第7話:捕われたアル
材料をグリンの元に届けたアルは二階に上がった。被っていたフードを脱ぎ、換気するために開けていた窓を閉め、その後再び一階に下りていった。
下に降りると、そこには焼きたてのパンをバスケットに入れて運ぶグリンの姿があった。
「お使いご苦労様アルちゃん」
「いえ、これくらいできて当然です。私ももう『子供』じゃありませんし」
労うグリンにアルはさも当然のように答える。やたらと「子供」という部分を強調しているが、本人は子供扱いされるのがよほど嫌なのだろう。
「そうなの? せっかくお使いに行ってくれたお礼に焼きたてのクッキーを食べてもらおうと思ったのに……。子供じゃないのならアルちゃんはいらないわね」
アルが反応する事を分かっていてあえてグリンは挑発的な態度をとる。実は、アルは甘いものが好きなのだ。
「そ、そうですね。私は子供じゃないので、そんな……甘いものなんて……」
フィードがこの場にいたのなら「お前なに変な意地張ってるんだよ。いつも食べてるだろ」と突っ込みを入れ、あとでアルに怒られることになるのだが、当の本人は今ここにいないため、話が進まない。
グリンもアルが甘いものを食べるのが好きだと分かってやっている。元々帰ってきたアルとグリンの二人で食べようと思ってクッキーを焼いていたのだ。ここでアルが意地を張り続けて食べないなんていうことになると、グリン一人で全て食べるには少々量が多いため、食事を取りにきた宿泊客にサービスとして出す事になってしまう。さすがにそれはもったいないかなと思っているグリンなので、結局今回はアルが折れることで話は終わるのだ。
そのアルはというと、甘いものを我慢する「大人」というプライドと、好きなものを好きなだけ食べたいという「子供」との二つの間で激しく心が揺れ動いていた。
(くっ! グリンさんは私が甘いものが好きだと知っているはずなのに……。いえ、知っているからこそ、こんな風に意地の悪いことをするのですね)
グリンの精神攻撃に必死に耐えていたアルだったが、厨房にある釜から漂うクッキーの甘い香りを嗅ぎ、とうとう折れてしまった。
「食べます。クッキー食べます……」
自分が必死に強調していた「大人」の面をあっさりと覆されて悔しいのか、アルはプルプルと小刻みに肩を震わせていた。そんなアルの様子が面白いのか、グリンは口元を抑えて必死に笑いを堪えていた。
「まあまあ。子供は素直が一番よ、アルちゃん」
そう言って皿に大量のクッキーを乗せてアルの元へ持って来る。
「ほら、焼きたてのうちに食べておくれ」
アルは受け取った皿を手に取り、空いている席に座り、甘く香りのよいクッキーをじっと見つめていた。
(むむむ。これはおいしそうです。クッキーの上にうっすらと蜂蜜が塗ってあって、それが香りを更に引き立てています)
おずおずとクッキーに手を伸ばしてクッキーの一つを掴んだアル。ゆっくりとそれを口元に運び、一口。深く味わうように口にしたクッキーの欠片をよく咀嚼し、原型を失ったそれを飲み込む。
「おいしい。おいしい……です」
一口食べてすぐにアルの表情が変わった。パッと表情が明るくなり、次から次へとクッキーを手で掴み、口へと運んで行った。
「おやおや、そんなに急がなくてもクッキーは逃げて行かないよ」
飲み物を取りに厨房の中に入りながら、グリンがアルに注意する。しかし、アルは食べる事に夢中なのか、グリンの声が届いていないようだった。やがて、グリンが持ってきた飲み物を手渡す頃には皿の上には何も残っていなかった。結構な量、そもそもグリンとアルの二人で食べる量だったのだが、結局アル一人で食べてしまった。
グリンが二人分の飲み物を持ってきた事でようやくアルも二人でクッキーを食べるつもりだったということに気がついたアルは、
「すみません……私、一人で食べちゃいました」
意地汚さからの羞恥や、食べる事に夢中だった姿を晒していた事からか、アルは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「いいんだよ。あれだけ喜んで食べてくれたのなら作ったかいがあったってもんだよ。気にしないでおくれ」
「でも、グリンさんも一緒に食べるつもりで作ってくれていたのに」
申し訳ないと思っているのか次第に声の小さくなっていくアルに、
「いいんだよ。私の分はなくなったけどまだ作っていないフィードさんの分が残っているからね」
