【7】
「馬鹿馬鹿しい」
「は?」
「いや、こちらのことです。……佐久間暗殺の件ですね、お受けしましょう。彩辻殿には、一宿一飯の恩がありますから」出来うる限り事務的な言葉を選んで、彦斎は答えた。
その言葉を聞くや、彦斎を睨んでいた志士たちは、まるで汚物にするかのようにぷいっと視線をそらし、また堂々巡りの議論を繰り返しはじめた。
彦斎は何度目かのため息を吐いた。そして、目を瞑った。寝ようと思ったのだ。馬鹿馬鹿しい議論を訊いている暇があったら、寝ているほうがはるかに実になる。
その時だった。
「河上、先生?」
彦斎を呼ぶ若い声に、彦斎は瞑っていた目をゆっくりと開いた。
「お疲れのところ、すいません」
「あ、いや。疲れてはいない」張りのある若い声。たぶん彩辻ではあるまい、と彦斎は見当をつけ、敬語を使わなかった。
彦斎が目を開けた先には、袴があった。粗末で、所々擦り切れている。彩辻がしているような、きっちりとヒダの入った袴とは比べるべくもなかった。だが、その袴には、確かにその持ち主の風雪を感じさせるものがあった。
ん?しかし、なぜ、袴が俺に話しかけてくるのだ?彦斎は小首を傾げた。
「あの?河上先生?僕の袴に、何か着いてますか?」
袴の上の方から声がして、ようやく自分が座っていたことを思い出した彦斎は、顔を見上げた。彦斎の視線の先には、不思議そうな顔をして彦斎の顔を覗きこんでいる若侍の顔があった。
「ん?君は確か…」
若侍は、パッと微笑んだ。
「もしかして、河上先生、俺の顔と名前、見知ってくれているんですか!?」
「いや、すまん」
彦斎の言葉に、その若侍は肩を落とした。だが、彦斎にはこの若侍の顔に覚えがある。さっき、彦斎の顔から目を逸らさなかった若侍だ。
「…どうせ、僕、下っ端ですから…。あ、先生、お酒お持ちいたしました」
その若侍の手には、お猪口が二つ、あと銚子も二つ握られていた。
「ああ、スマンな。俺は下戸なんだ」
こうは言ったが、彦斎は下戸ではない。彦斎が酒を飲まないのは、太刀筋が狂うのを恐れてのことでもあるし、それ以上に暗殺を恐れての事でもある。酒をしこたま飲ませた上で暗殺、など、古今東西、暗殺のセオリーだ。事実、その方法で人を斬ったことのある彦斎としては、「酒は勧められても飲まないに限る」と心に決めているのだ。
「そうでしたか。…お隣、座っても?」
「ああ、構わないが」
彦斎の横に、その侍は座った。そして、お猪口に酒を注ぎ、くいっと飲み下した。彦斎は、そんな侍のことなど眼中にないように、ぼおっと白熱する議論の輪を見つめていた。
「河上先生は、何をご覧になっているんですか?」
不意に、若侍が口を開いた。彦斎は答えた。
「不毛な、議論をな」
この言葉は、彦斎なりの“ふるい”だった。もしこの言葉に隣の若侍が怒れば、何も話すことはない。そういう腹だった。
だが、若侍は声を潜めて言った。
「やっぱり、不毛ですよね」
ほう……。少し興味に駆られた彦斎は若侍に訊いてみた。
「お前は、どういう意味で不毛だと思っている?」
若侍は、答えた。
「だって、おかしいでしょ?国家の大事を議論しているのが、こんな宿屋の一室の奥ですよ?しかも、幕吏の目から隠れて。不毛以外の何者でもないでしょう?それに、あの人たちは、自分で動かないじゃないですか。いつも口ばかりだ。不毛ですよ」
「面白いヤツだ」彦斎も、同感だった。
「だから」河上の言葉にちょっと頬を紅潮させて、若侍は続けた。「河上先生みたいに、自分の手で、時代を作ろうとしている方を、尊敬しているんです」
彦斎は言った。「俺は、そんなに偉いものじゃない。何せ、人斬りだ」
若侍は言った。「いいえ。河上先生の剣には、思想が乗っかっています。まさに志士なんです」
困ったな。彦斎は心の中でため息を吐いた。
