月は何を求めている…。
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月に願いを――。
新月から満月へと満ちていく月は、人の欲望を表している。それは決して綺麗なものではない。
これは、俺の知り合いから聞いた話だ。昔、一人の女の恋人が交通事故で、死の淵を彷徨っていた。
命は風前の灯火で、誰もが助からないと思っていた。しかし、女は諦める事をしなかった。
どんなに醜く、どんなに穢れても、ただ『助けたい』一心で求め続けた。
そして、見つけた―――古から伝わる伝承を……。
月はどんな願いでも、一つだけ叶えてくれる……と。女は必死になって祈りを奉げ、願いは成就された。
それだけならハッピーエンドで幕を下ろしていたのである。
しかし、月は願いを叶える為に女にその身体を『要求』してきたのだ。
「……いいのか?」
「私は、その……願いを――」
薄暗い部屋の中、月明かりを受けて照らし出される若い女。部屋の天上は中央がガラス張りになっており、上から差し込む光によって明るくなっている。光に照らされている女の名前も歳も知らないが、体つきは俺の好みである。
一手、お手合わせ願いたいものだ…ベットの上で。しかし、そんな事を言えばあいつに殺されるな。
俺を見つめる目の前の女は、震えた体を自ら抱きしめて俺を見上げている。その瞳には明らかに恐怖の色で染まって、今にも瞳から溢れそうな雫は、辛うじて耐えている状態だ。
しかし、その瞳は真っ直ぐと俺を見据えている。恐怖より勝るものがある…と言う事か。
「願いを叶えるには、特別な代償がいる事を知っているのか」
その言葉に更に体を硬直させて震えを増していくが、かろうじて首だけを縦に振っている。
どうやら、本気のようだ。しかし、どこで情報を仕入れてきたのか…この女が俺の前に現れて『願いを叶えて欲しい』と言っているのだ。だが、それは慈善事業でやっているものではない。願いには、それを叶える為には願いと等しいものが、必ず必要である。
それが、普通では叶える事が出来ないのであれば尚の事、必要だ。
「分かって……ます。願いを、願いを叶えてくれるのなら……なんでも」
「そうか。なら、交渉成立だ。では――」
「必ず、あいつを……」
「ああ、必ず……だ」
不安げな声をあげている女は、必死な目で訴えている。この目をしている女は好きではない。
もっと、卑猥と喜びに満ちた瞳が俺は好きだ。
「さて――今からお前の対価をもらう。それが、どう言う結果を招こうと俺は一切の責任はとらない」
そう宣言し、ゆっくりと女の顔に手を宛がうと力を解放する。光り出した俺の手に廻りの大気から集まってくる青や赤、色とりどりの光の粒子。それが俺の手を依代にして手の周りに幾何学模様を描き出していた。
「うぐっ……はあ、はあ…………くっ」
やがて、光が幾重にも重なりハッキリとしたものを描き出していくに従い、女の顔が苦悶の表情に変わっていくのが分かる。
「我慢しろ。願いが叶わないぞ」
「うっ……あ、ああ……は、はい」
なりふり構わず髪を掻き乱し、発狂している女。汗が飛び散り、口元からだらしくなくヨダレが垂れ落ちる。
決して他人に見せれるような綺麗な姿ではないが、女の望みがそれだけの対価を要求し、尚且つ必要としている証だった。
「随分と、分不相応な願いをしたものだな」
「はあ、はあ……ゆるせ……なか、た……から」
「なるほど。許せない、か」
苦痛に歪む顔をしながらも、時折見せる般若のような表情に俺ですら恐怖を感じてしまいそうになる。
女の情念は怖いと言うが、ここまでくると相手に同情してしまいそうだ。
「では、願いを叶えよう。お前の対価をいただく。上を見ろ――」
「ああ……はい、ありが……とう、ござい、ま……」
苦痛の表情から解放されるように、一瞬だけ笑顔をつくり微笑みながら倒れていく。
この女は、二度と立ち上がる事はないだろう。天上から抜けて差し込む光を受けて綺麗に輝くのは女の涙か、それとも――。
