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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

私の幼なじみは、白くて強くて怖い

作者:三国司
 油断していた。
 超油断していた。

 ”A地区”は、私のような弱い『ニンゲン』でも普通に生活していけるほど治安のいい所だけど、それでも悪い奴が全くいないわけではないというのに。


「ここ、F地区……?」

 四つ足の獣が引く荷車。その中に無理矢理押し込められていた私は、小さな窓から外を覗いて絶望と共に呟いた。
 F地区とは法律に縛られない自由な場所——つまり無法地帯である。私が住んでいたA地区とは正反対の場所だ。自己防衛力の低いニンゲンなど、決して足を踏み入れてはいけない場所。

「最悪だ……」

 小さくうなって頭を抱えた。ヤバい事になってしまった。

 半日前までは平和だったのに。
 政府の治安維持部隊アンデュラスがしっかり監視をしてくれているA地区で、私はいつもの休日と同じように、幼なじみのアルと買い物に出かけていた。
 しかし今日は通りに人が多く、ふと気がつけばアルと逸れてしまっていて、かと思えば誰かの手に捕えられて路地に引きずり込まれ、気絶させられていた。
 気を失う寸前にニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる豚と犬の獣人を見た気がするから、きっと彼らが犯人だろう。

 荷車はガタガタと揺れながら、猛スピードでF地区の奥へと向かっていく。狭い荷車の中には私の他に生き物はいないらしいが、何が入っているのか分からない木箱がいくつか積まれていた。
 かくいう私も、気を失っている間に木箱に詰められていたらしい。起きた時には真っ暗で窮屈でちょっとパニックになったけれど、無理矢理ふたを押し開けて脱出した。

 しかし、木箱のふたを開ける事は出来ても、荷車の扉を開けることは出来ない。重い扉には鍵がかかっていて、私の力では壊す事も難しかったのだ。
 けれどF地区に入ってしまった今、この荷車から脱出したってその先に安全など無い。ここは中で大人しくして様子を伺った方がいいのかも。
 私はため息をついて、不安から漏れ出そうになる涙を何とかこらえた。


 この世界の人種は様々だ。

 全身を毛で覆われた獣人や、鱗に覆われた魚人、竜人、それに昆虫人、機械人、さらにそれらの混成種が同じように生活している。
 それゆえ人種差別などはほとんどないのだが——しかしニンゲンだけは別だった。体が小さく華奢で力も弱いニンゲンは、他の種族からは劣等種と見なされているため、危険な目にも遭いやすい。
 実際私も、子どもの頃から何度となく危ない目に遭ってきた。

 しかし今回は最大のピンチかも。
 ここF地区にはいつも私を助けてくれる幼なじみのアルも、治安維持部隊アンデュラスもいないのだ。

 悲嘆にくれていると、荷車がゆっくりと速度を落とし始め、やがて完全に止まった。私はごくりと唾を呑み込み、緊張に体を固めた。
 荷車を引く獣の背から降りたらしい二人分の足音が後方へと回り込んでくる。私はぎゅっとこぶしを握った。乱暴に鍵が開けられて、荷車の重い扉が開かれる。

「やぁ、お嬢さん。ヒヒ……お目覚めかい?」

 太った豚の獣人は、勝手に木箱から出ていた私を見ても怒りだす事はしなかったが、代わりにニンマリと不気味な笑顔を向けてきた。なんていうか、すごく……悪人顔である。
 隣にいる犬の獣人も同じような顔をしている。あれは絶対、悪い事を考えている顔だ。

「さぁ、こっちへ来い」
「いやっ……」

 ニンゲンの抵抗など彼らにとっては何でもない。私はあっさりと担がれて、荷車の外へと連れ出された。
 日は沈み、辺りはもう真っ暗だ。少し肌寒いけれど、私の腕に鳥肌が立っているのは気温のせいだけじゃない。

