第3部
4
【マコト】
今は午後4時30分過ぎ。
ノートパソコンを閉じ、もう冷めてしまったブレンドコーヒーをひと口飲んだ。
30分後、僕はアキと会っているのだろうか。
ピエロのメモはアキへのラブレターのように思えた。
あいつがなぜ七年後の僕をこの場所に連れてきたかはなんとなくわかった気がする。
ピエロはアキにわかってもらいたかっただけなんだ。
好きだったということ、会いたかったということ、病気のことを。僕もそのことをアキへ伝えたいと思う。でもアキをここへ連れてくるのはやはり難しいだろう。僕はこのメモにあるようにピエロは偶然に駅でアキと再会なんてしていないのではないかと思う。もしそんな偶然があったとしたら、そのことをピエロは僕に黙ってなんていないはずだし、それに「ユミ」さんっていうアキの友達の死に方は、僕が以前一度だけピエロに言ったことのある、この僕の祖父の死にそっくりだったからだ。メモに書いてあったとおり、これはノンフィクションでもなんでもないんだ。だから、今日アキに会えるとしたら、やはりピエロが何らかの方法で、アキに今日のことを知らせたとしか思えない。
僕は考えてみる。あいつはいつからピエロになったんだろうって。初めてアキとピエロに会ったとき、アキはすでにあいつをピエロと呼んでいた。いつだったか僕がそのカッコ悪いピエロというあだ名の由来について教えてくれと頼んだとき、ただアキは笑っていて、ピエロ自身が
「ぐちゃぐちゃなんだよ」っていうわけのわからない説明をしてくれた。あいつはアキと出会ったときからピエロになったんだと僕は勝手に想像している。
冷めたコーヒーを飲んで、僕はタバコに火を点けた。もうそろそろ約束の時間だ。この1本を吸い終わったら、喫茶店を出て、アキを待たなければならない。
それにしても、ピエロ、今はもう受動喫煙という言葉が浸透し、病院では敷地内すべて禁煙になったりしているんだよ。灰皿ひとつも置いていない時代になった。駅だって朝のラッシュ時には吸えなくなってしまったんだ。
【アキ】
この猫を拾ってきたのは今から3年前くらいじゃなかったかしら。
オフィスの前でこの子猫がミャーミャー鳴いていた。まだ生まれたてだったみたいだし、置き去りは危険かもしれないと思ったから、とにかくアパートに連れて帰ってきちゃったんだっけ。しばらくは落ち着きがなかったのだけど、1週間くらいで私にも慣れてくれてきたみたいだから、名前を考えなきゃって思ったんだ。
「タマ?」
「ポチ?」
「チョコ?」
「アイス?」
「ミント?」
いくつかの名前を呼んだけど、子猫の方は気に入らないみたいだったので、少し私は笑ってしまった。名前なんて何でも良いのかと思ったけど本人の意思も尊重しなければならないし。
オス猫だからかな。うーん。
「マコ?」子猫はつまらなそうだった。
「じゃあ、ピエロ?」
すると子猫は私の目をしっかり見ながら1回だけ鳴いたので、私は子猫をピエロという名前にした。私はなんでいつもピエロと呼んでしまうのだろう。人間のピエロは元気にしているのかな。しばらく音信不通になってしまったけど、友達のことはやはり気になる。
せっかくの休日だからゆっくり寝ておこうと思っていたけど、今日は朝早くからやたらとピエロが甘えてきて、私の足に顔をすりすりとしてくるので、首輪につけている鈴がチャリチャリ鳴っていた。
首輪には『ピエロ』と書いてあり、その脇に若干小さな文字で『飯村アキ』と入れておいてある。念のため、パソコンのEメールアドレスも小さく書いておいた。ピエロが迷子になることは考えにくいが、例えばピエロが万が一怪我をしたときとかの場合に備えて連絡先を記していたほうが良いと考えたからだ。迷惑メールが着たら、アドレスを変えればいい。
これはピエロ専用のアドレスだからだ。キャットフードを餌入れに入れ、またすぐベッドにもぐりこんだ。
夢には人間のピエロとマコト君が学生時代の変わらずの姿で現われ、私たちは笑いながら何かを話している。久しぶりの二人だった。
昼ごろ起きたとき、ピエロの姿が見当たらなかった。ピエロは外出したみたいだった。私はピエロのために猫が出入りできるくらいの小さな窓を極力開けっぱなしにするようにしている。彼には彼の生活をしてもらいたかったからだ。