「殺してくれ――か。命には命と等価な存在が必要になるというのに。切ない世の中だ」
幸せそうな顔して横たわる女の体は次第に萎れていき、ミイラのようになっていく。命を吸い取られ、役目を終えた肉体は朽ちていく。それが、自然の摂理。萎れ干からびた身体は最後は灰となる。
灰は、俺の体の廻りを旋回して空へと舞い上がっていき、月の光を受け輝きながら大気に溶け込んでいった。
「幸せに暮らせ。仲良く……な」
それを見送り胸のポケットから煙草を取り出し、火をつけようとしたところで――
「また……行くのですか?」
後ろから聞きなれた声が聞こえてきた。
どうやら、少しご立腹のようだが、気が短い奴だから扱いには苦労する。しかし、それは自分に対する苛立ちを必死に抑えようとしている結果であり、俺はそれを甘んじて受ける事にしている。
「うっせよ、ファル」
「あなたが傷つくのなら……これ以上、私は――」
「気にするな。これは俺の問題だから邪魔するなって何度も言ってるだろ」
「違います。これは私の問題です。だから――」
目を吊り上げて怒りを露にするファルは牙を剥いて唸っていた。こうなると小姑の如くうるさいんだよな……ったく。
「黙れ、ファル」
「うにゃ……くびを、首を掴まないでくださいっ。ち、ちからがあ……」
ふにゃふにゃと力が抜けてくたっとしたのを確認してその辺に下ろす。投げ下ろされないだけ、マシだと思え。俺にだって、それぐらいの道徳心と言うものはある。床の上でだらしない顔で伸びているファルは、人の言葉を喋っているが姿はれっきとした猫だ。猫が喋っているのだからテレビやそれなりの研究機関に出せば、いい金儲けが出来そうだけどな。
しかし、こいつが猫の姿をしているのは俺に一理ある訳で、そんな事は出来ないのだが。
「さて……行くか」
「うにゃあ……どこに行くんですかあ?」
「仕事だ」
「わたしもお……連れて行って、くださーい。一人は……いやですう」
頼りなくヒゲを垂らし、力の入らないヘロヘロとした前足を俺に向けて助けを求めるファル。どこでそんな芸を覚えてきたんだ? こいつは。今度サーカスにでも持って行けば高く売れそうだな。喋って芸をする猫……世界中、捜してもいないだろうから。
「……ったく」
置いていくと後でうるさそうなので、首根っこを掴み俺の肩の上に乗せたが、未だにグッタリとしているファルは静かなものだった。いつもはニャ―ニャ―とうるさいが、これくらい静かだと可愛いものだな。
「さて、行くか」
ファルを肩に乗せ、咥えたままの煙草に火をつけて俺は部屋を出た――。
闇に紛れて標的に近づいたが、どうにも俺の一番嫌いなタイプなようだ。
色男――そう世間では分類される顔をしている標的は、いかにも女たらしという風貌と性格をしていそうだ。
「ちっ……あんな奴のどこがいいんだか」
楽しそうに男と歩く女を見ていると、寂しいが所詮は第一印象は顔だと言う事を物語っている。外見よりも心だと思うのは俺だけか? こんな事考えている時点で寂しい。そんな俺のところに訊ねて来る奴は、大抵こんなろくでもない男に泣かされた女が多い。
俺の仕事は、表向きは『売れない占い師』という肩書きになっている。売れないは余計なお世話だと思うぞ。そして、裏の仕事が今回の事に関係してくるが、あまり詳しくは語れない。そういう契約になっているのだ。
喋れば、俺の首が飛んでしまう。それだけの力を俺は手にしている。そして、裏の仕事をする為には必ず『対価』が必要になる。それが身体の一部であろうと、命であろうと、『復讐』に捕らわれた人間は構わず、それを差し出してくる。俺の知っているどんな存在よりも怖いと思う瞬間だ。
狂気と狂喜に支配された人間は恐ろしい……というところか。
「さて、どうするかな」
「うにゃあ……秋刀魚は焼いた方が好きだにゃ」
シリアスに俺が決めているのに肩に乗って寝言を言いながらヨダレを垂らしているこのアホ猫。どうやらお仕置きが必要のようだ。首をムズっと掴み、これ以上ないくらいに振り廻すっ! 何寝てるんだっ、こいつは。こっちはマジで仕事してるのにっ!
