弐拾:明黄暁光
城砦の狭間、夕闇が包み始める。阿宮は街を振り向いた。
端末は沈黙していた。電灰が停止してから既に三時間は経過している。港湾部の停電は未だ復旧しない。
数時間もすれば国境近くで火の手が上がる――阿宮が作り上げた"亡霊"は、しばらくネットを蝕む存在となりうる。
北宋中華――この国で生まれ育った阿宮は、他の二等以下の国民と同等の存在だった。日本人ということで、いくらか優遇されていたが、それも変わらない。環境負荷物質を分解する、生体素子が供給されるかされないかの差。
ここを出れば全てが終わる――にわかにほくそ笑んだ。ようやく、この街と決別するのだ。城砦と、灰。不愉快なもの全てと。
まだ見ぬ祖国、そこで研究を続けることは約束されていた。組織に使われる毎日から、抜け出すことが出来る。
郊外に足を踏み入れた。朽ちた建物、ショッピングモールの跡。錆びた看板に、漢語に混ざって仮名文字が記されている。彼らとの待ち合わせ――阿宮を、祖国へと導くものたちとの約束の場所。ケースを提げる――最後の生体素子。
ふいに、銃声が響いた。甲高く。
胸元が、ぐっしょりと濡れているのに気づく。生温い、赤が照り映える。生臭さが鼻をついた。
膝から下が消失したような心地――落下――地面が近くなる。倒れる瞬間、ケースの中身が路上にばら撒かれた。
手を伸ばす――かすかな希望が手の中から零れ落ちてゆく気分。それと同時に、果てない虚無を抱くような心地がした。
黒服の男が近づいて来た。まだ硝煙が棚引く銃が、右手に握られている。男が生体素子を拾い上げた。阿宮の方には目を向ける事はない。
阿宮、ゆっくりと頭をもたげた。
男の姿、その先で、白い影が浮かんだ。少女の姿――翡翠色の瞳が見据えた。
"亡霊"。サイバー化を施さない、生身の体には決して見えるはずのない虚像。そもそも、電灰は既に消えている。ならば幻。
「楽しいかい、そこで見ていて」
精一杯の強がり――血の唾を吐いた。
立ち上がる。
「平坦な道はないものだな、夢を見させてもらったよ」
懐に手を伸ばす。護身用の短針銃、頼りがいのない唯一の武装。
「畜生が」
立ち上がる。銃を向ける、引鉄を引く。
男が振り向いた。銃火が瞬く――薬莢が落ちる音。銃撃と共に迎える意識の終焉。
朝靄が掛かる――城砦の輪郭が滲んでいた。灰色にうねる空、手を翳す。繋ぎ合わせた機械指。握る――動きがぎこちない。
ポケットから端末を取り出す――相当苦労してボタンを押した。
『着いたか』
受話口から、黄昌日の声。しばらく、沈黙。次に何を言うべきか、迷っていた。何かを伝えることに、臆病になっているかのように、言葉が出て来ない。
『電灰は、消えているか』
発したのは、黄昌日だった。
「ああ」
網膜から消えた、視覚情報――電灰網は未だ、沈黙を保ったままだった。
『今回は相当なものだ。だが、だからといってお前への追撃の手は緩められたわけではない』
「そうだろうな。だが、もうそれも良い」
『そうか』
噛み合わない会話。それでも、黄昌日は奥底では分かっていると、確信した。語る事なく、知ることもある。
『港へ行けば、ボートがある。既に行き先は入力してある。朝鮮半島の平安北道に、な』
「そうか」
多くは語らない。それでも構わない気がした。語る事など、誰も望んでいないのだと。だから、ここで終いにする。それこそが相応しい。
「じゃあな、黄昌日よ」
『ああ』
最後の声――いつも通り。何の変化も無い。
電話を切った。
潮風が香る――港湾の入り口。背後に、企業のビル群があった。黒々とした環境建築。この街に来て、最初に足を踏み入れた場所。二度と戻らない。
端末を仕舞った。
「それで」
李聖鬼は振り向いた。
「いつまでそこにいる」
霞の中に、人影があった。その人物が歩み寄る。輪郭がはっきりして、やがて毛蘭の姿になった。
杖を、ついていた。左半身を引きずり、不自由そうに歩いている。毛蘭の顔面――蚯蚓腫れが斜めに走っていた。
「"亡霊"にやられたか」
