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第82話
「……なっ」
 
 昨夜……あれから。
 ソファーで寝てしまった。

「……な、なななっ」

 人型ハクちゃんの腕の中で目覚め、頬にキスをしてもらった。
 ハクちゃんのひんやりとした唇が、寝起きの鈍い脳を優しく刺激して……。
 私はこの事態を把握した。

 やってくれたわね!? ぽいぽい大魔王~!

「なにこれ~っ! ふ、服が……うわっ!?」
 床に落ちているもの。
 向かいのソファーに引っかかったもの。
 そして昨夜ハクちゃんが着ていたものも、あっちこっちに投げ捨てられていた。
 天井の照明器具から下がっているのは、あれって私のっ……!?
「いいいいい、今、何時……ひぃ~っ!」
 私は壁にとりつけられたお花の形をした時計で時間を確認し、慌ててハクちゃんから降りた。
 8時を過ぎているではありませんかっ~!
 カイユさんが来ちゃう!
 この惨状を見られたら、恥ずかしいなんてもんじゃなぁあああい!!
「おおおお起きて、ハクちゃん!早く、早く~!!」
 私を蓑虫のように包んでいた毛布を大雑把に畳んでから、ソファーで寝そべったまま私を見ているハクちゃんの左腕をひっぱった。
 ハクちゃんは身体を起こし、右手で顔にかかった真珠色の髪をかき上げた。
「起きて……はて? 我はずっと起きてりこを見ていたぞ?」
 そんな何気ない仕草が相変わらず妙に色っぽい旦那様のお腹に、畳んだ毛布を押し付けた。
「その起きるじゃなくてっ! と、とにかく片付けないとっ」
 
 恥ずかしがれとは言いませんが。
 うう~っ、少しは隠しなさい!
 
「ハクちゃん、この毛布を寝室に置いて来て! 私は服を片付けるからっ」
「りこ」
 私は一番近くにあったワンピースを拾うためにしゃがんでいたので、顔だけをハクちゃんに向けて返事をした。
「はい?」
 ソファーから立ったハクちゃんは、私を金の眼で見下ろしながら言った。
「なにやら慌てているせいか、いつものりこらしくないぞ。以前のように我が‘失敗‘したら、困るのはりこだろう? 少しは隠せ。我は蜜月期の竜なのだ……襲うぞ?」 
「……え?」
 隠せって、それは私のセリフ……ん?
 以前の失敗?

 失敗……おそっ!?

 うわぁあああ~、あれだっ!
 ジリ君のお産でカイユさん達がいなかった時の、お風呂事件のことだぁ~!!
 ええ、貴方様の仰る通りでございます!
 とっても困ります、いろんな意味で困りますともっ。
「ハハハ、ハクちゃん! そのももも毛布っ、毛布をかかっ貸してくださいっ!」
 床でだんご虫のように身体を丸め、ハクちゃんに右手を伸ばした。
 ハクちゃんは毛布をお腹から頭の上へ、ささっと移動して言った。 
「さて。我はこれを置いてくるとしよう」
 へ?
 ちょっ……!? 
「待っ、待って! 毛布っ……ハクちゃんの意地悪~!」
 私の叫びを背に受けながら、ハクちゃんは一度も振り返らずに去っていった。
「うう……ハクちゃんの意地悪大魔王!」
 竜帝さんの言うとおり、ハクちゃんは時々S系。
 ハクちゃんのドS疑惑は深まるばかり。
 女神様は確定に決まってるだろうって、こないだもハクちゃんに頭を鷲掴みにされながら言ってたけど。
 きっぱりとドSと言い切る女神様と違って、私の疑惑は疑惑のままだった。

「だって」

 誰にも言って無いけれど。
 実は。

「だって。ハクちゃんは‘がじがじ‘が……私に噛まれるのが好きなんだもの」

 がじがじ。

 それはハクちゃん命名の行為。
 私は覚えてないんだけど。
 支店でしちゃったらしく、ハクちゃんは以後‘がじがじ‘が好きになったそうなのです。
 彼は‘がじがじ‘が、すごく好き。
 食い千切るほど噛んでくれとせがまれた時は、この人ドM!?って思った。
 ハクちゃんのドM疑惑。
 これは竜帝さんには内緒。
 私だけが知っていたい、ハクの秘密だから。