不意に、若侍が口を開いた。
「先生は、剣術はなにをお修めに?」
彦斎は答えた。
「いや、剣は修めていない。若い頃、伯耆流の居合を勉強したことはあったが、な」
「お辞めになったんですか?」
「いや、どうにも筋が悪いらしくてな。でも、おかげで居合のイロハは理解できた」
「いや、ご謙遜を」若侍は言った。「河上先生の筋が悪いなら、日本中の人が刀を取れなくなっちゃいますよ」
実は、河上が系統立って剣術を学べなかったのには理由がある。
彦斎は、肥後の小森家に生まれた。小森家は、この時代の下級武士にありがちな、貧乏侍だった。そんな家に生まれた彦斎は、同じく肥後の貧乏侍、河上家に養子に入った。彦斎が伯耆流居合を学んだのは、この頃である。だが、彦斎はこの後、肥後の殿様・細川家に、掃除坊主として仕えることになった。それは、下級武士・河上家の養子跡継ぎとしての責任もあっただろうし、もしかしたら、彦斎本人の功名心のなせる業だったのかもしれない。さらに、殿様の参勤交代に随行する形で、江戸に発つことになってしまった。そのせいで、彦斎の剣術の修行は、途中でなおざりになってしまったのである。
だが江戸で、彦斎は、剣術以上の力を手に入れた。
尊皇攘夷思想である。
江戸、というところは、色々な人間の坩堝だった。日本中の大学者が集まっていたのだ。江戸で、彦斎は尊皇攘夷の洗礼を受けた。そして、気がつけば肥後の尊皇攘夷派の中で、確固たる地位を築き上げていた。
そして、あの頃……。
彦斎は、不意に笑った。往時のことを思い出して笑ったのだ。
「いかがしました?」若侍は聞いてきた。
「いや、なんでもない。ただ、江戸にいた頃のことを思い出していた」
「江戸は、どういうところなんですか?」
「どういうところ、か」少し思案してから、彦斎は答えた。「俺にとっては、なんというほどの所でもなかった。まだ、細川の殿様に仕えていたころだったからかもしれないがな。……正直、楽しくもなければ、つまらなくもない、変なところだった。いや、違うか。正確には」彦斎は頭を振って続けた。「俺自身が、黙々と生きる道を選んでいた、ということだろう」
「河上先生が、ですか?」
「意外か?」彦斎は訊いた。
すると、若侍は首を縦にブンブン振った。「ええ、意外です。だって、肥後出身志士の中心人物とまで言われる河上先生が?」
彦斎は笑って続けた。
「実はな、俺だって意外なんだ」
若侍はさらに困惑の度を深めた。それを面白がるかのように、彦斎は言葉を継いだ。
「そういうものだ。自分がどこに向かっているのかなんて、自分が一番分からない。それと同じこと。がむしゃらに生きて生きて生きて、あるとき自分が今立っている所に思いを馳せたとき、『どうして俺はこんな所に』って疑問を感じるのは当たり前の事だ」
「ふぅん?」
「おい」彦斎は銚子を手に持ち、若侍のお猪口をあごで差した。「盃が乾いてるぞ」
「あ、すいません」若侍はお猪口を持ち、彦斎にかざした。やがて、彦斎の銚子から透明の液体がお猪口に零れ落ちた。
その酒をまるでお神酒のように捧げると、若侍は勢いよく飲み下した。
「で?」彦斎は訊いた。「お前は、何処の出身なんだ?」
自分ですか?と前置きしてから、若侍は答えた。「自分は、壱岐です」
「剣術は?」
「ええ、壱岐の御留流を学びました」
「お前、兵法は誰に習った?」
若侍は戸惑った。「へ、兵法ですか?習ってないです」
「そうか」
彦斎は黙り込んだ。
「え?河上先生!なにか不味かったですか?」若侍は、おろおろと目を踊らせて、彦斎を眺めた。
「…あ、いや。普通、勉強しないものなのか?兵法は」
彦斎が訊くと、若侍は答えた。
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