#46・月隠しの雲は晴れるか
絶対悪は、心底愉快に高笑いする。それが何とも卑屈に聞こえるのは、彼の地声がそういう声質だからだろう。
(奴も随分と変態じみた性格をしているな。自ら喰われにくるとは)
その距離、約10メートル。
この距離が縮まったその時、時雨は盛大に消滅するだろう。
打ち上げ花火のように肉片を真っ赤に飛び散らす。触れても触れられても消滅させられる、その力の持ち主に嫌でも触れてしまうのだから。
時雨の思考は完全に止まっていた。赤鬼も青鬼もひどく呆れた表情をしていて、話すどころではなかった。
だけど、片時も発動させた力を、決意を止めることはない。
時雨の足が震えている。必死に膝を押さえ付けて震えを止めようとしているのだが、それでも震えは止まらなかった。
眼前から迫り来る、いや、導かれる強大なる存在・絶対悪こと大十字鉄に怯えていたのだ。
戦車の砲弾の対象にされたように、圧倒的力の前に彼女は、ただ虚勢を吐くことしかできなかった。
その虚勢がまさに自分を追い込む結果となり、窮地に追い詰められているのだろう。
時雨は何故、ここにいるのかが分からない。
いや、目的だけは分かる。絶対悪を倒すためだ。だが、そこまで至らせた動機が分からないのだ。
冷静に考えて、人海戦術でも勝てそうにもない絶対悪を、二人だけで立ち向かう理由はない。
理由はなかったのだ。なかったのだけれど、彼女の心の中で、戦いを共にする仲間のある一言が、とても印象深く焼き付いていた。
(――槍にすらなれないなら、僕は、盾になってみせるよ)
ひどく虚言じみた言葉。根拠も何も感じれない。
感じれないけれど、違う何かが感じ取れた。
強い意志のようなものが。
当然、意志なんてものは所詮、何の価値も持たない。強いて言うならば、本人にとってのみ価値があるもの。
だけど、彼女は、それが羨ましいのだ。
強い意志、言うなれば『信念』のようなものがある、真九郎のことが。
常に物事を保守的に考え、安定した現実に生きてきた彼女だからこそ、より思う。
そして、その思いが、彼女に大きな覚悟をさせた。
誰かの盾になってみせる覚悟を。
ふと、彼女が薄ら寒い笑みを浮かべた。
鉄は、その一瞬の動きに目を働かせ、凝視する。
(ナンだぁ? あの女、頭がイカれたか?)
視界を共有する絶対悪も同じく、眼前で不気味に笑う時雨を見て不思議に思っていた。
(あの小娘、何か企んでいるかもしれん。警戒を怠るな)
「あぁ? おいおい、天下の絶対悪様がびびってやがんのかァ? 俺達に勝てる野郎なんざこの世にはいねんだからよぉ、要らん心配するなよ」
絶対悪が不安を覚える。それは非常に稀な事である。
鉄の肉眼からは確認できないが、時雨の体内では異常事態が発生していた。
思いっきり地面を踏ん張った状態で着々とその距離を縮める。
彼女の前髪がその瞳を覆い隠す。それが何とも不気味に映えて見えた。
時雨の体内。
そこは今、紫色の血液が異常な速度で行き渡っていたのだ。
そこには、赤鬼でもなければ青鬼でもない、全く別の悪魔がいた。いや、悪魔と言うにはやや抵抗を感じるかもしれない。
紫色の炎を燃え盛らせる、魂のようなものがいたのだ。
次第にそれは体内から体外へ、肉眼でも確認できるほどの紫色の炎へと変わる。
距離。3メートル。
瞬間、鉄の背中から十数本の黒い腕が飛び出てきた。まるでわんさかと盛り上がる大蛇の頭の群のようだ。
しかしそれは、鉄の意思で出したわけではなかったらしく、
「おい! 要らんことするなよ!」
と、怒号を飛ばす。だが、絶対悪も怒号で返す。
(黙れ! 小僧! 今は奴に集中しろ!)
あぁ? と不満気に前を向いたその時だった。
紫色の輝きを放つ、光の砲撃が飛んできていたのだ。
肉眼で追える速さではない。咄嗟に腕を交差して防御の態勢をとった。
(何をしている! 小僧! 目を開けんか!)
眩い光の前で目は開けられず、十数本の黒い腕は光に飲まれ、“消滅“する。
凄まじい轟音が音速で飛び、気付いた時には、時雨の眼前に鉄の姿は消えていた。
ブロックの壁へと飛ばされていた。
無臭の白煙が辺りを漂う。
ブロックの壁が欠け、鉄の頭にコツンと落ちてきた。
額からは、血を流している。
倉庫の裏側に身を潜めていた真九郎は、自分の目を疑った。
(――鉄(絶対悪)に傷が!?)
触れても触れられても消滅の力が働く絶対悪。無敵だったはずの絶対悪に、傷ができていたのだ。
(痛み分け)
ふと、魔王がそう呟く。
(痛み分け?)
(うむ、恐らく、消滅の力同士が衝突した場合、力は完全にまで相殺されないのじゃろう)
じゃあ、と真九郎。
どこか自信を感じさせる、けれど不安そうな顔をしながら、魔王は言った。
(――痛み分けこそが、絶対悪を唯一倒せる方法じゃ)
時雨は崩れそうな体を無理矢理支えているのか、極寒の寒さの中に立たされているかのように震えていた。
同時刻。
炊事洗濯をしていた零華は、それらをやめた。
そして、制服の上に厚手のコートを着て、彼女は助けを待つ彼の元へと急ぐ。
学生寮を出た時、空から一粒の雪が降ってきた。
零華は空を見て、呟く。
「雪だ……」
助けて。
その一言だけでは、彼がどこにいるか分からない。
分からないけど、もう少しで手がとどく。
そんな距離に、彼女はいる。
ようやく、彼を闇から救い出せる。
悪魔から救い出せる。
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