【マコト】
現在午後5時をちょっと過ぎたところだ。
まだアキは現われない。
僕はピエロが飛び降りたビルを見上げていた。
僕は今、こともあろうにピエロがこのビルから飛び降りたときのことを想像している。
どういうふうにあいつが死んでいったかを。
どんな過程でグチャグチャの肉片になっていったかを。
通りを行く車は多分まるでミニ・カーみたいにみえるくらい高いビルの屋上だ。飛び降りた瞬間、いろいろな部屋があいつの視界から入っては消えていった。あの部屋もこの部屋も、みんな幸せそうに見える。ピエロは少し後悔してしまったかもしれない。死にたくないって。そして最後にはアキ、君のことを考えたはずだ。
そんなこと考えていると、1匹の猫が僕の近くに座って舌で前足を舐めていた。しかし、アキの姿は相変わらず見当たらない。この猫はピエロなのか。僕は中腰になり話しかけてみた。
「ピエロ?」猫は相変わらず反対の前足を舐めていた。返事はない。僕は思った。やはり生まれ変わりなんて現実的に考えない方がいいと思った。
「ニャーニャー」と2回鳴くと書いてあったが、これはピエロの生まれ変わりでもなんでもないんだ。ピエロは必ずアキに会わせると言っていたが、結局は7年前の僕と同様に連絡がとれなかったのだと思う。僕は座って、猫の頭を撫でながら、話しかけた。
「ねえ、君、僕はここで待ち続けた方がいいのかね。どう思う?」
やはり猫は何も答えない。
ただ頭を撫でられるのは好きみたいだった。
ちょっと撫でるのをやめると、猫は僕の足に頭を擦り付けてくる。首輪の鈴がチャリチャリと鳴っている。やけに警戒心のない猫だなと思った。しばらく猫と遊んでいた。そして、僕が首のところを撫でてやると首輪の鈴がチャリチャリ音を出し、猫はゴロゴロとしていた。首輪のところを見ると、名前らしきものが書いてあるのを見つけた。僕は猫に「ごめん、ちょっと見せて」と言った。僕は「ハハハ」と笑ってしまった。『ピエロ』と書いてあり、その脇に控え目な感じで、アキの名前とEメールアドレスまで書いてあった。
「君はアキの猫だったのか。きっと君はピエロの生まれ変わりなんだね。今日は来てくれてありがとう」と僕がうれしくて言うと、猫のピエロは「ニャー」と鳴いた。
僕は笑いながら言った。
「でもさ、約束と違うよ。本当は2回鳴くはずだったじゃないか。それにアキを連れてくるって書いてあったんだぞ、あの手紙には」撫でてやると猫は相変わらず気持ちよさそうだ。
「じゃあ、早速アキに連絡してみる」と言って、首輪に書いてあったEメールアドレスをメモし、さっきまでいた喫茶店に戻った。猫のピエロもどこかへ行ってしまったようだった。
【アキ】
時計を見るともう午後3時20分だった。
今日の夢に出てきたマコト君とピエロ。
もう何年も前から連絡をとってないのになぜ今日に限って2人が夢に出てきたんだろう。
2人は笑いながら私に何かを言っていたが、それが何だったか今は思い出せない。
学生時代、ピエロは毎日違う本をもって大学近くの公園のベンチに一人で座っていた。私は毎日どうしてそんなに本が読めるんだろうって疑問に思っていた。ピエロはいつもタバコを吸いながら本を読んでいて、何かをメモしているときもあった。私は少しピエロに興味を持ったので、ライターがない振りをして、「ライター貸してくれない」って私から話しかけたんだっけ。そして私たちは友達になり、私はいつの間にか名前ではなくて『ピエロ』って呼ぶようになった。ピエロはいつもどこかおどけた様子をしてたから。
マコト君は?どういうふうに友達になったんだっけ。そう、確かマコト君も私の方から話しかけてきたんだ。
「君、哲学の授業で一緒の人だよね。レポート全然かけなくてさ。ソクラテスとプラトンの関係だって全く知らないし、マルクスの経済と哲学の区別もできないくらいだし。私、あのクラスでは友達が少ないし、授業もほとんど出てなかったから、もう全然。全く話したことのない人に頼むのもどうかと思うけど、もう困っちゃって大変だから、申し訳ないんだけど、ノート貸してくれない?」
「もし今週末の暇つぶしのための本を探しているなら、君のノートの変わりにこの本、人質として持っておいて。それ、大切な本だから。今度の月曜日のこの時間にノートと引き換えに返してね」
