サッカーで和歌山を盛り上げる~アガーラ和歌山創世記~
後々書く予定のサッカー小説の前フリです。
「和歌山でも、こういうのできへんかな」
始まりは居酒屋でのこの一言だった。
1993年。日本のプロサッカーリーグ、通称Jリーグが開幕。それまではマイナーなスポーツのひとつでしかなかったサッカーが、プロ野球人気の停滞もあって爆発的なブームとなった。スタジアムは連日満員となり、ワールドカップという世界大会の存在や野球にはない斬新さと華やかさがあった。
ただこのブームに納得できていない男がいた。冒頭の言葉をつぶやき、のちに和歌山のJリーグクラブ発起人、竹下智樹は振り返る。
「全国的なブームだったのはいいんだけど、関西に住む自分にとってはまだまだ遠い存在だった。10あるクラブのうち西日本は大阪と広島だけで逆に関東地方だけでも6つあった。それ以上に鹿島なんていう今まで聞いた事もない田舎町にプロチームが存在したことが悔しかったし『それならうちでもできるんじゃねえか』って思ったんですよ。プロ野球みたいに大企業がいなきゃいけないわけでもなかったしね」
元々竹下は小学校から大学卒業まで16年もサッカーをしていた。「素人に毛が生えた程度の実力」というが、高校ではキャプテンとして選手権に出場し、大学3年次には大学リーグのベストイレブンにも選ばれた。だが当時は実業団から声はかからず、自分自身でも「野球はそうでもサッカーじゃ社会人として食えない」と選手生活に見切りをつけた経緯がある。それがこの一大ムーブメントでサッカーへの思いが再燃した。
思い立った竹下はすぐさま大学時代のチームメートや商工会青年部のメンバーに声をかけ、Jリーグ開幕翌年の94年2月、竹下を代表として「和歌山プロサッカークラブ設立委員会」を発足。翌3月にはセレクションを実施。竹下の高校時代の恩師で県内屈指の強豪高、紀州中央高校サッカー部の前監督、大北修三(故人)を監督に迎えてチームが正式に誕生。「和歌山らしさがでるように。和歌山県民が誇れるように」とチーム名は和歌山弁で「私たち」を意味する「あがら」にラテンの響きを入れるために長音符を入れて「アガーラ和歌山」となった。
初年度から県内の高校生や大学生の有力選手が数多く入団し、県内リーグでは無敵の強さを誇った。県2部からスタートし、関西サッカーリーグ1部まで毎年リーグ優勝。天翔杯の県代表として94年から4年連続で出場。96年にはプロチームの浦和グレンにPK戦の末に勝利してベスト16入りを果たした。これらの活躍とJリーグ人気も相まって、次第に県内の有力企業や自治体の支援も受けられるようになり、全てが順風満帆だった。
だが、98年。完全プロ化を目前として、状況は暗転する。
着実にステップアップを重ねて旧JFLに昇格したものの伸び悩み、この年の初めに司令塔、松本大成(現トップチームコーチ)が浦和にヘッドハンティングされたこともあってチーム力も低下。当初は放っておいても集まった県内の有力選手が他府県にへ流出し、一方で外部へのコネクション不足や指導者の実力不足もあり、それを思うようにリカバリーできず失速。また、財政面でも、アマチュアレベルでは依然野球人気が高い影響で、サッカーチームへの支援の理解が十分に得られずプロ化に必要な体力が身につかなかった。
さらに追い討ちとなったのが、横浜マリナーズと横浜フューチャーズの合併を筆頭としたJリーグバブルの崩壊であった。Jリーグの歴史に大きない汚点を残したこの事件は、「サッカーはもうからない」という先入観を与え、10近くあった新規スポンサーの参入がすべて白紙となったばかりか、有力スポンサーが不況のあおりとサッカー熱の低さを理由に支援を取りやめ、一気に存続の危機に立たされた。
竹下たちはスポンサー1つ1つに頭を下げ、何とか支援を続けてもらうよう奔走した。その時浴びせられた罵声が、今も竹下の脳裏にこびりついている。
「撤退を決めた企業に理由を聞いたんです。そしたら『県民がよく知らないチームに金を出し続けてもメリットを感じない』といわれたんです。挙句『ごくつぶし』なんて言われたこともありましたね。もともと和歌山は保守的な土地柄なので、新しいことに対して消極的なんです。できたとしても悪いことが起きると鬼の首を取ったかのように糾弾しますしね」