「離して!」

 がむしゃらに暴れて一旦は解放されたと思ったが、すぐにまた捕まって手首を縄で縛られた。

「あんまり暴れるなよ。ヒヒ、大人しくさせるために、腕の一本や二本、うっかり折っちまうかもしれないぜ?」
「ニンゲンは脆弱だからな。俺たちがちょーっと力を入れただけで壊れちまう。五体満足でいたいなら、あんた自身にも協力してもらわねぇと」

 笑いながら脅すように言う獣人たちの言葉に、私は顔を青くした。獣人という人種は獣の血が入っているだけに好戦的で、野蛮な者も多い。A地区に住む獣人は優しい人も多かったけど、ここにいる彼らは明らかに危険だ。たぶん元々はF地区の住人なのかもしれない。
 私のその予想を肯定するかのように、犬の獣人が得意げに言った。

「けど、俺たちゃツイてるよな。いつ治安維持部隊アンデュラスに見つかるかとヒヤヒヤしたが、杞憂だった。こんな簡単に若いニンゲンの雌を手に入れられるなんてな。居心地の悪りぃA地区まで、わざわざ行ったかいがあったってもんだ。なぁ、そうだろ?」
「ヒヒ、全くだ。これで俺たち、しばらく遊んで暮らせるぜ。若いニンゲンを欲しがる奴らは多い。絶対に高く売れる。……おっと、逃げるなよ」
「う……」

 隙を見て走り出そうとしたら、また簡単に捕まってしまった。豚の獣人の肩に荷物のように担がれる。臭覚の鈍い私でも嗅ぎ取れるほど濃い獣の匂いに、思わず鼻にしわを寄せた。この人ちゃんとお風呂に入っているんだろうか。

「しかし本当にたまらない匂いだな。雌の匂いと、食欲をそそる匂いが混じり合って……」

 肩に担いだ私の腰の辺りに、豚の獣人が鼻を寄せた。スゥと匂いを嗅がれて、嫌悪感に背筋が粟立つ。
 犬の獣人は深くうなづいて同意すると、真顔で恐ろしい事を言い出した。

「なぁ、他人に売る前に俺たちでちょっと味見しないか? 若いニンゲンの雌なんて、きっともう二度と手に入らないぞ。こいつが生娘じゃなくなったって高く売れる事には変わりない。あるいは足が一本なくなっても同じだ。価値はそれほど下がらないさ」
「……そうだな。ヒヒ、そうしよう。両方の意味で喰っちまうってわけだな」

 なるほど、食欲と性欲を満たすために両方の意味で私を食べるって? うまいこと言うねぇ。
 ……って違う!

 呑気にノリツッコミしてる場合じゃない。貞操を失うのも、足を食べられるのもごめんだ。絶対嫌。痛いし怖いし痛いに決まってる。
 何とかして彼らから逃げないと。そう思って、担がれたまま顔を上げた。周囲の状況を把握し、逃げ道を探すため。
 けれど目の前に広がる光景を目にして、また絶望する。

 F地区には外灯なんてものは無いようで、辺りは闇に包まれていた。通りにずらっと並んだ荒れた建物は、うっすらとその輪郭を目視できるだけ。
 けれど後方から、どこからともなく現れた数人の雄たちの姿は、嫌でも私の目に映り込んできた。

「よう、お前ら。いいモン持ってんな」
「ニンゲンか? しかも雌だ」
「良い匂いがする。美味そうな匂いだ」

 私は悲鳴を呑み込んだ。獣人が四人と、魚人が二人、それに色んな種族が混じり合った混成種が五人。
 新たに十一人、私を害する者が増えてしまったのである。F地区の住人だけあって、やはり皆揃って悪人顔だ。凶暴で残忍そう。
 これでますます逃走は困難になった。体から血の気が引いていく。