 がじがじは。
 ハクと私だけの、2人の秘密。





「はぁ……なんでこうなんだろう、私達って」
 脱がされたモノを昨夜の記憶が脳に残っている状態で拾い集めるというのは、誰も見ていなくてもとんでもなく恥ずかしかった。
 誰も見て……あ、違った。
 居ましたね、1名様。
 私の羞恥心を嘲笑うかのように堂々と、真っ裸でてくてく歩いて毛布を寝室に片付けに行った御方がいらっしゃいましたね。
 今は可愛い小竜の姿で、一緒に服を拾い……あぁ、現実って切ない。
 切ないというか、厳しいというか。
 ありがた~いご忠告に従い、最初に手にしたワンピで胸等を隠しつつ、部屋中に散らばった衣類を拾って歩いた。
「無い……し、下着が……」
 うう~っ……ハクちゃんのぽいぽい大魔王め!
 ま、まあその、きちんと畳んであったらそれはそれでかなり怖いけど。
「りこ。ほら」
 向かいのソファーの下からほふく前進で出てきたハクちゃんが、4本指の可愛いお手々を私に差し出した。
 その手にある布は白くて、レースが……ぶほっ!?
「きゃあああ~、そそそれ私のっ……!」
 ソファーの下!?
 なんだって、そんな所にあるのよ~!
 ぽいぽい大魔王の馬鹿ぁああ!!
 私は差し出されたそれを瞬時に奪い、ワンピースと胸の間に突っ込んだ。
「ハクちゃん、私のはいいから自分のを……えっ!?」

 温室へと繋がる扉から。
 コンコンッと、ノックの音が。

「トリィ様、おはようございます」

 ひっ……カイユさんの声!? 
 うきゃああ~、待って!
 待ってぇええ~!! 
「ちょちょちょちょっとだけ、待ってください~っ! ハクちゃん、後はよろしく!!」
 私は両腕に掻き集めた衣類を抱え、寝室に駆け込んだ。
 そして。

「うきゃっ!?」

 転んだ。
 扉を開けて直ぐの床に毛布が置いて(・・・)あることに気がつかず、足を引っ掛けて転んだ。
「痛たたぁ~……なんでこんな所に……あっ!」
 うう、ハクちゃん。
 毛布を寝室に置いてきてっていうのは、ベッドに戻してって意味だったんだけどな。



 私がかなり派手に転んだので、ハクちゃんはプチパニック状態だった。 
「りこ、すまなかった。我は置き場所の選択を誤った。我は毛布を床の隅に置くべきだったのだな?」
 う~ん。
 それもちょっと違うんだけどな。
 ハクちゃんは転んだ私に走り寄る時は混乱のあまり、2足歩行じゃなくて4足歩行になってしまっていた。
 竜体のハクちゃんの体型は、幼生のジリ君体型と違って4足歩行に向いていない……。
 ぎこちない動きで近寄って来て、握ったお手々をぷるぷるさせながら私の左太腿にぺたっと張り付き、顔を擦りつける姿を見てそう思った。 
 竜体で良かった……人型だったらと想像しかけて、急いで止めた。 

