蝶の夢
そうだね。BGMにはあの切な過ぎて泣いてしまうくらいの歌をお願い。
八月の下旬、残暑と呼べるような涼しさではなく、もうそろそろ秋に近づいていってもいいんでは、と思わず声に出したくなるような高い気温の日だった。首に纏わり付く髪の毛が鬱陶しく、べたべたとする肌が気持ち悪い。私は夏が嫌いなのだ。
車を走らせてもう三十分が経とうとしていた。生い茂る草木に何の感動も覚えず、移り行く景色すらもどうでも良かった。ただ、どこかに行きたい。そんな気持ちだけだった。
ただでさえ今はガソリンが高く、毎月頭にまた値上げとニュースが流れる中での贅沢なドライブは何の意味も持たない事なんてとっくのとうに気付いてる。それでも、どこか遠くに行きたくなったんだ。ステレオのボリュームをまた少し大きく上げる。
昨夜見たDVDは芝居を見に行く途中の父が脳梗塞で倒れてしまいロックト・インシンドロームになってしまうというストーリーで泣いて泣いて泣いて、朝起きて鏡を見ると、まるで別人のような顔だった。
感情をごまかす為に見たDVDのおかげで私は理由を作り泣くことが許された。そうでもしないと素直に涙を流す事なんて出来なかっただろう。
私は静かに煙草に火を点けると昨日のことを思い出していた。
つい昨日、初めて彼を助手席に乗せ家まで送った。職場以外の場所で二人きりになるのは初めてで、隣に座る彼に私の心臓の音が聞こえてしまうんではないだろうかと思った。左半身にやけに力が入る。
「何か……聴きます? 音楽とか」
「いや、何でもいいよ。俺、何でも聞くんだ」
エンジンをかけ、車内にはいつも聞いているR&Bが流れ二人の沈黙をより一層強調させた。あぁ何を話せばいいのか考えておくんだった。
「富谷さんはこれからどうするの? あ、暫く道はまっすぐだから」
先に声を発したのは彼が先だった。彼が言う‘これから’とは明日には私達が勤務をしていた会社が閉店してしまうのだ。だから、これから。私達は別々の道へと行く事になる。
「まだ、決めてないですけどねぇ。正直、これがしたいとかそうゆうのないんですよね。藤永さんは?」
「俺も多分ゆっくり探すと思うよ」
どうして普段仕事をしている時は途切れる事もなく話していれたのに、いざ二人きりになってしまうと何も話せなくなってしまうのだろう。もどかしさが時間が増す事に増えていく。
決して口数が少ない訳ではないと思っている。だけどそれはどうやら好きな人の前では違ったらしい。誰もいない二人きりの空間が妙に息苦しい。
「次の信号は右でお願いします」
何故か彼は敬語だった。普段なら決して使うことのない敬語を使うから、それは少しこそばい感覚にも陥った。どうして、と突っ込む事も出来ずに私はただ相槌だけを返す。
コンビニで座り込む高校生を横目に右折すると、そこは何度か来た事のある電気屋の裏通りだった。この道にも続いていたんだ。知らなかった。
何台も路駐をしている車は邪魔以外に当てはまる言葉はない。この駐車している車さえなかったらもっとスムーズに通行する事が出来るだろうに。反対車線にはみ出した私達は対向車が来ないうちにと元の車線へと戻る。
「富谷さんは普段飛ばす方でしょ」
不意を突いた一言でアクセルを踏んでいた足の力を思わず緩めてしまった。誰かを乗せているときにはそれなりに気を使っているつもりだったのだけれど。信号が赤になり車を止まらせると、横で鼻歌を唄う彼に目を向けた。どうやら彼の興味は車に付いているカーナビにあるらしい。
「飛ばすの、わかります?」
「俺も結構飛ばしてしまうんだよね」
共通点とは嬉しいものでそれを聞いただけで私は、高いお金を払い車の免許を取ったことに感謝する。何事にも億劫だった私は、免許なくてもバスとか交通機関なんていくらでもあるし、とずっと考えていたから。あぁ、重たい腰を上げて教習所に通って本当に良かった。
車が再び走り出すと、普段よく友人とご飯を食べる場所に合流した。彼はここら辺に住んでいたのか。もしかしたら、もっと昔どこかですれ違ったりしているのかもしれない。そんな事を考えていると彼は少し助手席で体制を変えた。
「そこの行き止まりで降ろしてください」
「え、あ、そこですか?」
突然の言葉に戸惑う私の隣で彼はうん、と頷く。信号機のあるT時の交差点。人が特別多くもなく、市営住宅と一緒に遊具が錆びている小さな公演があっただけだった。あぁそうか。家まで知られるのって私でも嫌だな。だから、少し前で降ろしてほしいのか。
「うん。俺ここ住んでるから」
彼は市営住宅の一角を窓越しに指を差した。少し古びれているけれど、クリーム色がかかったおしゃれなその外観は何だか彼にとても似合っているような気がした。もう二人の時間は終わってしまった。十五分もかからなかったと思う。とても早く短い時間だった。二人の距離を縮めるなんて事は到底出来ない時間だ。
「どうもありがとうね」
シートベルトをがちゃりと外し、ドアを開けると躊躇することなく彼は助手席を降りてしまった。名残惜しさのカケラもない。後ろくらい、振り返ってくれてもいいのに。車を停めて置くほどのスペースがなく、私は後ろの車に急かされながらもハンドルを握り、ブレーキに乗せていた足をアクセルへと移す。
車を動かしたその時、まだ彼が歩道でこっちを見ながら立っていた。私がその姿に気付くと軽く会釈を合わせ小さく手を振ってくれた。バックミラーにまで映っていた彼の姿は本当に愛しくて車を捨てて彼の元へと走りたい程だった。
T時交差点を右折する頃にはもう彼の姿はなく、ほんの何秒の時間が私と彼の最初で最後の時間だった。見つめ合うこともない、ただ手を振り合っただけ。これが私の恋の結末だ。
それからはもう、あっという間の時間だった。閉店の後、事務所で笑顔でまたねと言った彼の顔は本当に清々しく、どうせまたなんてないでしょうにと言いたくなる程で憎らしくもそれでも私は彼の言葉に胸を躍らせた。
連絡先の交換も社交辞令。私はきっと何も出来ずに終わるような気がしている。何時まで経っても自分から行動する事が出来ずに、車に乗れば昨日は彼が隣にいたのにと戻らぬ時間に縋りついている。
どこか遠くに行きたいと思ったのはこの可哀想な自分をどうにかしたいと思ったからなのかもしれない。予定のない午後、風の通らない暑い部屋にずっと居るよりはまだマシだろう。そんなつもりだったのに。
夕暮れ時はどうも苦手だ。あの日が沈んでいく哀愁たっぷりのピンクのかかったオレンジ空を、私は直視することが出来ない。色んな事に胸が詰まり息苦しくなってしまうからだ。ほら、また。昨日のことを思い出してしまったじゃないか。
「あーあ」
昨日までの時間をどう取り戻せばいいのだろうか。時間があることに感けて何もしてこなかったのに。彼が何を好きだとか、嫌いだとかそんな事も知らないというのに。
「好きって言っておけばよかった」
泣き腫らした目にむくんだ顔で何を今更。
ふかした煙草の灰が今にも崩れて落ちてきそうだ。必死にそれを支える左手もなんだか妙に重たかった。ゆっくりと灰皿へと落とすと、音も立てずに灰は散ってしまう。
そう。それはまるで私達のように。跡形を残す事も無く綺麗に散っていった。