 彼らの声に、私を担いでいた豚の獣人と、その隣を歩いていた犬の獣人がピタリと足を止めて振り返った。そうしてチッと小さく舌打ちする。

「お前らにはやらねぇぞ。俺らがわざわざA地区まで行って獲ってきたんだ」

『よし、じゃあ皆で分け合おう』とならなかった事にはホッとするべきなのかもしれない。この人数で味見されたら、どっちの意味での味見にしても私の身が持たない。確実に死んでしまう。
 けれど新たに現れた雄たちも簡単に諦める気はないようだ。ギラついた目で私を舐め回すように見ながら、犬の獣人たちに軽い調子で返事をした。

「ほー、それはご苦労だったな。ありがとよ」
「だからお前らには、やらねぇって」

 犬の獣人が唸るように言う。一触即発、二組の間にピリピリとした険悪な空気が流れた。
 やめて、私を取り合ってケンカしないで! するなら私を逃がした後で勝手にしてお願いします。

 しばらく睨み合っていた二組だが、人数的に不利な豚と犬の獣人は、私を担いだまま逃げる事に決めたようだ。くるりと向きを変えて駆け出した。
 私はこの二人が無事に逃げ切ってくれる事を願ったけれど(十一人で嬲られるよりはマシだし、二人相手ならまだ逃げ出すチャンスもあるかもしれないから)、最悪な事に、豚がとんでもなく愚鈍だった。びっくりするほど足が遅い。

「追いつかれる! もっと早く走って!」
「うるせぇ、ハァ……ニンゲンが俺に、ハァハァ……命令すん、な」

 手首を縛られたままバンバンと豚の背中を叩いてみるが、スピードは速くならない。犬の獣人も一歩先を走りながら「早くしろ!」と相棒をせかしている。
 が、あっという間に追いつかれ……

「きゃあぁ!」

 今度こそ私は悲鳴を上げた。追ってきた雄たちが豚の獣人の服を掴み、引きずり倒したのだ。彼に担がれていた私も、その衝撃で地面へと放り出された。A地区のように綺麗に整備された地面ではなく、石や瓦礫の破片が散らばる地面へ。

「痛ッ……」

 手のひらを浅く切ってしまい、痛みに顔を歪めた。けれどこんな些細な傷など気にしている場合じゃない。逃げなければ。そう思って立ち上がったところで、後ろから誰かに羽交い締めにされた。腕に光る鱗を見るに、私を捕えているのは魚人だ。

「ニンゲン、ゲットー!」

 はしゃぐように言うと、戦利品のように私の体を高々と持ち上げる。私はもう一度悲鳴を上げた。しかし彼らは私が怖がって怯えるほど愉快になるらしい。悲鳴を聞いて楽しそうに笑った。

「おい、オレにもニンゲン触らせてくれ」

 周りにわらわらと雄たちが群がってくる。多勢に無勢、最初に私を誘拐した犬と豚の獣人はボコボコに殴られて気絶し、道ばたに転がっていた。

「いやッ……」

 ごわついた堅い手で後ろから髪を引っ張られた。別の誰かが、私の体を自分の元へ引き寄せようとしているのだ。
 しかし魚人も拘束を緩めようとはしない。

「待て待て、俺が先に味見するんだ」
「いいや、オレだ」

 四方八方から大きな手が伸びてきて、ぐいぐいと乱暴に体を引かれる。掴まれている腕や肩が千切れそう。
 しかしその痛みで、恐怖が一瞬だけ吹き飛んだ。

「……ッやめてよ!」

 物扱いされている事に無性に腹が立ってきたのだ。彼らは私の事を人とは思っていない。
 自分でも信じられないけれど、この状況で私はキレていた。このまま彼らの思い通りに嬲られるのは嫌だ。ニンゲンでも、追いつめられれば噛みつくんだぞと思い知らせてやりたい。

「離して!」

 というわけで、目の前にあった毛むくじゃらの腕に噛みついた——思いきり。
 さっきから私の肩を強く掴み過ぎなんだよ、この馬鹿力め!

