弐:青島哀愁
青島上空を漂う灰色の雲が白みはじめたころ、ようやく夜明けを知る。スモッグが太陽光を遮る、街の片隅で、李聖鬼は目覚めた。
港湾からそれほど離れていない、北方の居住区。資本家たちが逃げた後の、老朽化した鉄筋の共同住宅。李聖鬼の住いだった。
黴臭いシーツから半身を起こして、薄く瞼を開けた。
窓の外を見やる。城砦の構造物体が連なっていた。スラムの共同住宅が濃い霧の中に佇んで、褪せた城壁と剥き出しの鉄骨が天を突き上げる。住宅の屋上には、骨格にも似たアンテナが林立していた。
その向こう――港湾部には企業のビルが、黒々とした外壁を伴い密集している。北宋中華随一と呼ばれる商業都市、青島。環境建築の多層型建築物の中で、中央の尖塔が頭一つ飛び出ている。天頂から放たれる、不可視の電波が街を覆う図を想像した。
李聖鬼は飛び起きた。顔を洗い、完全に覚醒した後、剛性繊維の道衣に着替えた。部屋の中央に佇む。網膜に、光が差した。
電灰網――この街ではそう呼ばれる。ネットワークであり、またサービスそのものでもある。膚に下に息づく生体素子がネットを捉え、網膜に導入した高分子のミクロのスクリーンに映し出す――現実に仮想が侵襲した、ユビキタステクノロジーの代表格。この国の人間は目覚めとともに、電灰から流れる情報が無造作に網膜に投影され、ビット信号の瞬きを常に瞼に張りつける。ウェブニュース、掲示板――電灰が提供するものは、そうした二次的なものに留まらない。
空中に、いくつものアイコンが並んでいた。これも、そこに実際にあるわけではない、仮想のものである。存在し得ないものを、電灰網は忠実に、視神経に再現する。李聖鬼は、そのうちの一つを指で押さえた。点打する動作も、傍から見れば何も無い空中に指差しているに過ぎない。腕の神経が動きをトレースし、分子コンピュータが処理をする。あたかも、実際に「そう」したかのように、網膜の画面ではウィンドウが開く。
目の前に――正確には電灰上に、男の姿をしたグラフィックが立った。体格は李聖鬼より、やや背が高い。青白いホログラムのそれに、徐々に色がついた。体の色が、褐色を帯びた黄色になり、黒っぽい功夫服が現出される。膚の質感、黒い髪。実物であるかのように細胞から忠実に再現された、グラフィックのドット表面。生身の人間のそれであるかのように生気を帯びてくる。
電灰の見せる仮想現実――擬似人体が、李聖鬼の一歩手前に立った。
ヒトのDNA情報をトレースしたコピー臓器の技術は、医療からの転用技術だ。塩基コンピュータにデジタル化された遺伝情報を取り込み、DNAの相補性、そこから成る細胞ひとつひとつを構築する。医者達はグラフィックの臓器を用いて、再生医療のシミュレーションを行う――擬似人体は、人の表層部分をコピーしたものだ。
〈電駆体〉はヒトの表皮、筋肉を模した幻影、だがそれで事足りる。電灰網が提供するグラフィックは、実物同様の現実感を持たせる。
男の姿をした〈電駆体〉が恭しく拝礼し――この動きもまた、いちいち細かい――後ろに一歩、退いた。右半身に掌を突き出し、腰を落とした。低い体勢の、八極拳の構え。李聖鬼は左半身に構え、距離を取った。
両者とも対峙したまま動かない。〈電駆体〉がにじり寄り、李聖鬼は拳を握りこんだ。
動き出しは、同時だった。〈電駆体〉が低い体勢で突進してくる。李聖鬼は左足を踏み込んだ。廻し蹴り。〈電駆体〉は右腕で空間を薙ぎ、蹴り足を受け流す。
李聖鬼の体勢が崩れたところへ、右肘を叩きこんだ。体ごと打ち込む、献肘。腹に当たり、途端、電流を浴びせたような痺れが伝播した。〈電駆体〉は実体を持たないため、打たれたところで何という事は無い。ただし、打撃を受けた、あるいは打撃を浴びせたということが分かるよう、神経組織に対して一定のパルスを送り込む。何かに触れれば、その触れた感覚までリアルに再現され、脳にそこに何かがあると錯覚させる。電灰からダウンロードする遊戯は大した刺激を与えないが、こと訓練用プログラムとなればそれなりのダメージをくれる。
痺れが消えるのを待たずに、体勢を立て直した。間合いを取り、直立に構えた。〈電駆体〉が突進してくる。李聖鬼は顔面目がけ、右脚で前蹴りを打った。〈電駆体〉は身を屈め蹴りを避ける、と同時に突進し、左拳で突いてきた。