 大急ぎでチュニックワンピとワイドパンツを身につけ、扉を開けずに待っていてくれたカイユさんに部屋へ入ってもらった。
「お待たせしました! おっ・おはようございます、カイユ」
「おはようございますトリィ様、ヴェルヴァイド様」
 昨日と同じ青い騎士服を着た凛々しいカイユさんは、銀のトレーを持っていた。
「さあ、トリィ様。朝食にはこれをどうぞ、ダルフェがこれを貴女にと……」
 トレーに乗った白い角皿には、三角形のサンドウィッチ。
 綺麗にカットされた断面から見えるのは、たっぷりの生野菜とハム、そしてチーズ。
 コーンの甘い香りがふわりと漂うポタージュ。
 定番となったカカエのプリンには形良く絞られた生クリームと、数種のベリー類が添えられていた。
「わぁ~、美味しそう!」
 ダルフェさん、お仕事が忙しいのに……ありがとうございます!
 トレーを受け取った私は、満面の笑みを浮かべていたに違いない。
 カイユさんのこの言葉を聞くまでは。
「朝は電鏡で連絡してから参りましょうか? あのように慌てて行動されては、危ないですわ……いろんな意味で」
「えっ!?」
 トレーを持って固まった私の顔の横で、ふわふわ飛びながらハクちゃんが言った。
「竜族は人間よりも聴覚が良いと、我はりこに言ってなかったか?」
 言ってないよ、ハクちゃん(涙)。


 銀のトレーをダイニングテーブルに置き、私は椅子に腰掛けた。
 自分ですると言ったんだけど、カイユさんは白い手袋をしたまま私の手からミルクパンを奪い、にっこり笑いながら言った。
「料理は苦手ですが、これくらいは出来ますわ。カイユにおまかせください」
「え? お料理苦手なの!?」
 才色兼備で完璧な女性だと思っていたので、その言葉にちょっと驚いてしまった。
「はい。必要性が無いもので……ダルフェがああ(・・)ですから」
 なるほど。
 すごっく納得です。
「私、母に似て料理も裁縫も駄目なんです。唯一できる料理は……お茶を淹れることかしら?」
 お茶?
 お茶って料理なんだろうか……。
「カイユの淹れてくれるお茶はとっても美味しくて、私は大好き」
「そうですか? ありがとうございます」
 ほんのちょっと頬を染めて嬉しそうに微笑むカイユさんは、とっても綺麗で可愛かった。
 お茶は料理。
 うん、そういうことに致しましょう!

 ミルクパンで冷えてしまったポタージュを温めながら、カイユさんは『本日の予定』を教えてくれた。
 午前11時に、私はダルド殿下に会う。
 私がダルド殿下に会う場所はお城の大広間でも、竜帝さんの執務室でもなく。
 私が暮らしている南棟……温室に決まったのだと教えてくれた。
 ハクちゃんにも相談は一切しないで、竜帝さんが全て1人で決めた。
 それに対しての不満は、私には無い。
 <青の竜帝>として、彼が決めたことだったから。

「セイフォンの皇太子か……ふむ」
 ハクちゃんは昨夜私がお願いした通り、今日は竜体でいてくれるんだけど……あれ?
「ハクちゃん、それ……」
 いつの間に寝室から持ってきたのかな?
 彼の白い手には、赤いチェックの布。
 私のパジャマで作ってあげたナイトキャップを両手で握り、ダイニングテーブルにちょこんと座ったハクちゃんが私を見上げて言った。
「りこよ、ぱじゃまはどんなに自慢したくとも着ていったら駄目なのだろう? ならばこの‘お帽子‘だけなら良いか? あのイケメン王子に、これを装着した我のかわゆさを見せ付けてやろうと思うのだ」

 は?

「我はイケメンとやらでは無いので、かわゆさで勝負するつもりだ。まぁ、我のかわゆさは世界一であるとりこに言われておる程なので、よく考えたら不戦勝だな。あの男は全くかわゆくないのだから」

 勝負!?
 またまたそんなこと言って……勝負じゃな~い!

「さあ、召し上がれ。熱いですから、気をつけて下さいね。……ヴェルヴァイド様。あの皇太子は羽虫以下の存在。トリィ様のお作りになられた貴方様の宝を、見せてやる必要などありませんわ」
 湯気の立つポタージュを私の前に置いてくれたカイユさんの声には、前半と後半の温度差がすご~くあった。
「うっ……カイユ」
 あぁカイユさん、貴女もダルド殿下に手厳しかったんですね。
「と、取りあえず食事にしましょう! 腹が減っては戦は出来ぬって、昔から言うしね!」
 ん?
 戦。
 戦……勝負!?
 ハクちゃん、私達ってやっぱり似たもの夫婦なのかなぁ?