完全に暗礁に乗り上げたプロ化だったが、これが彼らの足元を見つめ直すきっかけにもなった。当時のエースストライカーで、現在はスカウト部長を務める片山良男は回想する。
「Jリーグの華やかさばかりにとらわれていて、正直『サッカーさえしていればいい』とばかり思ってた節がありましたよ。ショックだったのが、ある日子供の幼稚園の保護者会に参加したときに『アガーラ和歌山で選手やっています』って言ったら誰一人チームを知らなくて『そんな野球チームあった?』って言われたんですよ。野球王国って言われている地域でサッカーに熱くなっていたのが僕らだけだった。現実を見ていなかった自分を恥じましたね」(片山)
スポンサー撤退を機に一時チームは弱体化したが同時にチーム全体で地域へ貢献することの意識が高まり、積極的なボランティア活動やサッカー教室の開催を図るようになり、知名度も徐々に高まっていった。
この活動が実を結んだひとつの成果が、県内の大手清涼飲料水メーカー、南紀飲料との提携である。
南紀飲料は2001年、21世紀を迎えるにあたり新規事業を模索していた。対して和歌山は紀北近辺(和歌山市、橋本市、紀の川市など)の新規スポンサー獲得に限界を感じはじめ、県南部のスポンサー獲得を検討しており、両者の思惑が一致した。翌年から南紀飲料は正式にメインスポンサーとなり、実質的な親会社の誕生で補強費用のめどがたった。また、県内屈指の有力企業である南紀飲料がスポンサーを勤めることで県内の自治体からの信頼も高まり、支援もよりスムーズに受けられるようになった。同時期、竹下は代表職を退いて強化部長としての活動に専念する。
「有力企業がバックアップに着いたことで経営基盤は安定し、あとはチームの強化だった。かつて所属した選手の移籍先には片っ端から声をかけた。特にプロクラブには泊まり込んで交渉した。資金が見込めるとは言え雀の涙。Jリーグ入りするためには債務超過を掲示してはいけない。レンタル移籍を取り付けるまでが大変でした」(竹下)
竹下にとって幸いなのがスポンサーのサッカーに対して理解が高かったことだ。支援を決定した南紀飲料代表取締役社長の山田昭久(当時営業部長)は振り返る。
「元々サッカー部を持っていたこともあって、社内にはサッカー好きが多かった。みんな『野球王国でもサッカーを発展させられる』という気概があったし、プロのリーグを目指す上でサッカーのほうが現実味があった。企業スポーツが不景気で衰退するなか、卒業後もスポーツに専念できる環境を県内に作りたかった。FC和歌山の存在は私の理想に対して渡りに船だったわけです」
02年からのJFLでの戦績は10位、8位、11位、9位と中位を停滞していたが、05年オフ、三年後のJリーグ昇格を目標に大規模なチーム改革を敢行。ユースチームを創設し若年層の育成に乗り出し、トップチームはJリーグ経験者を中心に大型補強を行う。特に98年に浦和移籍後7年ぶりの復帰となった松本とドイツやスペインを渡り歩いた貴志川町(現紀の川市)出身のFW宮脇健太郎の入団はチームに多大なる効果をもたらした。候補止まりとは言え日本代表クラスの逸材だった二人はJFLでは別格の存在となり、「松本がキープして宮脇が決める」という攻撃パターンが確立されたチームは徐々に勝ち星を稼ぐようになった。また守備陣は竹下のコネクションで、母校阪和大学から有力選手を補強。キーパーの瀬川良一、センターバックの川久保隆平は1年目からチームの守備の要となった。監督には浦和、千葉、横浜で監督経験があり守備的戦術に定評のある曽我部雄三氏が就任。人気選手の加入やチームの好成績により観客動員も徐々に伸び、06年はJリーグ昇格圏の4位まで勝ち点1差の5位。観客動員は平均3500人を超えるようになり、準加盟申請を無事クリアした。
そして07年に待っていたときが訪れる。
安定した堅守と確立された攻撃パターンを持って開幕から5連勝。以後も夏場に11戦無敗など安定した戦いで終始昇格圏の4位を堅持。残り3節を残して勝利すれば昇格確定という状況下で紀三井寺陸上競技場でのホーム最終戦で首位の佐蒲急便FCを迎えた。