「情け無いことにね。接触したら、あたしの方が取りこまれちゃった。神経ごとリンクして、痛みを共有してね」
毛蘭、やおら白衣の内ポケットから銃を取り出した。回転式――相当に古いタイプ。
「過去もね。朴水晶と、あんたのことも」
「覗き見とは、趣味が悪い」
「しょうがないでしょ、あの子が見せたんだから」
銃を、突きつけた。銃口の先に、李聖鬼の心臓がある。
「漢電子は」
と、撃鉄を起こした。
「ユビキタス事業から完全に手を引くことになった。電灰は完全に潰え、今は北京が代替システムを開発中。それまで、組織は一時的に活動休止となる。武装警察も国境警備に乗り出して、あんた一人に人を割けないんだって」
「それで、お前が派遣されたってのか」
「気が進まないけどね。銃なんて、何十年振りかわからないし」
狙いを定められた。李聖鬼は動かない。銃口と、正面から向きあう。
「いつ、知ったの」
毛蘭が訊くのへ、李聖鬼はつと、視線を上向けた。
「五年前に。ある筋からの情報でな」
遠い記憶の糸――忘れ去るためだけに存在する過去を思った。
「国を失った流れものに残された道など、ただ身体を切り売りされるか、あるいは武人にされるかのどちらかしかない。俺は後者だったが、水晶は前者だった。故郷で果てた後、水晶の細胞のみが仲買人を介して取り引きされた――セクサロイドに使われていた、ということを知った。ヒト由来の遺伝情報を基に構成された、有機ガイノイドシリーズ。その最後の一体が玲花だと」
黄昌日の情報――朝鮮に関する噂は、嫌でも耳に入ってきた。全てにおいて、盲目であり続けることなど出来ないように、水晶の情報もまた無条件で受け容れていた。
「なるほどね。玲花とかいうあのガイノイドを抱く事で、あんたは朴水晶を重ね合わせていたわけね」
嘆息して言った。
「どうかしている。ガイノイド一体に、必死になって。馬鹿じゃないの」
毛蘭の手――銃口が微かに震えている。躊躇いの色が、瞳に浮かんでいた。
「俺は、水晶の言うように生きようと決めただけだ。今まで、そうすることが出来なかった。出来ない自分から、目を逸らしてきた」
「だからって、何でガイノイドに。あんなの、ただの機械じゃない」
「あいつは、俺の故郷を見たいと言った」
李聖鬼、体を傾ける。包帯を巻いた右腕をさすった。
「そいつを叶えるというの? 数式が出した気まぐれの願望のために、あんたはここを出るのか。命をかけるに、値するものなのかよ」
「価値などない」
告げる――厳然たる事実かのように。
「俺には、最初から賭けるようなものは存在しない。あるならば、それはあのとき潰えた。燃え滓のような状態で生きて、空の器を満たすものなどなく、朽ちることもない無機に近づけていた。自分を」
毛蘭――弱々しく、首を振る。否定を表すものか、あるいは自分が抱いた迷いを振り払うためのものか。唇を噛んで、痛みに堪えているかのような印象。
「ただ、まだ価値があるというならば……あいつの望みを叶えることで、少しの間でも水晶の言うように、生きることが出来れば、それが俺自身に残された唯一のものだろう。だから」
「動くなよ」
毛蘭――顔を上げる。警告を発した。
「水銀弾だ、こんな銃でもあんたを殺すことはできるよ」
銃口の振れが大きくなる。戸惑いの表情。李聖鬼は銃を見据えた。
「ここを出て、自分の価値を確かめたいというの。誰かに褒めてもらえるとでも思っているのかよ。願望を叶えようが、そんなのあんたの一人よがりだよ。結局あんた、朴水晶と細胞を共有するあのガイノイドを自分のものにしたいだけだろう。朴水晶を独占できなかったから」
そして沈黙――李聖鬼は街を仰ぎ見た。環境建築とパネル群、灰色と群青の空間を背景に。電灰の消えた都市は、何ごとにも上書きされない、褪せた色を以って在り続ける。
「お前はここまででいい」
毛蘭の表情を見る――苦痛をはらんだ色。
「あいつが俺のものだと思ったことはない。だが、重ねていないかと言われれば嘘になる。だから、完全に決別する必要がある。それを今から成しに行く。弱さゆえに、目を塞いできたその代償を払いに。だがお前は違う。それを撃てば、今までどおりだ。報いを受けるのは、俺一人でいいんだよ」