「痛ッ……てぇ!」

 相手の骨を砕いてやる! くらいの勢いで噛んだから、多少はダメージを与えられたようだ。私の肩を掴んでいた熊の獣人が痛みに声を上げて手を引いた。
 だけど私の方にも結構なダメージが……。口の中は毛だらけだし、あごが外れそう。

「ハハハッ! グールの奴、ニンゲンの雌にやられてやがる。傑作だな」

 周りの雄たちがドッと笑う。
 私は彼らを無視し、ペッペと口の中の毛を吐き出して、熊の獣人に向き直った。相手が逆上するのは目に見えていたから。

「このッ……!」

 予想通り、熊の獣人が牙を剥く。
 しかし私は妙に落ち着いていた。やはりキレてしまっているとしか思えない。彼ら全員から逃げきるのが無理なら、出来るだけ反撃して抵抗してやろう。今、そんな風に考えているのだ。
 ニンゲンの雌の”意地”ってものを見せつけてやろう……なんて。

 私は覚悟を決めて、襲いかかってくる獣人を見据えた。戦い方なんて知らないから、めちゃくちゃに暴れるしかない。噛みついて引っ掻いて、蹴って殴って——

 だけどやっぱり、私にはそんな度胸はなかったようだ。土壇場で怖くなって目をつぶってしまった。
 だって熊の獣人が恐ろしい顔をして突進してきたんだもの。
 その形相たるや凄まじく、私の中の”意地”など簡単に霧散してしまった。自分の弱さを悔しく思う気持ちもあるけれど、怒れる熊の獣人と対峙するのは、やっぱり怖い。自分の倍近く大きい雄と戦うなんて、とんでもない恐怖だ。

 私はぎゅっと身を縮めた。
 せめてあまり痛い思いをせずに死ねますように。

 


「何を諦めているんですか、サヤ」

 静かな怒りに震える低い声が、熊の獣人の叫び声に紛れて、私の耳に届いた。
 私はハッと顔を上げる。

「アルテミス……」

 大きな安堵感が胸に押し寄せ、気を失いそうになった。けれど何とか唇を動かして、今、突然目の前に現れた幼なじみの名前を呟く。
 どうしてここに?

「そんな簡単に死を受け入れてはいけません」

 叱るような口調でアルは言う。
 彼——アルテミスの容姿を言葉で説明するのは難しい。ニンゲンでもなければ、純粋な獣人や魚人でもないから。

 荒廃したF地区の路地裏で月明かりに浮かび上がったのは、石膏のように白い体躯だ。まるで鎧(昔、ニンゲンがその弱い体を守るためにつけていたらしい防具の事だ)をつけているみたいになめらかで硬質そうだけど、あれは外から付けた金属ではなく、分厚く硬い皮膚のようなものらしい。アルの体は滅多な事では傷つかないけれど、切られれば血が流れ出ることもある。
 私が見上げなければならないほど背は高く、細身ですらりとしていて、手足は驚くほど長い。
 顔の上半分も仮面のようにも見える硬い皮膚で覆われているため、眼球や鼻は無い。けれど口はあって、アルが喋ると真っ赤な舌が覗くのだ。全身が白い彼の中の、唯一の色。

 そしてアルのもう一つの特徴は、自由に動く長い尾だ。金属で覆われているみたいに関節がいっぱいあって、硬そうで、先が鋭い。
 今そのしっぽは、私を襲おうとしていた熊の獣人の胸に突き刺さっている。

「死を受け入れる前に、しなければならない事があるはずでしょう?」

 アルは尾を振って、すでに事切れている熊の獣人を投げ捨てた。いつも通りの丁寧な口調だけど、幼なじみの私には、彼がとても怒っているのが分かった。

「そう、だね」

 血に染まったアルのしっぽを見ないようにして小さく頷く。
 そう、私はやっぱり戦うべきだった。死を受け入れる前に、ニンゲンの意地を見せて抵抗するべきだったのだ。しかし恐怖に屈してそれを簡単に捨ててしまったから、アルはこんなに怒っているのだ。ふがいない私に怒って——

「死を受け入れる前に、どうして私の名を呼ばないのですか! 愛する雌が、そのピンチの時に自分の名を呼んで助けを求めてくれる。それが雄の夢というものでしょう!」
「……」

