その人の言葉は、いつだって僕の心にするりと入り込む。無遠慮に、だけど優しく、柔らかく。
その声も、口調も、音量も、全てが図ったように耳に心地良い。
「幸斗、一緒に住んじゃおっか?」
グラスの底に残ったカクテルを飲み干してから、アルコールでほんのりと上気した頬に楽しそうな笑顔で、そう告げられた。
本来なら嬉しい場面なのだけど「言ってろ」と、冷たくあしらう。そんな事はありえないから、見える意図や落ちが想像出来てしまうから。
由海は、笑顔のままジト目で睨んでから、あからさまに気落ちした顔をして、ため息混じりに「家事って面倒だよね」と、呟いた。
「それだけが理由だもんな、お前の場合」
ため息を吐きたいのも、気落ちしているのも僕の方だというのに。
「転職したいなぁ」
「またか」
「だから〜、給料安すぎるんだって」
アルコールが回ってきたのか、もう何度目かの話のループに苦笑いする。
ま、それは構わない、いつも話の中身なんて有って無い様なモノだし。
要は、会話するという行為自体が目的。
「まだ、何か飲むか?」
ちょっと年齢不肖なマスターが、軽く笑いながら、目の前の空いたグラスを下げてくれた。
こんなのも、もうすっかり見慣れた光景になってしまったんだろう。
お互いの職場からそう遠くなく、しかもこんなにも良い感じの店だから、常連になるのにはそう時間が掛かりはしなかった。マスターの孝之さんとは、既に顔馴染みだ。年の離れた兄貴みたいな感じで、飲みすぎたりしてお世話になることも結構あったりする……主に由海が。
「ウイスキー、ロックで」
「おんなじのを」
砕かれた氷、注がれる液体、その一連の動作を、ちょっと手持ち無沙汰な気持ちで眺める。途切れた言葉、流れていく洋楽のピアノの旋律と歌声が、急に大きくなった気がした。
「はいよ、お待ちどうさま」
大きな氷を中心に、七割まで満たされた二つのグラスを置くと、マスターは別の客の注文で、そっちに行ってしまった。
すぐに口を付ける気にはなれず、隣の様子を窺う。氷が溶け出して、琥珀色のウイスキーと混ざり合う二つの緩衝層、その揺らめきを見つめている瞳。グラスを見詰める由海の横顔を、なんとなく見ていた。
「何?」
視線に気付いた由海が、顔をこちらに向ける。
「いや……本当に変わらないな、と思って。中身も外見も、中学の頃のままだ。その延長線上……って程でも無いか、あの頃の数日後が今の姿みたいだ」
過去とダブって見えるその姿は、変わってしまったのが僕だけの様な気にさせて、少し複雑な気持ちにさせる。
懐かしい?
寂しい?
嬉しい?
悲しい?
上手く言葉には、なりそうにない。
「なんだとう、それはアタシがガキだってか?」
しんみりしている心持ちなんて気付きもしないで、そんな風に少しふてくされているその姿は、それでもどこか可愛気があって、ちょっと可笑しかった。
「あー……ほら、愛情表現だって、ずっと変わらずに可愛いなー、って」
ちょっと嫌味っぽく皮肉ってみたら「やっぱりぃ? アタシ可愛いからなぁ」なんて、分かっていながらも、敢えて気付いていないふりして、由海は言い返して来た。
それを聞いて呆れ顔で「単純」と、僕は言う。
「言ったでしょ、ポジティブにとるからねって。それがアタシの良い所」
屈託無く笑うその顔が眩しくて「ま、悪くはないさ」と、視線を外した。
楽しい時間の中、それでも小さな傷が、僕に囁く。
どうせ彼女の一番にはなれない、と。
彼女の薬指のリングと、時々話題に上がる彼氏の存在。
それらが、いつも僕に影を落とす。
傍に居られる時間は嬉しいのに、独りにもどれば更に深い寂しさが襲ってくる。
「そろそろ時間か」
振動した携帯を取り出し、ディスプレイの時間を確認してからポケットに戻す。
「帰る?」
「ああ、お前はどうする?」
生き物相手の研究職は、その対象の都合に合わせないといけないので、決まった時間を仕事するのではなく、日によって朝方や夜型に変化する。そして明日は早朝からの実験、部屋に戻って、軽く寝てから出勤するつもり。
「もう少し居るよ」
ウイスキーのグラスを、カラカラと音を立てて回しながら、由海はそう答えた。
「孝之さん、こいつには――」
カウンターにいる孝之さんに、酒はもう出さないでと言おうとしたら「分かってるよ、任せてくれ」と口を開く前に返された。
「それじゃ、会計」
ドアの横、カウンターの端につけられたレジの前に立つ。
「あ、アタシの奢りで良いよ」
頬杖をついた由海が、顔を上げてそう言った。
「無理するな。と、言ってもこっちも奢れないし……割りかんで、な」
千円札を数枚渡して、お釣りの小銭を受け取る。
「幸斗」
背を向けて三歩踏み出した時、聞こえてきた声。
「ん?」
肩越しに振り向いて、視線が合わさる。
そんな風に正面から見つめられると、少しだけ心がざわつく。
どうしようもない、そんな事は分かっている。
それでも、いい。
男女の関係の最上級に恋愛だけが位置しているって訳じゃない、こんな風にでも良い関係は築いていける……築けているのだから。
「アタシの事、好きだろ」
今日の最後に悪戯っ子の顔をした由海が、楽しそうにそう言った。
落ち着こうとしていたのに、そのあんまりな言葉に息を呑んで、数秒時間が止まる。
だけど、変わらない由海の表情に、強張った空気は徐々に溶けていってしまう。
だから僕は「世界で一番……大っ嫌いだよ」と、苦笑いで手を振った。
少しだけ寂しそうな顔をしてから、無垢に笑う由海はとても綺麗で、きっとこれからもこの笑顔には逆らえないな、と独り思う。
今日もゆっくりと流れていった二人の時間は、とても大切で、とても残酷で、とても優しかった。
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