「うにゃ!」
「目……覚めたか? バカ猫」
目を回してフラフラしているファル。情けない鳴き声を上げて崩れ落ちていく姿は滑稽だな……まったく。
寝てるお前が悪いのだから、文句を言われる筋合いはないぞ。
「グルグルする……うっぷ、気持ち悪い」
「無理やりついて来た癖に……寝るとはいい度胸だ」
「だって、気持ちよかったから。でも、今は気持ちわるい……うっぷ」
座り込んで目の焦点があっていないファルは首をあちらこちらに振っている。
「それよりも、着いたの?」
「お前が寝てる間にな。それよりも見ろ」
指差している先にいる男を焦点の定まっていない目で見ていたファルだが、次第に表情が変わってきている。どうやら、ファルにも分かったみたいで鋭い眼光で睨みを利かせ、毛は逆立っていた。
「……愚者」
「ああ……愚者だ」
今回の願いは特に関係ないと思っていたが、なんともラッキーなものだ。
「でも、何故人間の精神が残っているの?」
「そんな事、俺が知る訳ないだろ」
煙草を投げ捨て、これからどうするかを考えていた。このままでは何も出来ない。前を歩いている男は隣の女を見ながら楽しげな笑みを浮かべて饒舌な紳士を演じながら話をしている。
そんな二人を追って歩くファルのうしろを付いていく俺。女はかなりの上玉で男の話術にすっかりはまっているよで、うっとりした表情を向けて歩いている。周りには雑音の如き人の声が木霊し、会話なんて聞こえはしない。しかし、話している内容など大体分かる。
――ここはネオン街。
目の前には無数の電飾を施されたホテルが建ち並び、女も乗り気ではなければこんなところには来ないだろう。
「……ったく、いい身分だよ」
女の浅ましさにも腹が立つが、今は男のいけ好かない顔をぶん殴ってやりたい気分だ。今まで何人の女をそうやってたぶらかしてきたんだ? 女……お前が今一緒にいる相手はお前の事などまったく見てないんだぞ? 正真正銘、お前の『身体』が目当てなんだよ。
「さて……あの女は邪魔だ」
裏路地に入っていく男と女。いよいよ、ホテルに入って貪り喰おうって魂胆だろうが、こちらとしては好都合だ。しかし、あの女がいてはこちらからは手が出せない。女には今回は用はないからな。
「じゃあ、女の方は任せて。男はお願い……くれぐれも無理はしないで」
わざとらしく可愛い鳴き声を上げて俺を見つめるファルの目が光ったかと思うと黒い光がファルの身体を包んでいた。闇に紛れるように黒い光がファルを飲み込み収縮したかと思いきや、今度は膨張して弾けて大気中に拡散していき、また一つの形を成していく。
「では、行って来ます。後の事はよろしくお願いします」
俺の頬に触れていく柔らかい感触を残して、歩いて行くファルの姿はかなりの男前。これはファルの特殊能力の一つで、こんな満月の夜にしか使えない能力だ。
「何していくんだ……あいつは」
妙な感触が残る頬を擦りながら、一人愚痴る。男にキスされる趣味はないって言うのに。
「さて、後は……」
女の肩を叩いて、男との間に入り何か話し始めたファル。
強引な手法だが女の方はそういうのがお気に召したらしく、ファルを見る目がどんどん変わっていた。潤んだ瞳で見上げる女は身体が火照って堪らない様子でファルの腕にしがみ付き、急かしているようだ。これもファルの能力だが、女相手しか使えない欠点もある。
暫く低俗な言い争いを続けていたがファルが勝ち誇ったように女を連れてその場を離れていった。残された男は罵声を上げ、近くにあったゴミ箱を蹴って苛立ちを露にして去っていく。
準備は出来た。後は――
殺るだけだ。
一人になった男が寂しく歩くネオン街。これほど虚しく似合わない場所はないだろう。
そんな場所で俺と男は対峙していた。この場所には誰も来ない。いや、誰も来れない。この場所一帯に俺が結界を張ってあり、誰も立ち入る事は出来ない。