 いや、知らない。
 そんな力説されても、知らない。
 ぽかんとする私をよそに、アルは片手で頭を抱えて首を振った。

「貴女にとって、私はそれだけの存在なのですね。死の間際に思い出す事も無い……」
「そ、そんな事ないよ……」

 思わず慰めてしまったけれど、何の話、これ。

「何だぁ? テメェは」
「どっから現れやがった」
「おい、こっち向け。仮面野郎!」

 雄たちの怒声に、私はびくりと肩を揺らした。アルが熊の獣人をやっつけてしまったから、みんな殺気だってる。
 私は怯えて、縛られたままの両手を自分の胸に引き寄せた。アルが強いのは知ってるけど、F地区の荒っぽい雄たち十人を相手に戦うのは、さすがに無理が——

「少し黙ってくれませんか。邪魔なのです、貴男方」

 ——なかった。
 全然無理なかった。
 アルは手を使う事もなく、その長いしっぽだけで残りの雄たちを蹴散らしてしまった。尖った尾の先で足を切られた魚人は、圧倒的な力の差を前に、腰を抜かしてへたり込んでしまっている。

「ああ、そういえば」
「ひっ……!」

 真っ直ぐにこちらを見ていたアルだったが、唐突にくるりと向きを変えて、魚人の方へと顔を向けた。お尻を地面についたままで後ずさる魚人に、静かに、冷たく近寄っていく。

「少し目を離した隙に、私の元からサヤを攫ったのは誰でしょう? 貴男でしょうか」
「ち、違っ……ぎゃあぁ!」
「それとも貴男でしょうか」
「うわああぁ!」
「貴男?」
「ぎゃあー!」

 なんてこった。目の前で幼なじみが一方的な殺戮を繰り広げている。
 ここは私が止めなければ。そう思ったけど、いや、やっぱり……と考え直した。
 だってここはF地区だ。ルールなどない無法の街。だから人殺しも犯罪ではない。アルは今、罪を犯しているわけではないのだ。
 だったら別に止めなくてもいいのでは? 相手は悪人だ。生かしておけば、また私が狙われるかもしれないし、私とは別の新たな被害者が生まれるかも。

 うん、だったら放っておこう。
 弱いニンゲンである私が、強い他種族に情けをかける必要などない。この世界では”甘さ”が命取りになる。時に非情にならなくては、安全は守れない。私は自分の命が大事だ。

 無言で事が終わるのを待っていると、やがてアルは爽やかに振り返った。どうやら気は済んだらしい。

「サヤ、大丈夫ですか? 怖かったでしょう」
「や、むしろ今はしっぽが血濡れのアルの方が怖……ううん、なんでもない。助けに来てくれてありがとう、アル。でも、よく私の居場所がわかったね」
「貴女の匂いを追ってきましたから」

 アルは私の手首を拘束していた縄をあっさりと引きちぎると、心から安堵したように私を抱き寄せた。鼻の穴が無いのにどうやって匂いを感じているんだろうかと、いつも不思議に思う。

「無事でよかったです、本当に。私がついていながら貴女の姿を見失うなんて……面目ないとしか言えません」

 アルの白い鎧のような体は硬く、少しひんやりしている。私は彼の長い腕の中にすっぽりと収まりながら、こうやって助けてもらうのは何度目だろうかと過去を思い返した。弱く希少なニンゲンである私は、比較的安全なA地区に住んでいながらも、過去に幾度となく危ない目に遭ってきたのだ。そしてその度助けてくれたのが、幼なじみであるアルだった。

 彼には感謝してもしきれない。成人してから治安維持部隊アンデュラスに入隊したのも、私が平穏に暮らせる街をつくるためだと言ってくれた。
 本当に優しくて、頼りになる幼なじみ。