そう言って私はヘルマン・ヘッセの「知と愛」を貸したんだ。マコト君はノートを貸してはくれたが、なんだか困った顔をしていたっけ。でもおかげで単位は取ることができた。
それで次の月曜日にピエロとマコト君と一緒に公園でぼんやりしていたんだ。マコト君が
「この本すごく面白かったよ」って私に言うから、
「その本、私読んだことないの」って言ったのを覚えてる。ピエロは笑ってた。だってそれはピエロの本だったからね。
そんなことを思いながら私はパソコンに電源を入れた。今は5時40分。新着メールが一通届いているようだ。
>飯村 アキ 様
> マコトです。僕のこと覚えてる? ずっと連絡をとりたかったんだけど、なかなか連絡先がわからなくて。突然のメールでビックリしたんじゃないかな。
> まず要旨だけ。ピエロのことなんだ。あいつはこともあろうか、今から7年前の今日、高いビルから飛び降りてしまった。君はおそらくピエロのこの訃報を今まで知らなかったんじゃないかと思う。
> 今日、七年前のピエロから手紙とフロッピーが届いた。ピエロが逝ってしまったビルに午後五時に来てくれないかという不思議な内容の手紙だった。そこには僕とアキを必ず会わせるって書いてあったんだ。だけど、君は現われなかった。
> でも、猫のピエロが君のEメールアドレスを教えてくれたので、今は近くの喫茶店で君にメールを書いている。
> ピエロがこの世からいなくなったことはとても悲しい。今でもピエロのことを思い出すと悲しくなる。だけど、7年という歳月によって、ピエロの死は少しずつ僕の日常の中に溶け込んでしまっているように思う。
アキも、この訃報を聞いて悲しんでいるかもしれないけど、僕たちは生きているんだから、どうか取り乱したりしないでもらいたい。寂しいことだけど、時間が、日々の日常が、ピエロの死という現実を少しずつ思い出に変えていくのだと思う。
> 手紙と一緒に届いたフロッピーの中には、『ピエロのうた』という題名で文書が始まっているから、どうかあいつの想いを読んでもらいたい。病気のこと、君への想いが書いてある。君へのラブレターみたいな内容だから、きっと君に読んでもらいたいために、僕に手紙と一緒に送ってきたのだと思う。データを添付するので読んでもらいたい。
> マコト
私は、突然のマコト君からのメールに驚き、7年前のピエロの死を知って泣いてしまった。
そして泣きながら添付されている『ピエロのうた』を読んだ。
ほんの少し、ほんの少しならピエロも泣くことを許してもらえると思う。でもなんで死んでからこんなラブレターみたいな文書を私に読ませるのだろう。私の消息なんて、ちょっと何かで調べればわかることなんじゃないか。そう思ったけれど、家出みたいなまねをして親も連絡先を知らないようなことをしてしまった私が悪いんだとも思った。
今すぐ猫のピエロの顔を見たくなったが、まだ猫のピエロは帰宅していなかった。ピエロが飛び降りたビルってどこなんだろう? そこに猫のピエロがまだいるはずだ。とりあえず、私はマコト君に返事を書くことにした。
> マコト君、お久しぶりです。
今はピエロのことで少し泣いてしまったけど、私は元気に生きています。
ピエロの死を考えると、寂しくて、悲しくなります。でも私が学校をやめてからもう9年くらい経っています。私にとってはその間のピエロに関する歳月はないにも等しいので、今でもマコト君やピエロは学生時代のままの2人です。だからどうしても学生時代のピエロが今死んでしまったように思ってしまうのです。それなのに、ピエロとマコト君の顔は、
今は思い出すのに苦労するぐらいあいまいになってしまいます。それが一層、ピエロに申し訳ない気がして、私を寂しくさせます。
> ピエロとはメモに書いてあるような再会をしたかった。
> マコト君は元気ですか?
> 明日、午前10時頃に学校近くの公園へ猫のピエロと行ってみるつもりです。あの頃私たちがどんなことを話していたか、どんな夢を持っていたかを確認するつもりです。2人の顔もはっきりと思い出したい。できればマコト君にも来てもらいたいと思うのですが、無理ですか?
