ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
後編
彼女は、いつもの完璧な営業スマイルなどではなく、いたずらを思いついた子供のように目をかがやかせて、片頬にえくぼまできざんでいる。

「あ……ハイ、はいはい」

あまりに予想外の反応だったため、俺は柄にもなくうろたえて、自分の右手、この個室のかまちにまとめておいたカバンの群れから、ご所望のものをとりあげた。
彼女の好きな赤。そのすべらかな革の手触りをひそかに楽しみ渡すと、

「ありがとう」

またもや笑顔がかえってきた。

いつものごとく、携帯はさりげなく手元のハンカチの下に置いてあるしと、訝しげな表情をわざと浮かべて彼女の動きをおう。
A4ファイルがきれいに収まるそのカバンの口をあけ、両手を中にいれて動かしている。

「浜崎さん?なにか忘れ物ですか?」


これでとりあえず、KY親父のしゃべりをとめられる。


これ幸いと、俺は彼女のめずらしい所作に声をかけた。

その場で必要なものは、事前にすべて揃えておくべし。
チームに配属された新人にたたき込まれるその心構えは誰あろう彼女のもので、応用編としては、インパクトを与えるため、わざと後から――――


「仕事の時は、邪魔になるので外してるんですよ」


カバンから手をだし、そう言って浮かべた笑顔は、俺が初めてみる「女」のものだった。



「八海山、おまたせいたしました~」

ノックとともに少し間延びした声がして、つかの間の静寂がやぶられた。

「あ…、あぁ、どうも」

若い奥さんにあわせてか、少し長めにのばした前髪をかきあげながら、上座の部長サマが腕をのばす。

「どうぞ、伊勢部長」

俺は条件反射で、入り口に突っ立たまま待つ店員からグラスを受け取り、彼へ渡した。

「空いてるお皿、お下げしますね~」

この店の教育方針なのか、彼の見た目20代そこそこの年齢ゆえか、微妙に語尾をのばして断りをいれた店員がひざをつき、テーブルにかがみこむ。
その胸元にすこし傾いてとめられた名札―ものすごくどうでもいいが、川口と言うらしい―を暖色の店の照明をうけて光らせながら彼が持ち上げた皿たちは、いま俺のとなりで爆弾を炸裂させた上司様が手際よく片付けていたものだ。

「あ、梅酒のロックと黒霧島のロック、追加でお願いします」

店員が去る寸前の絶妙のタイミングで、彼女が声をかける。
それではじめて、自分が握ったままの生中グラスが空になっていることに気づいた。


「……驚かせちゃいました?」

艶やかにぬられたうす紅の唇がクイッとあがり、彼女が嬉しそうに小首をかしげて笑う。
店にはいる前におろしていた豊かな黒髪が、さらりとゆれた。

「――いやいやいや……。浜崎さんも人が悪い、それならそうと言ってくれれば…」

よけいなこと言っちゃったねぇ。
彼女の言葉で呪縛がとけたように、部長サマが笑う。あいかわらず無意識なのだろう、前髪をうっとおしそうにかきあげている。


そんなに邪魔なら切りゃいいじゃねぇか。いっそハゲにすりゃいいんだ。


「原田君は知ってたんじゃないの~?水くさいなぁ」
「いやいや、僕もいまはじめて知りました。いや驚きましたよ」

腹の中の悪態はきれいにつつんで、大事な取引先さまに笑顔でこたえる。
彼女の――三年下の上司様直伝の営業スマイルだ。これしきでくずれるわけがない。
そう思いながら無意識にのばした手の先には、さっき空だと気づいたビールジョッキではなく、少し汗をかいたお冷やのグラスがあった。

「式や披露宴はしないので、会社でも上司ぐらいにしか言ってないんですよ。戸籍は彼の名前で届けますけど、色々手間ですから、いままで通り、浜崎で通しますので」

これからもよろしくお願いしますと、きれいに礼をする彼女に、部長サマは、人生の先輩よろしく、いやいや結婚するからには……なんぞとのたまう。
それをさらりさらりと受け流しながら、彼女の小さな手が、俺の半分くらいしかなさそうな手が目の端で踊る。

その左手の薬指を飾る、赤い石とともに。
それは、彼女の誕生石だそうだ。


彼女の大好きな色、赤。

出張用と、大小ふたつ揃えた紅い革の、営業カバン。

ベルトが付け替えれて便利だと、少し自慢げに見せてくれた腕時計。それでも赤い革のばかりをはめている。

必要以下にしかしないと言いきる化粧の、口紅も赤。
あぁ、一度だけ見たことのあるそのリップケースも真紅で、とてもきれいだった。


赤。
血潮の色。
紅。

彼女のふしぎなほど華奢な指の幅ほどもある、大きな赤い石。


ダイヤモンドは冷たくてきらい。
いつだか小耳にはさんだその言葉を、彼女の相手――その薬指を飾る権利を唯一もつ男は、しっかり聞いていたってわけだ。

俺は笑顔を顔にはりつけたまま、彼女が用意してくれた目の前の水を、がぶりと飲んだ。

はい。ひとに盗られるのがいやなら、先に手を出せ。ですね。
後悔先に立たず。

このシリーズ、もう少し続けます。もうネタは仕込んであるふたりの慣れそめおよび後日談を描いて、本当に終了とさせていただこうかと思います。
評価
ポイントを選んで「評価する」ボタンを押してください。

▼この作品の書き方はどうでしたか?(文法・文章評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
▼物語(ストーリー)はどうでしたか?満足しましたか?(ストーリー評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
  ※評価するにはログインしてください。
ついったーで読了宣言!
ついったー
― 感想を書く ―
⇒感想一覧を見る
※感想を書く場合はログインしてください。
▼良い点
▼悪い点
▼一言

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項を必ずお読みください。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。