「おや……? サヤ、怪我をしているのですか?」

 ただ、時々——

「え? ああ、そうだった。さっき手のひらをちょびっと切って……」

 ——時々少し恐ろしい。


「私に見せて下さい」

 有無を言わさぬ強い口調で言うと、アルは血の滲んだ私の手を取った。
 ぎらり、彼の目の色が変わった気がする。アルには眼球がないけれど、なんとなく分かる——さきほどの雄たちと同じような目をしてるって。

「ああ、可哀想に。痛かったでしょう」
「……っ!」

 ため息をつくように言うと、唇のない切れ目のようなアルの口から真っ赤な舌がぬるりと這い出てきて、私の手のひらを舐め上げた。彼の長い舌が優しく丹念に、しかししつこく、何度も何度も傷口を行き来する。

「……サヤの血は甘い。脳髄が痺れそうなほど」

 興奮しているのか、アルの息づかいが乱れ始めた。
 舐められている傷は痛くはないけれど、官能的な舌の動きに羞恥心がかき立てられる。私は顔を赤くして、じっとしている事しかできなかった。愛撫をされているかのように艶かしく、ただただ恥ずかしい。
 アルのもう片方の手と長い尾は、いつの間にか私の腰に絡み付いていた。強く抱かれて、引き寄せられる。こうなってはもう、私は自分の力では脱出できない。

「ア、アル、もういいよッ……血は止まったから」

 恥ずかしさに耐えかねて、あえぐように言った。なんだか体が熱い。
 アルは一瞬動きを止め、舌を離して、こちらを見た。

 あ、やばい。
 本能的にそう思った。

 過去に何度か、こういう顔のアルを見た事がある。
 今、彼の脳は、食欲と肉欲に支配されているはずだ。
 私はぶるりと体を震わせた。

「そんなに頬を赤らめて、瞳を潤ませて……私を煽っているのでしょうか」
「ちちち違……ぎゃう!」

 ツ……と首筋を舐め上げられて、思わず肩をすくめた。色気のない変な声も出た。
 またしつこく私の首筋を這うアルの舌に、ぞくぞくと体が震える。たまらず熱っぽいため息を漏らすと、アルが密かに笑った気配がした。


 最初は食欲だけだった。

 まだお互いに小さかった頃、アルが私に抱いていた感情は、友愛の他には食欲だけだったはずだ。
 はぁはぁと息を荒げて「ちょっと二の腕かじらせて下さい」とか、「”はむ”だけですから。食感を楽しむだけで、本当に噛み切ったりはしないですから」とか言ってくる幼なじみの姿はマジで恐ろしかったけど、アルの方もちゃんと自制してくれていたので、あしらうのは難しくなかった。

 しかし成長して年頃になると、いつからかそこに艶っぽい感情も交じるようになってきた。私はそれを感じ取っていたけれど、なんだか怖くて気づかない振りをした。両方の欲を持て余したアルは、まるで知らない大人の雄のようだったから。

 そしてその時からずっと私の事を想い続けていてくれているであろうアルの気持ちが、最近そろそろ限界を迎えようとしている事にも気づいている。
 気づいていて、どうしていいか分からない。

 私もいつからかアルの事を異性として意識し始めていたから、想いを伝え合って、相思相愛になるのは嬉しい事でもあるはずだ。
 だけど私がアルの気持ちを受け入れれば、彼はきっと喜びを爆発させるはずで(私の自意識過剰でなければ)、その後どうなるのかが正直恐ろしい。
 両思いだと分かれば、今はギリギリで抑えられているアルの欲求の一つ(つまり性欲)が、直球で私に向けられるようになるんじゃないか、とか。
 じゃあ直球で向けられたとして、種族の違う私とアルは”そういう行為”が安全にできるのか、とか。そもそもアルの生殖器ってどうなってんの? とか。てか体格差かなりあるのに、ちゃんと入るの? とか。入っても私壊れるんじゃないの? とか。