この試合、和歌山関係者は少しでも多くの人に見てもらおうと大人500円、中学生以下100円という破格の値段で競技場の全席を自由席にして開催。クラブ史上最高の1万38人の観衆を集めた。ホームでの大声援を背にチームは奮起。前半で最古参のストライカー、検見川安彦が2点を奪うと、後半は宮脇が2点を追加してハットトリックを達成。4-1で勝利し4位以内を確定させた。
「ついにきたあって感じでした。たどり着くまでは長かったけど、振り返るとあっという間でした」
選手たちから胴上げされた竹下は涙ながらに語った。この日は和歌山県内のサッカー関係者も大勢涙したという。何気ない一言から始まった挑戦は13年かけて実現したのである。
Jリーグ初陣の08年はJ1のガリバー大阪からFW寺島信文、ヴォイス神戸からMFチョン・スンファンを獲得した以外は現有戦力を維持。2年間培ったカウンターサッカーを武器にシーズンに挑んだ。
開幕戦は古参のナーガ鳥栖と対戦。ボランチのチョンを中心とした粘り強い守備を見せ、後半ロスタイムに寺島が決勝点をあげて勝利。その後2カ月は9試合で4勝2敗3分けと健闘。リーグ1位の4失点が光り、選手たちも手応えを感じていた。
だがキャプテンを任されていた松本はあることを危惧していた。
「引き分けた試合は全部スコアレス。勝った試合もほとんど点がとれていない。チームとしてもっとリスクを恐れずにゴールにむかっていかないと。2部とはいえJはそんなに甘くない」
松本の危惧はすぐに現実となる。
5月5日、ホームでのサンライズ広島戦。自信を持っていた守備が敵の流動的なパスサッカーの前に開始15分で2失点。2人の選手にハットトリックを許すなど崩壊し、攻撃も松本、宮脇を完全に封じられ8−0で大敗した。この試合が残した傷は得点差以上に、昇格候補筆頭とはいえセットプレーなしという内容がチームとしての自信を奪い去った。さらに故障や警告の累積やレッドカードでの出場停止で主力を欠くと選手層の薄さを露呈。特に攻撃に関しては借りてきた猫のように沈黙し、8試合ゴールなしを記録するなどチーム総得点はリーグワーストを独走。チョンの奮闘で守備はある程度立て直したが攻撃面で改善が見られず順位はみるみる降下。9月には最下位にもなった。
それでもシーズン終盤の11月には初の3連勝を記録するなど4勝1敗と巻き返し、最終的には16チーム中11位。手ごたえと洗礼、多くの手土産を得た。
翌09年は若手や県リーグ時代からの生え抜きがJリーグのレベルに慣れ、順位を2つあげるなど奮闘。とくに昇格した仙台、湘南からそれぞれ2勝するなど上位クラブと互角に戦うなど成長を見せた。この年オフ、曽我部監督との契約を更新した一方で、チームを支えたベテランの松本、宮脇が引退したほか、県リーグ時代からの生え抜き、FW検見川ら7人が契約満了で退団しチームはひとつの転換期を迎えた。
10年シーズンは曽我部監督のコネクションでJ1クラブの若手をレンタルしたほか、ブラジル人FWサントス、アルゼンチン人FWフェルナンドの助っ人ストライカーを獲得。スタメン、特に攻撃陣が刷新された影響で開幕当初こそ出遅れたものの、児島和也、高橋祐輔、二宮久武の若手トリオが起爆剤となって6月以降は上昇気流に乗り、夏場にはクラブ新記録の6連勝を記録。柏、甲府、福岡の昇格3クラブを相手に4勝1敗1分けと堂々と渡り合い過去最高の6位でシーズンを終えた。
レンタル期間終了で児島らはクラブを去ったが、変わりにベテラン選手を多数補強しJ1昇格を目標とした11年は順調にキャンプを消化。南米助っ人2トップをはじめ大きな故障者もなくほぼ無傷の状態で開幕を迎えた。
そしてアウェーで迎えたAC東京との開幕戦。助っ人コンビが躍動し3−1で快勝。金星発進で開幕4連勝でクラブ史上初の首位にも立った。
「正直出来過ぎだとも思うが勝つにこしたことはない。目標のJ1昇格を実現するためにも、気を引きしめて戦いたい」(第4節草津戦後の曽我部監督コメント)。
しかし好事魔多し。開幕の快進撃が同シーズンのピークだった。
ゴールデンウイーク後、助っ人2人がオイルマネーで中東クラブに引き抜かれ、チームの大黒柱だったキャプテンのチョンがアキレス腱損傷の重症で離脱。奮起すべき新加入のベテラン選手はそろって不振に陥り、あっという間にチームは瓦解。急遽ブラジル人FWを2人獲得したが、セルジーニョはウェイトオーバーで使い物にならず、タチリコも実力不足で再浮上のカンフル剤とならなかった。