李聖鬼は突きを右手で打ち落とし、中段廻し蹴りを打った。脛に衝撃を感じ、〈電駆体〉の顔面が弾け飛んだ。蹴った脚をさらにかい込み、高く振り上げる。天井を突くように、右脚を伸ばした。
相手が身構えるよりも早く、一気に振り下ろした。
〈電駆体〉の脳天に、左の踵が突き刺さった。脚に痺れを感じ、それが〈電駆体〉の頭を正確に捉えた事を示していた。〈電駆体〉のグラフィックが消え、背後の薄汚れた壁が蘇った。そこで李聖鬼はようやく構えを解いた。全身が汗に濡れていたが、疲労は感じない。幻影は実際の人間の動きを模してはいるものの、実際の人間を相手にするのとは違う。少なくともグラフィックの人形からは、殺気や気迫というものは発せられない。サンドバッグに打ち込むようなものだ。
道衣を脱ぎ捨て、シャワーを浴びて汗を流した。服を着て、レザーグローブを身につける。壁に掛けた他関節ハーネスを身に纏った。ハーネスには牙狗と、替えの弾倉が各所に取り付けられていた。銃は両脇に位置し、革のベルトで固定されている。ハーネスをタイトに締め付け、コートを羽織った。剛性繊維で編まれたコートは、漆黒に塗られている。コートだけでなく、身につけるもの全てが、深い宵闇の色をしていた。
葬儀屋のようだ――と言われたことがある。葬儀屋、言いえて妙だ。ただ、自分のすることは死者を生み出すことである。送り出すものの気持ちなど、一生分からないと思われた。
軋む扉を開き、外に出た。
通りに出ると、黒っぽい粉が、空気に混ざって浮遊しているのが見えた。
環境負荷物質を駆逐する有機ナノマシンの残骸――時折降る、黒い灰。「大内乱」の残した爪痕――紛争で使用された化学兵器の残滓が、二十年経った今でも空気中を漂い、健康被害を引き起こす。空気中で化学物質を吸着し、灰となって降る。中原では良く見られる現象だ。ナノマシンの散布状況を電灰のウェブニュースで確認するのも、この街の人々の日課になっていた。
降りしきる残骸に目を眇め、共同住宅の群、建築物を見上げた。切り取られた空に厚い雲が覆い、太陽を完全に隠している。スモッグの層からは、わずかに光が洩れる程度であった。この街に、まともに日の光が差し込んだところを、李聖鬼は見た事がない。十年前、この国に流れ着いたときからずっとだ。
陽光は閉ざされたまま、それが青島であり、それが街の色である。灰色の空、ナノマシンの残骸。空洞化した都市に鉄の骸が林立する。城砦は、語る事を忘れた墓標のように思えた。
大通りを外れ、入り組んだ路地に入ると、城砦から落ちる影が濃くなった。やがて古ぼけたバーの前で立ち止まった。資本家連中は決して足を運ばない、民工や二等市民を相手にした盛り場。まとまった金は無いが日々の生活費から飲み代くらいは捻出できる、という身分のものが集まる場所。
中に入る。
寂れた雰囲気の店内には、誰もいない。まだ開店前だった。カウンター席に、灰色の格好をした男が一人、座っているのみだった。
李聖鬼は男の隣に座った。
「この間はご活躍だったようだな、李聖鬼」
首をもたげず、目だけで隣を見やる。灰色の格好をした男は、つばの広い帽子を目深にかぶっていた。顔は、伺えない。
「そいつはどういう皮肉だ?」
「皮肉ではない。実際、お前が始末した男、薬の元締めとなっていた。老大も喜ぶ」
顔も見た事も無い、命令だけを下す存在――組織の長は、老大と呼ばれる。本名は誰も知らないし、知りたいとも思わない。ただ組織に君臨するものとしての称号として、老大という号を用いている。この男は老大の言葉を、正しく伝える、そういう役割を持っている。
「紹興酒」
と告げると、仏頂面の主が目の前に、グラスを置いた。褐色の膚には、マザーボードの回路にも似た文様が浮かび上がっている。手の甲には不自然な、四角形の傷痕があった。汚染された血液を清浄に保つ、バイオセンサーとしてのタグが埋め込んである。DNAタグを埋め込めるような身分は限られている。二等市民以下は旧型の医療素子で我慢するしかない。それすら手に入らないものは、いずれ化学物質に侵され、死んでゆく。
「それで、俺を呼び出したのは」
男が青島ビールに口をつけたとき、切り出した。
「世間話するために、というわけではなかろうに」
「察しが良いことだな」
男は懐から煙草を取り出し、火をつけた。古い銘柄の"成海"の、強い刺激の香りが漂った。
「何百回と同じ試行を繰り返せば、誰だって慣れる」