 まぁ、主にそっち方面の心配事が尽きないわけで。
 なんせ私も恋愛初心者だから。ニンゲンの雄の体だってよく知らないのに。

 そしてもちろん、”もう一方の欲求”の方も気にかかる。つまり食欲。
 恋人同士になれば今より肉体的接触は増えるだろうし、”ごちそう”を目の前にアルがちゃんと我慢してくれるのか、そういう心配は常に付きまとう。
 行為の最中に興奮して、性欲と食欲がごっちゃになっちゃったアルに喰いちぎられるとか嫌だからね。一緒のベッドで寝て、寝ぼけたアルに肉を噛みちぎられるのも嫌だからね。朝起きたら腕がなくなってるとかも嫌だからね。

 アルともっと親しくなる。それは私にとって危険すぎる。今ですら命の危機を覚えているのに。


「サヤ……」

 腰に巻き付いているアルの白い尾の拘束が、さらに強まった。

「私の気持ちに気づいているくせに」

 耳元で、恨むような低い声。
 私はぎゅっと体をすくめて目をつぶった。まるで聞こえなかったふりをするかのように。
 まだ駄目だ。まだ受け入れるのは怖い。

 実際、食欲の方はなんとか抑えてくれると思ってる。子どもの頃だってアルはそれを上手くやっていたのだ。大人になった今、出来ないはずはない。
 けれどもう一方の欲求の方は……?

「いつまでも我慢は出来ない」

 独り言かと思うほど小さくアルがささやいた。
 わかってる。わかってるけど……。

 アルの気持ちに応えたい気持ちと、恐怖。その二つが私の中でせめぎあっている。アルが私と同じ弱いニンゲンの雄だったら、こういう恐怖はなかったんだろうか。
 でも今さらアル以外の人を好きになれそうもないから、それは考えるだけ無駄かも。

 ちらり。涙目で恐る恐るアルを見上げてみると、彼もじっとこっちを見ていた。
 しばし見つめ合っていると、やがてアルが降参する。ため息をついて、顔を背けた。頭痛がするみたいに、片手で額の辺りを覆っている。
 しかしアルの雰囲気は柔らかくなった。ギラギラしたものが消えたのが分かり、ホッとする。

「我慢は出来ないと言っているのに、上目遣いとか……」
「ご、ごめんね」

 上目遣いは仕方がない。身長差があるんだから。
 アルは諦めたかのようにもう一度ため息をつくと、気を取り直して言った。

「帰りましょうか。サヤも疲れているでしょう」
「うん……」

 私は頷きを返した。
 欲を隠し、優しい幼なじみに戻ったアルと手を繋ぎながら歩き出す。

 今日もまた、彼に助けられた。
 アルは小さい頃から、何度も私の命を救ってくれている。

 ——しかしそれと同時に、彼は常に私を狙っているのだ。

 私を守りたいけれど、それと同じくらい襲いたい。食べてしまいたい。
 矛盾するけど、それがアルの本当の気持ちだと思う。

「お腹すいちゃった」

 なんとなく無言でいるのが気まずくて、歩きながらふと感じた事を口に出してみた。しかしこの話題はあんまりよろしくなかったかも。アルの返事を聞いてそう思った。

「私も空いています。もうずっと昔から、飢餓感は消える事が無い」

 話を蒸し返してどうする。私は大人しく口をつぐんだ。
 アルが低く笑って、話題を変えてくれる。

「抱きかかえてもよろしいですか? サヤの歩調に合わせていたら、A地区に戻るのに数日かかってしまいます」
「あ、ごめん。お願いします」
「喜んで」

 もう一度、穏やかにアルが笑う。
 そして私を抱き上げると、彼は闇の中を駆け出した。その走りはなめらかで振動はほとんど無い。けれど顔に当たる風圧から、かなりのスピードが出ている事は分かる。しかしこれでも、まだ本気で走ってはいないのだろう。

 私はアルの肩に頬を寄せ、そっと瞳を閉じた。
 アルは私にとって一番信頼できる人であり、そして一番危険な人でもある。

 大好きで、すごく怖い。

 矛盾するけど、それが私の本当の気持ちだ。

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