意地の悪い笑みを浮かべ、グリンはアルの肩を叩いた。それで、アルもグリンの言わんとしている事を理解した。
「はい、マスターには内緒ですね」
親しいものにだけ見せる笑顔でアルは元気よく答えた。女二人だけのお茶会は、穏やかな時間と共に過ぎて行った。
突発的なお茶会を終え、グリンが厨房の奥で溜まっている洗い物を片付け、アルは食事場の掃除をしていた。手にした箒で床に溜まったホコリを隅に追いやり、それを一ヶ所に集める。その後、集めたホコリを外に掃き捨てる。
「これで、一段落です」
自分のやる事を終えて満足そうにするアル。外はもう昼を過ぎているせいか、日射しが更にキツくなっていた。澄み渡った青空が真上に広がり、下町の通りを心地よい風が吹き抜けていた。
(今日もいい天気です。後はマスターが頑張って依頼を片付けてくれれば問題ありません)
穏やかな天候とは打って変わって通りを歩く人の様子はどこかぎこちない。連日の盗賊騒ぎ、特に一昨日の殺人が影響しているのだろう。通りを歩く人々に目を向けていると、アルは視界の端に今朝出会った少年の姿を見つけた。
(あれは……マスターの硬貨袋を持っていた)
少年はじっとこっちを見つめていたが、やがてそっぽを向いて路地裏に向けて歩き出した。
「待って……」
アルは持っていた箒を放り出してすぐさま少年の後を追いかけ始めた。何故、と問われるとアル以外には答えられないだろう。少年がアルを見ていた瞳がどこかもの悲し気で、追いつめられた様子に見えたからだ。
それはかつてアルが叔母の元で生活していて、盗みを働く直前までしていた様子によく似ていた。だからこそ、アルは少年の事が気になり、何を思う訳でもなく、その背を追いかけたのだった。
日の当たらない路地裏を少年は自分の庭を歩くように進んで行く。アルは少年から離されないようにするので精一杯だ。異臭のする路地裏。浮浪者が建物に背をもたれている。アルは得体の知れない恐怖と不安から周りに視線を映さないようにして少年の姿だけを追いかけた。
やがて、路地裏の一角にある古ぼけた建物の中に少年は入って行った。
(ここは、どこでしょう。一体私はどこまで来たんでしょう)
少年を追いかける事だけに集中していたせいか、アルは今自分がどこにいるのかもわからなくなってしまった。唯一道を知っていている少年は目の前にある建物の中に入ってしまい出てこない。
このままここにいてもしょうがないと悟ったアルは、少年の入って行った建物に入る事に決めた。ほとんど錆びている扉に手をかけ、静かに扉を開ける。光の入っていない室内は薄暗くひんやりとした空気が漂っていた。一歩、一歩と足場を確認しながらアルは進んで行く。次第に暗闇に目が慣れてきた。周りを見回して室内の内装を見た限りでは、どうやらここは酒場の跡地のようだった。
不意に部屋の隅で何か動くものをアルは見つけた。先ほどの少年だろうか? そう思って急いで近づく。
「あ、あの!」
いつもより少しだけ大きな声で話しかけるアル。しかし、そこにいたのは先ほどの少年ではなかった。重しのついた鎖に繋がれ、涙で頬を濡らしている少年少女がそこにいた。小汚い衣装に身を包み、破れた衣装から見える肌は殴られたのか青くなっていた。その姿を見てアルはゾッとした。
(これは、これは……。市に出される前の奴隷です)
アルはかつての自分の姿と少年少女たちの姿を重ねる。個人所有の奴隷となる前は、彼らは魔法で刻まれた烙印を押されず、買い手が見つかるまではこのように鎖で繋がれて逃げられないようにさせられるのだ。
(しかし、何故こんなところにこんなに多くの奴隷がいるのですか? これだけ多くの子供がいなくなれば誰か気づくはずなのに)
奴隷自体はこの世界に数多く存在するが、中には奴隷の売り買いを嫌う者もいる。おおっぴらに市場を開く事は品がないとして奴隷を数多く所有する富裕層の間でもあまり好まれていない。そのため、こういった奴隷を売り買いするのは富裕層の家や隠れた場所で開かれる市に参加するという事になる。
そもそも奴隷とは罪を犯したものを金で引き取って奴隷にしたりする例が普通なのである。敗残兵が奴隷になるという例もあるが、全く何をしていないものを連れ去って奴隷にするのは違法として罰せられる。
しかし、バレなければ何も問題がないとのことから、無理矢理人をさらって契約をさせ、自分の奴隷にするということが今までになかったわけではないのだ。