 南棟に来る前にジリ君と食事を済ませたからと、カイユさんは私が朝食をとっている間に衣装室で今日の勝負服(?)を選んでくれた。
 彼女が衣装室から抱えてきたドレスは、白いドレスだった。
 光沢のある白地に、袖と襟に金糸の細かな刺繍。
 長い裾には無数の小さな真珠が縫い付けられていた。
 あわわわ~、ちょっと豪華過ぎるのでは?
 そう思ったのが、顔にばっちり出てしまったみたいだった。
 そんな私にカイユさんは、にっこりと微笑みながら言った。
「ここはセイフォンなどという田舎の弱小国とは全てが違うのだと、あの皇太子に思い知らせてやるのです。ふふっ……この居住区もあの温室も衣装も、陛下がトリィ様の為に揃えたものです。セイフォン側で用意された生活環境などとは、比べるまでもありません。トリィもそう思うでしょう?」
 カイユさんの言葉に、私はなんと答えてよいか迷い……曖昧な返事で誤魔化してしまった。
 セイフォンでの暮らしも、私がダルド殿下に要求した以上のものだった。
 セシーさんも良くしてくれた。
 それはハクちゃんという存在が影響していることを差し引いても、十分すぎるものだった。
 でも、それを彼女に……今の‘状態‘の彼女に言うべきじゃないと思った。
 食後に手早く入浴を済ませた私を寝室にあるドレッサーの前に座らせ、カイユさんは丁寧に髪を拭いてくれた。
「カイユ……」
 さっき、またトリィ様とトリィが混ざっていた。
 カイユさんの中で。
 私は異界人で<監視者>のつがいの『トリィ様』であり、異界から帰ってきた『トリィ』というこどもでもある。
「……うん、カイユ」
 膝にいるハクちゃんのお腹を撫でた。
 お腹を撫でる私の手の甲に、小さな手がそっと重なった。
 小竜のハクちゃんは、人型の時以上に私の心の動きに敏感。
 竜体だと念話が使えるせいかな……。
 私の感情が無意識に彼へと流れてしまい、彼はそれを感じとっちゃうみたい。
「あ……そうだ! 私、セレスティスさんに会ったのよ!?」
 昨日、お土産を持ってきてくれた時は言い出せる雰囲気じゃなかった。
 ちょっと話題を変えたかったし、私は竜帝さんの執務室でセレスティスさんに偶然会った話をした。
「絵本に出てくる王子様みたいで、とても素敵な人ね!」
 あの首ちょんぱ発言については、黙っていよう。
「父は貴女と……ヴェルヴァイド様の前でも‘王子様‘だったんですね?」
 髪を拭いていた手が、止まった。
 タオルをドレッサーに置いてから、カイユさんは膝を床について私と視線を鏡越しに合わせた。
「私が貴女に会わせるのを許さなかったと、父は言いましたか?」
「え? はい、そっくりだから照れてるんだろうって言っ……」
 私の言葉を遮るように。

「違います。父を失いたくなかったからです」

 カイユさんは言った。

「カイユ……」

 やっぱり。
 うん、そうだよね。

 ハクちゃんは優しい。
 私の言葉をそのまま受け取ってしまうほど、素直な心を持っている人。
 小さな子供のように、床でころころを楽しんだりする無邪気な人。
 
 でも、とても……とても怖い部分も持っている人だから。
 
 人間である私と彼の間には子供が出来ない。
 だから竜の雄である彼は未だに蜜月期中で、他の雄の存在に過敏に反応してしまう。
 ハクちゃんが子供を望んでいなくても、それは変わらないようだった。