「さて……お前は何人の女を喰った?」
「はあ? ……何の事だよ。って言うか、あんた……誰?」
この状況でもこの男は皮肉を言う余裕があるらしい。いい度胸だ……しかし、今日は日が悪かったな。
「くくくっ……お前、随分と女をたぶらかしては、ヤッたらしいな……人殺し」
「っ! ――何故、それをっ!」
明らかに動揺を示している男は俺を見据えていた瞳に狼狽と困惑の色が宿り始めていた。
「女を犯してその身を切り刻み殺す。快楽殺人者って言うのがお前の本当の顔だろ?」
「あ、あれはっ――俺じゃないっ! 俺が殺したんじゃないんだ。あいつが……あいつが、勝手にっ!」
「お前が女を選び、そしてもう一人のお前が殺す……と、いう事か」
「そうだっ! いや……ち、違うっ、俺は……俺は」
虚勢を張るが精神がそれに追いついていない。かなり不安定な状態のようだ。声が少しずつ、震え初めている。そろそろ、仮面が壊れるな。女を殺し愉しんでいたのはこいつの中にいるもう一つの人格。しかし、女を犯したのは間違いなくこの男だ。
この男は多重人格者として長年苦しんでいた。それを利用されたというところか……。快楽を求めて狂喜と狂気が一つになり、それを愉しんだという事だろう。
「お前に殺された女の姉が俺に助けを求めてきたんだよ。『お前を殺して欲しい』ってな」
「う、ううう、嘘だっ! そ、そそそ、そんな事ある訳――お前、あ……頭おかしいじゃねえかっ!」
最早、理性を失って言葉もまともに喋れていない。もう一息で”アレ”が現われる。
「人殺しよりは、マシだと思うぞ。何人殺した?どうやって殺した?刺殺か…絞殺、撲殺、もしくは…」
「う、うわぁー!」
発狂して、涙を流しながら座り込んでしまった。どうやら、表の精神が耐えられなくて、裏の精神までもが崩壊したらしい。
あの色男然とした顔をしていた男は今はだらしなくヨダレを垂らして惨めに地べたに這いつくばっている。荒い息で涙を流しながら、許しを請う哀れな姿。しかし、それは人としての最後の抵抗。
もう人間の仮面は砕け散った。残すは、人ではない者だけ――。
「出てこいよ……愚者」
俺が低く告げると男の身体がビクっと震えた。俺を見ていた怯えた瞳には狂喜に満ちたような光が宿っていく。どうやら人間としては死んだようだ。ここにいるのはただの化け物。人の皮を被った化け物。
「酷い事をする奴だ。この男の望みを、叶えただけではないか」
「愚者にそんな事が出来るとは思わなかったよ……お前、何者だ?」
「この男の願いは『女を全て自分のものにしたい』だった。だから、俺がそれなりのものを与えただけだ」
「だから、俺の話を聞けよ。てめぇは何者だって、聞いてぇんだよ」
声も口調も変わっている。最早、先ほどまでの男ではない。こいつが、今まで女を殺してきた奴だ。
あの男の中に宿っていた寄生虫。人間の欲望を具現化する為に現われた者――それが愚者だ。
「誰でも、よかろう」
「ちっ……いちいち、感に触る奴だ」
卑しい笑い声を響かせて俺を見下している奴の目は血のように赤く染まり、口はだらしなく開きっぱなしになっていた。人間の姿をした悪魔。そう言えば分かり易いだろう。さっきまでの色男はどこへやら、ここにいるのはまさしく悪魔のような顔を持った男。
「そう言うなよ。お前も俺と同じ匂いがするぞ?」
「うっせぇよ。本当にムカつく奴だ」
どうでもいい事ばかり、ベラベラと喋る奴だ。神経を逆撫でする不愉快な声が俺の耳から離れない。
「ムカつくか――やはり、お前も俺と変わらないではないか、違うか?」
「そうだな……違いはないさ。お前等とやっている事は。だが――」
両腕に力を篭める。
腕の血管が破裂しそうなぐらいに圧迫されて膨らんでいく。