かつてフィードがアルを助けた後にそんな話をしていた。
(少なくとも十人以上の子供がここにいます。これが全員この地で手に入れた奴隷だとするといくら何でも多すぎます。これは絶対に無理矢理連れてきたに違いありません)
見ると、子供たちはアルの姿を見て怯えていた。それは、アルの様子を見て怯えているのではなく、自分を追いつめる相手の仲間だと思い、怯えているのだ。
(どうにかしないといけません。ひとまずここを出て、グリンさんの所へ戻ってマスターに助けを求めれば……)
そこまで考えて入ってきた扉に戻ろうとした時、アルは扉の前に黒い大きな影ができている事に気がついた。
「あっ……」
明らかに自分よりも力があり、強さを持っている存在にアルは身をすくめた。
「おうおう、どうしたんだいお嬢ちゃん。道に迷ってこんなところまで来たのかい? 駄目だなあ俺たちに取って大事な商品を見ちゃあ。これは大事な顧客に売るものなんだから……」
恐怖から身体が震え、カチカチと歯が音を鳴らす。
「あ、ああ……」
思い出すのは暗く、狭い地下牢。あの時はそこまで不安も、恐怖もなかった。失うものがなかったから。しかし、今のアルには失いたくない大切な日常があった。
いつも彼女の傍にいて優しい言葉と温かなぬくもりを与えてくれた青年。憎まれ口を叩きながらも一番信頼を寄せて傍にいてほしいと感じ、暗闇からアルを助け出した救世主。居場所を与えてくれた大好きな相手。だが、今ここに彼の姿はいない。目の前にいるのは帰ってきた暗闇からの使者。
アルに向かって迫る大きな手、それを振り払う勇気も力もないアルは、ただただその場に立ち尽くすしかなかった。そして、アルを掴んだ男の横にいるもう一人の男の姿が目に入った。
「ふむ、少々暗いですね。これじゃあ、新しく入ってきた商品がどのようなものか見えません。明るくするとしましょう」
そう言って男は手のひらを上に向けて魔術の詠唱を始めた。
「天を照らす太陽の欠片。その欠片の欠片を我に与えたまえ――フレア――」
詠唱が終わると男の手に拳一つ分の大きさの小さな火球が現れた。それは暗闇に包まれた部屋の中を照らし出し、今まで見えなかったものを見えるようにした。
アルを掴んでいるのは無精髭を生やし、獣のような髪をたなびかせる無骨な男。そして、その隣にいて部屋を明るくしているのはフードを被り、眼鏡をかけたどこか栄養不足な感じのする細身の男。
「へえ、アルビノの少女とは珍しいですね」
「ん? なんだ、こいつだいぶ変わった容姿だが、やっぱり珍しいのか?」
「ええ、滅多にお目にかかれない突然変異種ですよ。その容姿の珍しさから市場では高値で売れます」
眼鏡を抑え、男が解説をする。
「ほお……そりゃとんだ掘り出しものだ。金の方から俺たちのところにやって来るなんてツイテるな」
「そうですね、どうやってここに辿り着いたのかは分からないですが、見たところ見た目も綺麗ですし、売り物としてはかなりの良品です」
既に男二人のアルを見る目は物扱いになっていた。二人の頭ではアルがいくらで売れるのかという考えしか、もうないのだろう。
「ゲード様」
と暗闇の奥から新しい声がした。
「ん? なんだ、イオか。仕事もしないで、お前はなにをやってるんだ」
暗闇から姿を現したのはアルがずっと追いかけていた少年だった。
「いえ、仕事は今からするつもりです。ですが、契約の確認をと思いまして」
少年は凛とした姿でゲードと呼ばれた無骨な男の前に立っていた。
「おお、そのことか。心配するな、この件が上手くいったらお前を自由の身にしてやろう。契約どおりにな」
その言葉を聞いて暗く沈んでいた少年の瞳に火が灯る。
「わかりました、その言葉を信じます。では、今から仕事にいきます」
「ああ、せいぜい町の奴らの注目をそっちに向けておけよ」
少年はそう言い残して外へと出て行った。ただ、扉を出る直前、一瞬だけアルに哀れみとも似つかない視線を向けた。
「さて、こいつはどうするか」
「そうですね、ひとまず他の奴隷候補と一緒に鎖につないでおくのがいいでしょう。どうせ何もできないただの子供でしょうし」
「子供」という言葉を強調されてアルは悔しさから歯を食いしばった。男の言う通り、アルは一人では何もできない無力な子供だったのだ。
(マスター……マスターッ!……)
足に枷を付けられ、身動きの取れなくなったアルは自分の主に向けて助けを求める事もできず、祈る事しかできないのだった。