このような非常事態に加え、攻撃を助っ人の爆発力に頼りきった曽我部監督の戦術の引き出しの少なさもあり、チームは6月から14連敗を喫し丸3カ月勝ち点から見放され、昇格どころか一気に20位まで(22チーム中)に転落。10月最後のホームゲームでは最下位岐阜に4-0で完敗を喫し、サポーター40人が選手のバスを囲むトラブルも起きた。
当時の状況を川久保は振り返る。
「連敗の初めのころは『こんなはずじゃなかった』という空気があって、どこか浮き足立っていた。それが8、9、10と重なるにつれて『なんとかしなきゃ』と意気込んで空回りばかりした。そして14まで言ったときには『一生勝てないんじゃないか』とさえ思うようになった。言い訳だけどみんな感情を表に出すようなタイプじゃなく、黙り込んでどんどん雰囲気が暗くなっていった。サポーターのバス囲みのときも『申し訳ない』という気持ちに押しつぶされてバスの中はもうお通夜みたいでしたね」
そしてクラブは曽我部監督を解任。「しっかり尻拭いをする」と強化部長の竹下が監督になった。当初は「最後まで監督とともに」と宣言していたクラブの方針転換に不信感をあらわにする選手も少なからずいたが、長期離脱から復帰したチョンが「プロとしての誇りと自信を持とう」とチームを鼓舞。竹下新監督の初陣で2ゴールを決め勝利で飾った。
竹下監督はカウンターサッカーを標榜しつつよりリスクを冒して攻めに出るサッカーで勢いを取り戻し、最終的には20位でシーズンを終了。前年オフに獲得した選手は除いてほとんどが退団した。
一方、トップチームが苦戦する中、ユースチームは快進撃を続けていた。08年シーズン限りで引退し翌年からユースチームの監督に就任した今石博明(現GM)の下、トップチームとはほとんど真逆のチーム作りをしていた。「自分を信じ続けろ」「苦手を長所で消せ」「最後まで気持ちを折るな」を3か条とし、強いメンタリティーと持ち味を徹底的に磨き続けた個性派集団が話題となっていた。
この年3年生となった主力選手がその中心だった。
日本人離れした身体能力と勝負強さを持つ剣崎龍一、類まれなドリブルセンスとシュート精度を持つ竹内俊哉のFWコンビと、2人を特徴にあわせたパス供給とキープ力を持つ司令塔・栗栖将人の強力トライアングルは脅威の破壊力を見せており、特に剣崎はJ40チームのユースチーム総当たりのユースリーグで得点王になった。守備の要となったセンターバックの猪口太一は165センチという小柄ながら対人戦では敵なしでクリーン且つパワフルなタックルでことごとくピンチの芽を摘み、ひ弱そうな痩身が特徴の江川樹も、スライディングの鋭さとマークのうまさで貢献した。
さらに特徴的なのは2人のゴールキーパーを固定せずいわゆるツープラトン制を敷いたこと。長身長躯で堅実プレーが持ち味の天野大輔と、小柄(176)ながら攻撃的な守備とロングフィードが自慢の友成哲也。まるで違う2人を交互に起用し、キーパーに常に危機感を持たせDFたちにはどんなキーパーでも対応できる適応力を身につけさせた。
この7人を中心にユースリーグ、高校サッカー部との混合トーナメント若宮杯を制覇し、天皇杯でも和歌山県代表として出場し草津、大宮とJクラブも撃破し、ユースチーム初のベスト8となった。
「うちのユース。特に中心となった3年生は長所と同じくらい欠点も目立ったやつらばかりだった。でもその長所は文字通りダイヤの原石で磨き方次第で欠点はどうにでもなると思った。現代サッカーではいろんなことが求められ、こいつらみたいな一芸しかないやつが生き残るのは難しくなっている。だからといってほったらかしにしたらもったいない。うちみたいに予算が限られたクラブにとって、こいつらの存在は1つの方向性として見出せたんじゃないかと胴上げされながら思いました」(若宮杯優勝後の今石監督コメント)。
2012年。和歌山は今石監督と天野、猪口、栗栖、剣崎、竹内、友成、江川の7選手をトップチームに昇格させることを発表。さらに多数の新戦力獲得もあわせて発表され、新体制で臨むことが決まり、FC和歌山は新しい一歩を踏み出すことになった。