歩き出した。
「行くなよ、李聖鬼」
毛蘭の声。
「行かないでよ……あんたを、殺させないでくれ」
悲痛な響きを伴う、毛蘭の声。止まらない。二度と、振り向かなかった。
乾いた銃声。
波の音が、した。コンクリの埠頭に、濃緑のAIボートが停まっている。軍用の揚陸艇――苦笑する。
船上に、玲花がいた。
青い漢服。潰れた左眼に、包帯を巻いていた。硝子の輪郭、金糸を編みこんだ髪がなびく。そこに在るだけで、崩れ去りそうな線を以って。
「玲花」
呼びかける。玲花が笑いかけた。
「待たせたな。少し、手間取ってしまった」
乗り込み、エンジンをかける――炎が灯る、感触。
行き先――黄海を経由し、朝鮮半島に至る。平安北道。遠い昔に棄てた故郷。朴水晶が眠る場所へ。
傷が疼いた。銃創を中心に強張る感覚。毒が、体を駆け巡る。歯を食いしばった。生温い血が、背中を濡らした。
船が離れ、青島の環境建築群が遠ざかる。機首は東へと進路を取った。
山東半島の南を通る。湾を離れた。
やがて黄海に至り、その先の西朝鮮湾に進路を取った。ここからは、直線距離。あと一時間ほどで着く――安堵から、力が抜けた。李聖鬼は座りこんだ。
足の感覚が無くなってきた。身体は、限界を訴えていた。神経を麻痺する毒。
「ねえ、聖鬼の故郷ってどんなところなの?」
玲花が訊いてくる――子供のような無邪気さ。好奇心に、眼を輝かせる。辛うじて動く人工操作手で、玲花の頭を撫でた。
「別にどうってことはない。何にもないところだ」
神経が痺れた。手を下ろす。
「特に見るべきものも、珍しいものもない。貧しい山村、そんなところでも、人にはいつかそこに帰るべきところがある。唯一、与えられた安らげる場所……」
視界がぼやけてくる。ひどく眠い。それでも、苦痛は襲っては来なかった。
ふと見ると、東の空から金色の光が差してきた。朝日――青島にいたときには、目にすることがなかった、陽の光だった。
あれが本来の、世界の色なのだ、と思った。黒と灰色の城砦、電灰やホログラムのどぎつい原色。ナノマシンの灰や汚染物質とは無縁の世界――古来、人は太陽と共にあったという、あの街では伝説にすらなっていた話も本当のことだと思える。
人は、そうやって生きて、死んでいくのだという実感があった。晴れ渡る空が、頬を撫でる微風が心地よい。
「玲花、いつか歌ってくれたよな。あれを、もう一度歌ってくれないか」
ふと、口にした。
「え、でも電灰はもう……」
「電灰じゃない。お前の歌だ、お前に歌って欲しい」
永遠に届かなくなる、その前に。
玲花はちょっと戸惑っているようだった。視線を宙に漂わせ、思案顔になって言った。
「この間と、同じでいいなら……」
息継ぎ。少女の喉が震えた。
静かな歌だった。感情を揺さぶるのではない。訴えかけることもなく、聴き手が安らかなるために在る歌。無数の音が一つに紡がれ、精緻な旋律を生み出す。身体を蝕む毒を忘れさせるほど、快く響く。織りこまれる詞――声が溶ける、染み入ってくる。
ここではないどこかへ行く、という意味だった。寒く暗い世界を抜け出して、いつか同じ所へ――
曖昧な意識の中、水晶の声が蘇っていた。誰かに優しく、という言葉。
俺はそこに近づけたのだろうか――繰り返される問い。答えは得られない。
それでも――価値を見出したもの。それを信じる事は、決して消える事はないという――予感めいたものがあった。確かに在る、空白を埋めるもの――それが全てだという思いを抱く。
揺れる、波間にいた。眼を閉じると、瞼の裏に淡い光があった。金色の暁光。
消失する感覚。手を伸ばす、空を掴む――地面に落ちる。
遠ざかる声。李聖鬼は眠りについた。
参考文献
『ポスト・ヒューマン誕生』 レイ・カーツワイル NHK出版
『サイボーグ・フィロソフィー』 高橋透 NTT出版
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