> 返信待っています。
> アキ
私が今書けることは、このくらいしかなかった。ただただ悲しい。あの公園でのことを思い出そうとしたが、悲しいほどにピエロとマコト君との学生時代のことは記憶の中に埋もれすぎてしまっているように思えてならなかった。早く猫のピエロの顔を見たい。そう思いながら送信ボタンをクリックした。
【マコト】
アキにメールを送信した後も、僕は喫茶店でしばらく冷めたコーヒーを飲みながらアキからの返信をまっていた。
ピエロのメモ、アキはどう思っているのだろう?ピエロはいつもメモ帳を持ち歩いて、何かを書いていた。メモ帳を忘れたときにはレシートの裏とか、ファミリーレストランに置いてあるゴワゴワした紙なんかをメモ帳替りにしていた。そして断片的なメモから削ったり付け足したりしたのがこの『ピエロのうた』だ。
僕はアキが以前一度だけ言っていた言葉を思い出す。
――メモなんてなんの意味も持たない
僕もそう思う。あいつは居なくなって、結局こんなメモしか残さなかった。ピエロなんて響きは所詮偶像だった。それはあいつも判っていた。だけど、あいつはピエロを演じ続けたんだ。
そして、おそらくピエロというキャラクターはアキのためにあったんじゃないかなと思う。アキのためのシンボルだった。僕はそう思う。あいつはアキのためにピエロを演じていた。
ピエロ、君のあのメモ、本当はアキに読んでもらいたかったんだろう?
今、きっとアキは君のメモを読んでいるはずだ。
何本目かのタバコを吸っていると、アキからメールが届いたようだった。明日の10時に学校近くの公園に行くことにしたのか。もちろん僕も行く。僕はアキに会わなければならない気がしているからだ。そのことを返信して、僕は冷めたコーヒーを飲んだ。
【猫のピエロ】
朝の8時頃、猫のピエロはアキのベッドにもぐりこんだ。それに気が付いたアキは眠そうに
「おはよう、ピエロ」と言った。アキは
「今日は君も公園に行くんだからね。昨日君と遊んでくれたマコト君も来るよ」と言った。
カーテンを開けると、太陽がまぶしい。いい天気だった。
アキはトーストで軽く朝食を済ましてから、長い髪を後ろで縛り、グレーのワンピースを着て、身支度を整えた。そして、アーモンドグリーン色の古いミニ・クーパーのエンジンをかけ
猫のピエロを乗せ出発した。
先に公園に着いたのはアキの方だった。
アキは公園のこの景色を懐かしがったが、ピエロのことを考えるとやはり悲しくなった。
ブランコに腰をかけると、あの頃のことを少しずつ思い出す。マコト君はいつも冷静で、ピエロはいつも難しい顔をしていた。私なんていつもだらしがなくて。でもあの頃は楽しかった。猫のピエロはしばらくペンキのはげたベンチの上で前足を舐めていたが、ふとベンチから降りると、公園の駐車場の方に歩いていった。
2・3分後、マコトが猫のピエロと一緒に歩いてきた。まるで猫のピエロがマコトを先導しているかのようだった。アキはブランコの方に戻ってきた猫のピエロの頭を撫でながら
「久しぶりね」と言うと、マコトは
「やっと会えた」と言った。
「髪、伸ばしたんだね」とマコトが言うと
「うん」とアキはうなずく。
マコトはベンチに座わり、一回だけ深く息をして伸びた。猫のピエロも今はベンチの上に落ち着き黙っている。
「この公園、相変わらずのんびりしているよね」とアキが懐かしそうに言うと
「うん」と今度はマコトがうなずいた。
「ねえ、これでピエロがいれば、まるで学生時代みたいだよね」
「いや、ピエロがいたとしても、何かが確実に変わっているはずだよ」
「そうかな、例えば何が変わってるの?」
「君は長い髪になった。それに9年の間にこの公園の日々も変わっているはずだから。ここにくる学生や主婦も9年前とは違う」
「そっか」とアキが答えた。
アキはまっさらな青空を見ながら言った。
「粘土で造ったゾウをごちゃごちゃにしたあと、ピエロは何になりたかったんだろうね」
「そうだな、きっと君に会いたかったんじゃないかな」
マコトは猫のピエロにウインクしてから言った。
「でもピエロはなぜ七年後のマコト君に手紙を書いたんだろう?」
「それはね、僕らがちょうど30歳になる年だからだよ」
「なんで30歳のマコト君に送ってきたの?」
「アキと僕らはとても幼稚な約束をしたからだよ。覚えてる?」
「幼稚な約束?何だろう?」
「30歳になっても僕らが独身だったら、ピエロか僕と結婚したいってアキは言ったんだよ」