一杯目の酒は一息で飲み干すのが、李聖鬼の流儀だった。酒を煽り、グラスを空にした。いくら飲んだところで、酔わない。肝臓のナノマシンがアルコールを瞬時に分解してしまう。
男は紙幣を取り出した。古い元通貨。北宋中華の初代主席の顔が、印刷されている。カウンターに置かれた。李聖鬼は黙って受け取った。
丸められた紙幣の中に、記憶メモリが納まっていた。指の先に乗るほどのサイズだ。これでも、最新の生体素子に比べれば随分大型な方である。
「マフィアも高度に武装をしてきてな。政府の手にも、段々と余るようになってきた。江南政府の後押しがあるんだろうが……」
男がそう、溜息混じりに言った。
北宋と境を接し、南京を首都とする江南国民政府。大内乱で成立した軍閥政府の中では、特別強力というものではない。ただ、江南の政府はEUとの繋がりを密にしていた。紛争における、武人たちの改造は殆どが欧州の企業によるものとされる。
「"亡霊"の噂を聞いた事あるか?」
男が切り出すのに、李聖鬼は二杯目の紹興酒に口をつけていた。
「"亡霊"?」
「電灰に介在するバグのことだ。数年前に、漢電子が電灰網を構築した時から、仮想現実の中に必要の無いグラフィックが混ざることは良くあった」
男はまた、ビールを口に含んだ。
電灰のシステムを構築した企業――漢電子。青島に居を構える漢電子は、ここ五、六年のうちに世界的企業にまで急成長した。北宋中華独自のネットワークを構築したのも、漢電子である。それが、電灰という呼称で人々の間に定着していた。
「バグなんて、システム管理者が取り除くことだろう」
「"亡霊"は少し違う。確かに、ネットに紛れるバグなんてものは直ぐに取り除ける。信号の受信不良、サーバーの不具合、誰かが残したメッセージ。だが、このバグは違う。最初は小さなものだった。電灰が見せる仮想現実、そこに写りこむノイズのようなもの。ただ、それは徐々に人の姿を帯びた。それだけならば良かったがな、そいつは意思を持っているかのように見る者を惑わすようになった……」
ただのグラフィックの、一体何に脅威を感じているのか。そう、問い詰める。男は答えず、
「詳しい事は、そこにある」
そう言って、李聖鬼の手にあるメモリを指し示した。
「お前達は、"亡霊"を排除する。それが、与えられた使命だ」
「それはいいが、組織がやることなのか。もっと、設備の整ったところでやれば良いだろう。大体、そういう事はハッカーの仕事であって、武人のやることでは」
「ハッカーだけではない。北京は、この"亡霊"の出処は南のマフィアだと断定している。発信元を探り、南人たちを一網打尽にする――そういうことだ」
「南人、か」
江南に住むものを、この国の住人は「南人」と呼ぶ。純然たる漢民族に対し、夷狄であることを明らかにするために。漢人や南人の別など無きに等しい。「中華」の名を冠するか否か、それが両者を分けるための唯一のものだ。
「山東には、南からの侵入者が多いからな。組織は、国境を重点的に攻めるつもりだ。南人どもに、好き勝手はさせないという狙いだ」
刺々しい、響きのある声だった。背中がささくれるようだった。砂を食むような不快感。体内に浸されてゆく。こみ上げてくる吐き気を、最後の酒と共に飲み下した。
「李聖鬼」
男が席を立ち、言った。
「まだ、十年前の傷は痛むのか?」
それを聞いた瞬間、李聖鬼の中で何かが弾けた。内なる衝動が突き上げ、反射的に立ち上がっていた。いまにも、男に掴みかからん勢いで。
「おっと、こいつは失言だったかな」
男は悠然と腰掛けたままだった。この男は分かっているのだ。李聖鬼が、決して手出しが出来無いことを。
――狗
朝鮮人の男が、最後に言ったことが思いだされた。
男が卓のセンサーに、掌を翳した。皮膚の生体素子を照合し、銀行から振り込まれるシステム――機器に導入されたチップが相互に干渉し合い、情報を交わす。電灰に飛び交うビット信号は人のみならず、人と機器を繋ぐものでもある。
「あまり余計な事を言うなよ」
男が席を立ち、
「まあとにかく、しっかりとやることだな」
そう言い残して、店を出た。
気づけばグラスを強く握り締めていた。硝子が砕け、掌から血が滲んだ。
席を立った。
+注意+
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