「ある一線を越えれば、貴女の前であろうと蜜月期の雄であるヴェルヴァイド様は父を<排除>します。だから……父は貴女に会いたがっていたのに、私が拒んだんです」
「ハクちゃんがもしお父さんを……って、考えるのも無理ないと思う」
 カイユさんはセイフォンと帝都で、竜帝さんにハクちゃんがした事を知っている。
 ハクちゃんがした事を、間近で見てきた。
「でもね、ハクちゃんはセレスティスさんを傷つけたりしなかった。カイユが泣くから駄目だって言ったの。カイユのお父さんに酷いことなんてしないよ?」
 これだけは、知って欲しいの。
 ハクちゃんは、ちゃんと分ってた。
 お父さんに何かあったら、カイユが泣くって。
 カイユが泣いたら、私が悲しむって言ったの。
 今のハクは、他人の気持ちや感情を考えることができるようになってきてるって、カイユにも知ってもらいたい。
「カイユ、ハクちゃんは変わっ……」
「ヴェルヴァイド様なら父を殺して下さると、父同様私も思っていました。無傷なんて、予想外でした」


 --父を殺して下さると……


「カ……イユ?」
 まるで。
 それじゃあ、まるで。
「私が父を貴女から遠ざけたのは、ヴェルヴァイド様の蜜月期の雄竜であるがゆえの性質を、父が利用するのを恐れたからです」
 利用……どういうこと?
「母は殺されたのです、人間に」
 それは、私も知ってる。
 竜帝さんが話してくれたから。
 お母さんのことと、ハクちゃんを‘利用‘するっていうのと……繋がりが?
「あの皇太子が初めて帝都に来た時に同行した、王宮術士の女に殺されたんです。生きたまま腹を裂かれ臓腑を荒らされ、竜珠を奪われました」
「……カ……イ…」

 そ……んな。
 
「あの女は母にうまく取り入って‘お友達‘になり、母を騙して……殺したんです」

 そんなの、知らない。

「私の父は、あの女を連れて来た皇太子を憎んでいます」
 
 惨い殺され方をしたって言ってた。
 惨い?
 惨いなんて言葉ですむことなの!?

「陛下は皇太子を殺すことを、父に<主>として禁じています。ですが最強の存在であるヴェルヴァイド様が城内にいらっしゃるので、竜騎士が本能的に持っている竜帝陛下への<恐怖>による服従心が薄らいでしまうのです」
 待って。
 よく分らない。
 蜜月期で危険なハク。
 ダルド殿下の連れてきた術士に、お母さんは殺された。
 だから、セレスティスさんはダルド殿下を怨んでいる。
 殺したいほど……それを竜帝さんは、禁じて……。
 命令……拘束力……恐怖による服従心?
「陛下がダルフェにあの皇太子の警護を命じたのは、父からあの皇太子を守るためです。陛下は政務がありますから、四六時中あの皇太子に構っていられません。陛下以外に父を止められるのは<色持ち>のダルフェのみ」
 待って、カイユ。
 まだ頭と心が、まとまらないの。
「父の望みはつがいとしての復讐。あの人は私の<父>である前に、ミルミラの<セレスティス>だったんです。復讐心を……‘望み‘を越えるあの人の強い‘願い‘は……」
 望みは、復讐。
 じゃぁ、願いは……願いは?
「あの人の願いは【死】です」

 死。

「父には自殺する権利(・・)が<主>から与えられていません。‘生きろ‘と命じられているのです」
 自殺……奥さんの後を……?
 そんな。
 ハクちゃんに、自分を?
 利用って、そういうことなの?
「じ……じさ……」
 なんで?
 子供が、カイユさんがいるのに?
 あんなに可愛いジリ君が、孫が生まれたのに?
「セレスティスさん、死にたい……の? あの時、ハクちゃんに殺して欲しかったの!?」
 そんなの、勝手すぎる!
 あの時。
 私の目の前で‘カイユの大切な人‘に、ハクはそんなことをしたくなかったから。
 私の気持ちを、心を想ってくれて……耐えてくれた。
「殺されたいなんてっ……死にたいなんてっ」
 お父さんが、死んじゃったら。
 カイユはっ。
 セレスティスさん。
 貴方は、ダルフェさんとの辛い別れが待っているカイユさんを……たった一人の娘を、支えてあげる気がないの?
 カイユさん、普通の状態じゃないのにっ……心が壊れかけてるのに!!
 父親なのに。
 カイユを……見捨てるの!?
「トリィ様。私は酷い娘なんです」
「カイユ! 何言ってっ……」
 酷いのはセレスティスさんでしょう!?
「父が苦しんでるを知っているのに。おいていかれるのが、どんなに辛いか……私には分るのに」

 カイユ……。

「父様に、生きていて欲しい」

 ーー生きていて欲しい。

「カイ……ユ」

 その言葉。
 セレスティスさんに、お父さんに言ってないんでしょう?