「それ、なかなか笑えるね。私は独身だけど、マコト君は?」
「僕もまだ」
「そっか。でもピエロとマコト君は、私のこと好きだったの?」
「そうだと思う」
「ふーん、そうだったんだ。じゃあ、マコト君との結婚、考えとく。いいかな?」
とアキは言った。
「義理堅いな、まったく」とマコトは笑いながら言った。
アキらしい言い方に思えたからだ。
マコトは思った。ここで君の思惑どおりになったけど、ピエロ、君はこれでいいのか?猫のピエロはその時2回だけ
「ニャーニャー」と鳴いた。
「義理堅いな、まったく」とマコトはピエロにもそう言った。
5
【マコト】
この日アキと別れたあと、僕はさっきまでのアキとの再会を思い返していた。
アキは僕との再会を喜んでくれていたようだった。
僕らは懐かしく当時のことを思い出しながら、この晴れわたった空の下にある公園で少しずつ話し始めたのだった。
それはぽつりぽつりとではあったが、あの幼稚な約束から始まり、学生時代のことや、この9年間のお互いのことが話題となった。
しかし、ピエロについては、最初はお互いにあまり触れずにいた。
僕自身、ピエロのことをアキにどう話せばいいのか迷っていたのだ。
ここに来たのは確かにピエロのことを伝えるためだった。
アキがここから消え、ピエロがビルから飛び降りるまでのことを伝えるためだ。だけど、アキはあのメモを読んでピエロの言いたかったことは充分すぎるほどわかったはずだ。ピエロは苦しんでいた。ピエロはアキのことを忘れられずにいた。それはアキにも伝わったと思う。もともと僕なんかがあのメモについて何かをとやかく言えるはずもない。そう思ってしまったのだ。
2人の会話が途切れ、ちょっとした沈黙の後、突然アキが切り出して言った。
「何かがぽっかりと抜け落ちている感じがするけど、
ピエロの死については不思議と認識することができる」
「うん」
「でもピエロが死ぬことは納得できない」
アキは困ったような顔でこう言った。アキは別に矛盾していることを言っているわけではない。ただ、ピエロを死なせたくなかったってことだけなんだ。そう思った。
「僕はピエロが死んでしまった以上、あいつの気持ちを理解してあげたいと思ってるよ。だけど、それができないんだ。僕だって目の前でピエロが死のうとしている場面にいたらあいつが泣こうがわめこうが殴ってでも必死にとめたと思う。だからアキの言うことは良くわかる。僕も納得なんてしてないよ」
「でも理解したいの?」
「うん。ピエロが味わった、死んでしまうしかないくらいの悲しみってどんなものだったのか理解してあげたいだけなんだ」
アキは黙って聞いている。
「だから僕はこれから少しずつ、ピエロのことを思い出していきたいと思うんだ。そしてアキの知らない9年間のピエロことをアキにもわかってもらいたいとも思ってる。それは、アキがただ単にピエロの9年間を知るということではないよ。アキにも、何があいつを追い詰めて、どんな思いで死んでいったのかのか、理解してもらいたいと思うからなんだ」
「でも理解なんてできるかな? 私はできないと思う」
アキは残念そうな面持ちでそう答えた。
「できないかもしれない。そうかもしれないけど、理解しようとすることは、ピエロのことを考え、想うってことだから、きっとそれはそれで結局はいいのかもしれない」。
「そっか。でも難しいね」
アキはそう答えて、猫のピエロの頭を何度か撫でていた。
「ねえ、アキ、実は手紙と一緒に送られてきたフロッピーの中に、もうひとつファイルがあったんだ。でもそのファイルは無題でパスワードがかけられてある」
「もうひとつのファイル?でもなんでピエロはわざわざパスワードなんてかけたんだろう?マコト君に見てもらいたいから送ってきたはずなのに」
アキは不思議そうにそう言った。
「ピエロのうたとは別の目的でつくられたファイルであることは間違いないと思う。予想もつかないけど、僕はこのパスワードを解いてその中身を見たいと思ってるんだ」
僕がそう言うと、アキはそのことについて真剣に考えていたようだった。
「ねえ、ピエロから届いた手紙、今日持ってきてる?」
「うん」
僕はそう答えてポケットから手紙を取り出してアキに見せた。
「読ませてもらってもいいかな?」
「もちろん」
僕はそう答えてアキに手紙を渡した。アキはひと通り手紙を読むと、