「俺は、てめえ等しか殺さねえよっ!」
腕から光が弾け、粒子状の螺旋を形成していく。それが腕に絡まり締め付けてとてつもない苦痛を与えてくる。
「うがぁ! がぁ……はあ、はあ……この痛みはお前が殺した人間の魂の叫び……願いの痛み」
腕を無数に這う楔状の鎖は傷をつけ血を流していく。この痛みが俺を導くのだ、願いを叶える為に。
「その力――やはり、お前も月に願いをした愚か者か」
「どう言う意味だ……?」
口元が嫌らしく歪み、俺を見据えている瞳には同情にも似たものが含まれている。
「可哀相に……お前は何を願った? 金か? 地位か? それとも……恋人の命か?」
「なんで、そんな事を知っているんだ……お前は」
「それは……なあ――」
嘲笑い、愚者は空を見上げる。空には月が煌々と地上を照らしていた。
「俺もお前と同じだったからだ」
口から零れ出た言葉を俺は必死になって理解しようとしていた。こいつは今、なんて言った? 俺と同じ? こいつも願いをしたのか? どう言う事だ。
「分からないみたいだな。俺もお前と同じように月に願いをしたのさ。恋人を助けてくれと……」
「……嘘だ」
「本当だ。俺は月の願いを全て成就させた。しかし――」
愚者の瞳に明らかに怒りの色が沸き起こる。こいつの言っている事は本当なのか?
「あいつは、死んだ。殺されたんだ、月に……」
「どう言う事だ」
「……願いの対価だ」
願いを叶える為に必要な願いと同じだけの価値があるもの――それが『対価』。
「……それじゃ、お前の願いの対価は――」
「彼女の命だった。意味……分からねえよな。助けたい奴の命が対価だって、おかしな話だろ」
吐き捨てるように言う愚者の言葉が俺の心を締め付ける。そんな事あっていいのか? それじゃ、俺のしている事は一体、なんだって言うんだ。
「そんな馬鹿な……それじゃ、なんの為にっ」
「だから俺は月が許せねえだっ! 俺の願いを、あいつを殺した……月がっ!」
空に向かって吼える愚者の瞳には怒りや憎しみよりも悲しみが強く滲んでいた。こいつの気持ちは分らない事もない。
俺も似たようなものだから……しかしっ!
「だから、俺は愚者となった。月へ復讐する為に……。お前もそんな無駄な事はやめろ」
「お前の気持ちも分かるが俺は願いを叶えたいんだ。だから、死んでくれ」
周囲の空気を掌に圧縮していく。空気が震え、耳鳴りが酷くなってきた。
これをあいつに撃ち込めば終わる。後は間合いを詰めて――
「そうまでして叶えたい願いか。だが、俺も死ぬ訳にはいかない。復讐が終わるまでは、死ぬわけにはいかないんだっ」
「うがっ……なんだ、これは……ぐあぁ!」
愚者が片手を突き出し構えると、俺の身体に痛みが走り抜けていった。圧縮した空気は拡散して散っていき、耳鳴りも収まってきた。痛みだけが腹部に残り、鈍い鈍痛を絶えず俺に与えてくる。
「お前と同じ力だ。今は愚者と成り下がったが……お前如きに負けるわけがない」
「黙れ。俺も負けられないんだよっ」
腹から溢れてくる血は止めどなく俺の手を濡らし真っ赤に染めていく。
「その傷でいつまで耐えられるか……楽になったらどうだ?」
「嫌だね。ぐふっ……はあ、はあ……俺は諦める訳にはいかないんだっ」
片膝をついている俺を見下ろすように真っ直ぐと俺の瞳を見つめる愚者。こいつに見つめられる趣味はない。こいつを殺して俺は願いを叶えるんだ。俺は誓ったんだ……あいつを助けると――。
「そうまでして叶えたい願いか。なら、好きにしろ。その先に待つのが絶望でも……後悔はするなよ」
そう言い残すと男の身体は膝から崩れ落ちるように倒れていった。支えを失ったものは崩れるのみ。
今まで愚者が入り動かしていたがそれが抜けた事により、肉体的は死を迎えた。
