月の人
これは九月の企画小説です。テーマは「月」で、他の先生の素晴らしい作品はキーワード「月小説」で検索できます。
本当はいくら、こんな事を書いたところで意味はないのだけど、在るものを在るように書くというのが僕の主義な訳で…。
メアリ・ノートンが、週末に男とドライブに行った事から物語は始まる。
男というのは、医者の息子で数々の恋愛遍歴を持つノア・ロビンソンの事である。
賢明な読者の事だから、ノアがどのようなやり方でメアリをドライブに誘ったのかは簡単に予想がつくだろう。
プレイボーイがプレイボーイ足る所以は、その口の巧さと、絶妙なタイミングを掴む能力の高さにある。
とにかくそのようにして、彼の黒いベンツは走り出したのだった。
週末の道路は、少し混んでいてこんな日には、洒落こんで郊外にまで足を伸ばしたいと思う人も多い。
さりとて、ノアも例外ではなくセオリーを守る男だったので、季節はずれの海岸を通って、都市部からそう遠くない静かな田舎で休日を過ごそうと考えていた。
車がレイントンの小高い丘に差し掛かると、キンモクセイの香りが風に乗って流れてきた。
「なんて、良い香りなんだろう。」
ノアが言う。
「あたしキンモクセイの香りって好きじゃないのよ。なんか、馬鹿に丁寧な癖にしつこいセールスマンみたいじゃない?」
メアリも言いながら、窓を開け放している。
「そうかもね、君の言うことはいつも正しい。」
ノアも同調してみせる。
それっきり会話は弾まずに、エンジンの駆動音とラジオのジャズだけが流れていた。
道路の混み具合いも、それほどでもなく、スムーズに行くことができた。
やがて海岸通りの緩やかな曲線カーブを通る頃には、燃えるような深紅の夕日がくっきりと輪郭をなぞるように海を赤く染めていた。
「メアリ、見てみなよ。美しい夕日が沈んでいくよ。」
ノアが言う。
「ええ、お日様は毎日沈んでいるわ。あたし達がそれを観測しているか否かに関わらずに…。」
メアリは、チラッと夕日を見ると、もう興味はないとでも言うように前を向いたり、時々溜め息を吐いたりしていた。
ノアも、もう何も言わずにメアリに任せるままに口を閉じていた。
潮風が鼻孔を刺激して、ヒクヒクとするのを我慢しながらノアは、人の居なくなった秋の海岸に車を停めた。
ノアはシートを軽く倒して、肩に入っていた力を抜いて伸びをした。
メアリは、しっかりとした姿勢を崩さずに、持ってきたバックを膝の上に丁寧に置いて、その上に手を重ねていた。
「ねぇ、ノア。私の事を少し変わっていると思う?」
少し間が空いて。
「いや、そうかなぁ。」
「嘘は駄目よ、こういう事はお互いに正直に話をしましょうよ。」
「うん。でも僕は本当に何とも思っていないよ。」
ノアが言う。
「あたしが、こんな風に少し感覚がオカシイのは、あなたのせいじゃないのよ」
メアリはゆっくりとした口調で言った。
「あたしが、男の人といると緊張するのは叔父のせいなのよ。」
「おじさんが?どうかしたのかい?」
ノアは、親身になって話を聞くような素振りで体を上げた。
「結局は、肉体的なことよりも精神的なことで私は心底、疲労しきっているの。」
「へぇ、それはどうして?」
「叔父は毎日。そう毎日、月について話をするの。」
太陽はとっくに沈んでいた。
「叔父は、自分が月に住んでいた頃の話をするの。それだけじゃないわ、月に残してきた女にあたしがそっくりだって言うのよ。」
「それは…また…。」
ノアは少し潮風に当たりたいと思い、窓を開けた。
「なんの冗談だろうと最初は思っていた。けれど、叔父の吐く息や、体に触れる手つきや、月にいた頃の話なんかを、毎日。毎日なのよ。聴かされていると…。本当に、月にはあたしにそっくりの女が居て、叔父の手の中で声を殺している姿が浮かんでくるくるのよ。」
ノアは、最近止めていた煙草に火をつけた。
すっかり海は闇に包まれて、何も見えなくなっていた。月は雲の中だ。
ノアは、体を強くメアリの体に押さえ付けて、言った。
「君が…君が悪いんだよ。」
そして、静かにメアリのシートを倒した。
パン。……パン。
低く銃声が二発轟いた。
一つはメアリがバックから出した小型拳銃で、弾丸はノアの頭を貫通していた。
もう一つは、トランクの中でジャレン・ノートンが自分のこめかみに撃った拳銃だ。
波が静かに揺れていて、月が雲から姿を現した。
僕は今さっき、この話をメアリの部屋で聞かされた。