「何これ、めちゃくちゃ。マコト君、これでよく私に会おうと思ったね」
アキは苦笑いしながら僕に向かってそう言った。
「じゃあ、何? この猫のピエロがピエロの生まれ変わりってこと?そんなの信じられない」
「でもこの猫のピエロが君に会わせてくれたことは間違いないよ」
「なんか、すごい」
アキはそう言って横に座っていた猫のピエロを抱きかかえた。そして、
「ピエロ〜」と叫んで頬擦りまでしている。
「ピエロ、このやろ」僕はピエロを軽く睨んでやったが、ピエロは僕のことなど全く相手にしない様子でアキとジャレついていたのだった。
本当のことを言うと、僕だってピエロの生まれ変わりだなんて今でも信じられない。でも、さっき猫のピエロが2回鳴いた時、僕は確かにそこにはピエロがいたと感じたのだ。
「でも手紙の内容からじゃ、パスワードらしきものはわからないね」
アキは猫のピエロを横のベンチに置き、そう言った。
「『ピエロのうた』の中にヒントが隠されていないかと思って、昨日色々とパスワードを探ってみたんだ。それこそ。『アキ』とか『公園』とか、『粘土で造ったゾウ』とか『荒野のおおかみ』とか色々入れてみたんだよ。『遺書』なんて言葉も入れてみた。でも、どの言葉もファイルを開いてはくれなかったんだ」
「君はなんでこんな面倒なことするんだろうね」
僕は猫のピエロに向かってそう言ったが、猫ピエロは相変わらず僕のことなんて気にしてないようだ。
「そのファイル、私もすごく興味がある。
多分ピエロが言いたくても言えずにいたことが書いてあるんじゃないかな」
「言いたくても言えずにいたこと…」
僕らは2人とも、しばらくそのことについて考えていた。するとアキが、
「ねえ、さっきマコト君がピエロのこと思い出したい、私に理解してもらいたいって言ってたでしょ。私もピエロのことを思い出したくてこの公園に来たの。そして後悔していたことを思い出したの。私がこの公園を去るとき、マコト君やピエロにさよならって言葉を言えなかったことを。そして、今ははっきりと実感したんだ。もう二度とピエロに向かって『さよなら』って言えないんだって」
僕はすぐにノートパソコンをカバンから取り出し、無題のファイルのパスワードに『さよなら』と入力してみた。しかし、相変わらずファイルは開かない。構わず『さようなら』、
『またね』などと思いつくまま連続して入れ、今度は『バイバイ』と入力してみた。するとパスワードは解除された。なんてことはない、ピエロは僕らに『バイバイ』と言いたかったのだ。
−ピエロの無題のファイル
マコ、僕の気まぐれに最後まで付き合ってくれてありがとう。
パスワード、よく判ったね。
アキとは再会できてますか?君らの横に猫はいますか? 僕は今まで、生きることへの希望と絶望、死への誘惑と恐怖といったグチャグチャな中に棲む住人でした。そして自分自身と何度も何度も戦いを試みました。勝ったと思ったら完全な敗北だったり色々です。その結果、死への誘惑に誘われてみようという思いに至りました。これは逃れられない運命なのかもしれないとこのごろは考えるようになったのです。生きていることの方が偶然な気がしてならない。
今までは、僕が生きているということに僕自身我慢ができませんでした。でも、今となっては、僕が確かに生きていたということに誇りすら感じます。生きることは素晴らしい。人を愛することは素晴らしい。僕は今、自分に今までよく頑張ったってほめてやりたいくらいに思っています。
君とアキは僕が生きていたという証。
僕が生きることに一生懸命だった、頑張っていたと言うことをどうか2人にはわかってもらいたい。本当に猫になって君らに会えたらいいのにな。
さあ、そろそろ時間になった。
これで本当のさよならだ。
マコ、アキ、バイバイ。
ピエロ
僕とアキは今、ピエロの最後の言葉を確かに聞いた。7年間の時を越え、ピエロの肉声で、確かに今はっきりと聞いたのだった。僕とアキの存在はピエロが生きていたという証の一部であることは間違いない。僕らの心の中で今でもピエロは息づいているのだから。僕らはきっと忘れない。理解できなくても忘れない。カビが生えても忘れてはならないのだ。
ピエロが生きることに頑張っていたということだけは。
「バイバイ」
僕とアキはピエロにそう別れを告げた。
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