 言えなかったんだね……。

 お父さんを、愛してるから。
 苦しめたくないから。

 私がハクちゃんに言えないように。
 カイユも、お父さんに言えなかったんだね。

「私、酷い……娘なん……です」
 
 ミー・メイちゃんに預けるつもりの、私が両親に書いた手紙に使ったその言葉を。
 貴女から、聞くなんて。

 私達、血は繋がってないけれど。
 やっぱり、どこかで繋がっている。
 不思議なほどに。

 詰まった言葉。
 カイユの唇が、微かに震えていた。
 
「カイユ……泣いていいんだよ?」

 カイユ。
 この世界で私を待っていてくれた、綺麗で強い竜族の母様。
「駄目です。私は父のことで泣いてはいけない。母を失ったあの日、父と約束しました」
「カイユ……」
 はっきりとした、迷いの感じられない強い口調。
 なのに、その顔は鏡に向けられていて私を見ない。
「ハクちゃん」
 私は膝にいるハクちゃんに、声をかけた。
「ハクちゃん。眼を少しの間だけ、瞑っていてくれる? お耳も塞いでいてね」
「分った。これでよいか?」
 ハクちゃんは金の眼を閉じて、両手で頭の横を押さえた。
 何も訊かないでそうしてくれる、優しい貴方。
 口で言わなくても、念話を使わなくても。
 私の心を、貴方は感じてくれている。
「ありがとう、ハク」
 ハクちゃんのしっかりと閉じた目蓋に感謝のキスをして、膝にいた彼を床に下ろした。
 私は立ち上がりカイユさんに向き合って、白い手袋をした両手に触れた。

「カイユ」

 強さ。
 貴女の強さは。

「はい。トリィ様」
「私を見て」
「……お許しください、トリィ様」

 今の貴女の瞳は、私を避けている。
 とても綺麗で。
 胸が締め付けられるほど悲しい水色の瞳は、私を見ない。

「カイユ」

 あの時、貴女が言ってくれたように。
 私も貴女に、そう言うの。

「私の前では弱くても、いいの……私以外、見てないから。私の前でなら泣いていいのよ、母様」

 カイユさんがしてくれたように。
 彼女の髪を撫でた。
 何度も、何度も。

 貴女が私に教えてくれたの。
 これは、貴女が……母様が教えてくれたのよ?

「カイユ……私の母様」
「…………ッ」

 カイユさんはそっと私の手を髪から外して、立ち上がった。
 そして水色の眼で数秒間、白い手袋をした自分の両手を見た。

 澄んだ冬の空から、お天気雨が降って。
 白い手袋に落ちた。

「……私」

 昨日から、私の前でもずっとしていたそれは。
 ポタージュを温めるときも、髪を拭いてくれるときもしたままだった。

 ハクちゃんが手袋をしていた時のことを思い出した。
 白い手袋は、あの時は私からハクを……今はカイユさんを遠ざけてしまう気がして。

「貴女のお側にいる時は」 

 ちょっと、寂しくて。
 悲しくなってしまう。

「<青の竜騎士>ではなく、私は‘カイユ‘です」

 そう言って。
 手袋を外しながら微笑んだ。

 カイユさんは私を見てくれた。
 その濡れた水色の瞳の中で、私がゆらゆら泳いでいた。

 ゆらゆらして見えるのは、私も泣いているからだと。
 私の頬をそっと舐める、ハクちゃんの温かな舌が教えてくれた。

 この涙の味を、ハクちゃんは口にしなかった。
 言わないでいてくれて、ほっとした。

「……ありがとう、ハク」

 この涙は。
 きっと、ちっとも甘くなかったはずだから。


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