めるだけの荷と美しい踊り子を乗せて、弟は家を出て行った。一度も振り返らずに。さよなら、イアン。弟を見送りながら、私は過去を振り返った。
私とイアンは異父姉弟だ。母は踊り子で、妻を亡くした男爵が踊る母に恋して二人は結婚し、イアンが生まれた。新しい父の男爵はとても優しい人だった。母の連れ子である私を実の息子のイアンと分け隔てなく愛してくれた。けれど、男爵の穏やかな愛情は母を満足させることができなかった。
ある晩、母は屋敷に現れた盗賊の手を取って消息を絶った。母が出て行く瞬間を見ていたのは私だけだった。大柄な盗賊。闇夜に光る緑の瞳は私のものと同じだった。母は私を見て泣いたが、盗賊の首に巻きつけた腕を解くことはなかった。
「一緒に行くか?」
盗賊は問うたが、私は首を横に振った。私の父は男爵だけだった。愛する父を残していくことなどできない。盗賊は母の華奢な体を抱いて闇に溶けて消えた。
私は母が盗賊に攫われたのだと言った。男爵を―――優しい父を傷つけたくなかった。しかし、父は心の何処かで事実を分かっていたのか、一か月ほど探したのち、母の行方を追うのをやめた。母が消えてから、父は弱っていった。
母の失踪後、一年経った頃、父は死んだ。父が死んでから、男爵家に多額の借金が残されていることを知った。私はイアンに借金のことを話さないと決めた。返せない額ではないと思った。私が資産家の老人と結婚して、イアンが資産家の娘と結婚すれば。
私は十四歳でイアンはまだ八歳だったので、長い計画だった。目標に向かってひたすら突き進んだ。目星をつけた伯爵家の娘アリシアとイアンを子供の頃から親しく交際させた。私は老いた子爵をパトロンにして、いくらかの金を引き出した。老子爵はなぜか一度も私を抱かず、死ぬ前にわずかな財産を残してくれたが、私の家の借金をすっかり返せるほどのものではなかった。やがて、イアンとアリシアの婚約が決まった。私も密かに誘惑していた中年の伯爵にプロポーズされた。全ては順調だった。あとは、借金を返して、イアンが男爵家を継ぐだけだった。あの踊り子が現れるまでは。
弟のいない屋敷で私は一人笑った。計画はあくまで計画だったということが可笑しくて。
屋敷の家具や調度品は全て借金の形に奪われた。父が遺してくれた屋敷ももうすぐ奪われる。わずかに残っていた宝石類は全てイアンの馬車に積んでしまった。贅沢な暮しを好んだ母が残したものだ。いいわ。残りの借金は中年伯爵が肩代わりしてくれると約束したもの。私はこの身を彼に与えるだけでいい。女は便利。体が商品になるのだから。
古びた懐中時計に頬ずりする。父が死んだ日、私は時間を止めた。だって、必要ないでしょう。自分の時間なんか一秒だって存在しない。父のため、この家を守るため。私は生きてきたわ。これから、どうしようかしら。中年伯爵に抱かれるために生きていくのかしら?
ふと視線を感じて、顔を上げる。鋭い眼光。大きな鷲鼻。丸太のように太い腕を組んだ男が窓辺に佇んでいた。
「いらっしゃい、盗賊さん。何がお望みかしら?でも、残念。あげられる物は何一つないわ」
「一つだけ残っているものがある」
「強欲ね。いいわ。何でも持っていって」
「いいのか」
「いいわ」
大きな手が伸びてきたと思ったら、男は私の体を抱き上げた。どういうこと?自分を抱き上げる男を見上げると、熱を孕んだ眼差しを向けられる。遠い昔、母を奪いにきた男の目によく似ている。欲しいものを絶対に手に入れる盗賊の瞳に魅入られて、背筋がぞくぞくした。母もこんな気持ちだったのかしら。
私を抱えた盗賊が窓から飛び降りる瞬間、手に握っていた懐中時計を宙に放り投げる。私の時間が動き出した。