「逃げられ――がはっ、ごほごほ……」
血が流れすぎたせいか、意識が朦朧とし始めて胃の中身が逆流しそうで気持ち悪い。意識が遠退き、目の前が真っ暗になっているが、俺は死ぬのか? こんなところで……こんなに簡単に死ぬのか? ファル――ごめんよ、俺どうやら駄目らしい。
「ジュナっ! ねえ、ジュナっ! しっかりしてよ。ねえ……返事してよ、ジュナっ!」
朦朧としている中で俺の頬を叩く温もりがある。俺をジュナと呼ぶのはこの世でたった一人だけ。
「ファ……ル」
「ジュナっ、ジュナ、しっかりしてっ」
ぼんやりとした意識の中で聞こえる愛しき声。この声は俺に力をくれる。
「たば……こ……くれ」
泣き始めたファルの頭を優しく撫でる。この温もりを守りたい。だから俺は願いを成就させる。それが苦難の道程でも俺は諦めない。
「ばか……死んだらどうするですか」
涙声で俺を抱き締めようと腕を伸ばすファルは、何度も俺の身体を撫でるように前足を動かしていた。
猫の姿では無理だと言うのに……やっぱり、馬鹿だ。
「死にはしないさ。お前一人、残して死ねるわけないだろ」
先ほどの心細かったときとは違い、温もりが広がる胸の中は温かくて心地よかった。
「こんなに傷ついて……。あなたにもしもの事があったら……私は」
心配そうな顔で覗き込みながら俺の傷を舐めていくファルの舌にくすぐったさを覚えていたが、舐められた場所から次第に痛みが引いていた。流れ出ていた血は徐々に止まり、傷口が別の生き物のように塞がっていく。普通ならありえない速度で塞がっていく傷口は、今では表面に少しだけ跡を残すだけになっていた。これはファルの癒しの力。俺を助けようと手に入れた禁断の力――。
「あなたが傷つくなら……私はこのままでも――」
「心配するな。これは俺が望んだ事だ」
お前が身体と引き換えに助けてくれた俺の命だ。お前のために捧げる事が出来るのなら、本望だ。
「私はあなたさえ生きていればっ」
「……俺が嫌なんだよ」
痛みが引き、起き上がれるようになった俺はファルの頭を乱暴に撫で廻し、煙草を取り出して火を点けた。紫煙が立ち上り、空へと向かっていくが人工の明かりとは別の明かりが空から降り注ぎ、辺りを照らし出していた。
見上げれば、月が真上に来ている。
「……綺麗な月だ」
その声にファルが身震いをしながら同じように上を見上げて月を眺めている。
この願いを叶える事が本当にいいのか、俺は分からなくなってきた。愚者が言っていた事が本当なら尚更だ。しかし、俺にはこれしか手がないんだ。お前を必ず元に戻してやる。どんな手を使ってでも、お前を元に戻してやる。
「ごめんなさい。私のせいで……」
「いや、これは俺の願いだ。これが俺の望みなんだよ」
ファルの頭を撫でながら自分自身に言い聞かせる。俺は望んでこの路を選んだ。
これ以外に方法がなかった。これしかなかったんだ……。
『百人の願いを聞き、成就させる事が出来れば、お前の願いを叶えてやろう』
綺麗に輝く月は俺達をただ照らしている。それが俺にとってのただ一つの希望。
これ以外に残されてないのだ。もう後戻りも出来ない。
「さて、帰るか」
「はい。帰ったら、ゆっくりお風呂に入りたいです」
「猫が風呂好きとは……」
「もう……ジュナは、ちゃんとお風呂に入らないといけませんよ」
歩き出した俺の後ろをトコトコとついて来るファルはブツブツと小言を言っている。そんなファルと軽口を叩きながら家路へと月明かりに照らされた道を歩く。俺達の頭上で優しくも威厳に満ちた光を放つ月。
光を受けて伸びるのは、一人と一匹。だが、それがいつか変わる事を信じて――
月よ……俺の願いを叶えてくれ。
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