【4】
二人は、目の前にいる“西神”を眺めた。“西神”は、刀に手を掛けもせず、ただ立ち尽くしていた。だが、圧倒的な威圧感があった。
「で?尊攘の浪士が、俺たちに何の用だ?今、お前たちは忙しいんだろ?」
と柳は訊いた。“西神”は答えた。
「お前たち、ではない。お前に用がある」
お前に、と指名された柳は狼狽したようだ。柳は怒気はらみに訊いた。
「どういうことだ?」
“西神”は興味無さそうに答えた。
「詳しいことは俺も知らん。だが、お前を斬るべし、と仲間内で話題になってな」
「な、なんだと?」
柳はいよいよ狼狽した。かつて、“小物”という言葉を振りかざし、「自分は暗殺の標的にならない」と高をくくっていた柳だけに、その驚きも大きいのだろう。いや、もしかすると、気づかない間に柳という男は“小物”と呼ぶべき男ではなくなっていたのかもしれない。時代の上昇気流なるものが存在するのなら、きっとその気流は、誰の目にも見えない。
柳は、腹をくくったのか、刀を抜いた。そして、上段に構える。
「……つまり、こういうことだろ?」
高く掲げられた刀は、まるで三日月のように光った。
「そうだ」“西神”は、刀の柄に手を掛けもせず、前進してきた。「俺は、お前を殺すべく仕向けられた、刺客だよ」
元々剣の腕がカラキシで、どうにも気の小さいところのある棚橋は、刀を抜くだけの胆力さえも“西神”の威圧感によって削がれていた。だから、前進する“西神”の行く手を遮ることさえ出来なかった。
「どいてろ、棚橋」いやに落ち着いた声で、柳は言った。「お前は抜くな。生兵法は怪我の元、って言うだろ」
「同感だ」“西神”も言った。「こんな狭いところで乱闘になると、同士討ちの危険もある。腕が立たないヤツが混じれはその危険は増すからな。……もっとも」
「もっとも?」
固唾を呑んで聞き返す棚橋に、“西神”は目を向けて答えた。
「柳を斬ったら、次はお前だがな。俺の剣を見たものを、生かしておくわけにはいかんのでな」
“西神”の目は、まるで迷いがなかった。だが、それだけに、怖かった。人を殺すことにさえ迷いのない人間がいる、という事実に。そして、そういう類の人間が、今現在自分の目の前にいて、しかもその双眸に自分の姿を映している、という状況に。そして、“西神”という人間そのものに。
「構えろよ」
「ん?」
柳の言葉を受け、“西神”はようやく棚橋に向けていた視線を柳に戻した。それを確認すると、柳は続けた。
「刀を構えていない人間を切り伏せるのは、さすがに気が引ける。それに、そんな卑怯なことしたら、千葉先生に何言われるかわかったもんじゃない」
……柳、イヤに落ち着いている。もしかすると、柳もどこかで人を斬ったことがあるのだろうか、と棚橋は漠然と思いを巡らせていた。同僚の、そして友人の見てはいけない面を見てしまった気がして、薄ら寒いものを覚え始めた。
やはり、“西神”も落ち着き払っている。彼は答えた。
「もう、構えている。気にするな」
「ああ、ってことは、お前、居合遣いか?」
「そうだ」“西神”は頷いた。
居合、というのは、納刀状態から一気に攻撃へ繋ぐ剣術のことである。普通の剣術においては、正眼や上段などに構えた瞬間を以って「戦闘準備が整った」とする。だが、居合においては刀が鞘の内にある瞬間であっても、戦闘準備が整っている。つまり、居合い使いなる“西神”は、もう既に構えていることになる。
二人の間に、妙な緊張が走った。
「お別れだな」ぼそっと“西神”は言った。
「ああ?」上段で構えつつ、柳は訊いた。
「どっちが勝っても、どうせお前とはお別れだ。だから、今の内に別れの言葉を言っておく。……お前のこと、嫌いではなかった」“西神”は、柳の間合いギリギリに立った。
「そうだな。どっちが勝ってもお別れ、か」柳は呟いた。「アンタとは、あんまり利害が一致しないところで知り合いたかったよ。そうすりゃ、お別れなんて言わなくて良かったのに」
「同感だ」
瞬間、二人は研ぎ澄ました牙を剥き、相手に向かって突き立てんとした。
先に動いたのは柳だった。柳は得意の上段から、千葉道場直伝の切り落としを見舞ったのだ。
柳の勝ちだ、と棚橋は思った。
なにせ、柳の切り落としは、師匠の千葉周作先生をして、“稲妻の如し”とまで言われた剣だ。柳と立会稽古をしたことのある棚橋は、その威力、その疾さ、ともに身をもって知っている。何せ、避けられないのだ。しかも、受けることも出来ない。
だが。
目の前に広がった光景は、棚橋の想像を裏切った。
「……がぁっ!」
柳の構える刀は、頭上で輝き、小刻みに震えていた。しかし、“西神”の抜き放った刀は、もう既に柳の右胴に深く斬り入り、致命傷を作り上げていた。
「遅い」
そう謂い終わったが早いか、“西神”は胴を抜き払った。
瞬間、柳は崩れ落ちた。
「や、柳!!」
棚橋は柳に駆け寄った。そして、柳の体を抱きかかえようとする。が、夥しい血で、抱きかかえることさえ難儀する。その血の量が、柳が手遅れであることを証明しているように思えた。だが、それでも諦めずに、柳の体を抱きかかえて揺さぶろうとした。
「無駄だ」
“西神”の声を後ろに聞きながら、必死で揺さぶる。けれど、目の前の光景のせいで麻痺した頭が、とりあえず平穏を取り戻し始めて、ようやく判った。もう、柳は死んでいる。なにせ……。
「胴を切り離されて、生きている人間はいないだろう」
柳の上半身と下半身は、見事に切り離されていた。上半身と下半身をぴったりとくっつければ、柳が蘇るんじゃないか、というほどに鋭利に、スッパリと斬られていた。
血の海の中、膝をその血で濡らしながら、柳の上半身を抱いて棚橋は哭いた。まるで、棚橋の心の中の激情を、そのまま形にしたような慟哭だった。
「つまらんな」
“西神”が、呟いた。棚橋は柳を、まるで子供を寝かしつけるように丁寧に血の海に寝かせてから、すっくと立ち上がり、“西神”を睨んだ。“西神”は、汚物でも拭き捨てるように、刀についた柳の血を懐紙でふき取っているところだった。
「つまらん、だと?」
顔の至るところに柳の血を浴びて、鬼のような形相になっている棚橋は、“西神”に訊いた。すると、“西神”は興味無さそうに言葉を返した。
「ああ、つまらん」
何がだ。柳を殺しておいて、何がつまらん、だ!!ふざけるな!…だが、これらの言葉は棚橋の頭の中で渦巻くばかりで、一向に口から外に飛び出さなかった。
「抜け」
懐紙を拭い終わった“西神”は、刀をまた鞘に納めた。そして、その懐紙を手から離した。柳の血を吸って、重くなっているはずの懐紙だったが、まるで異国の蝶のようにヒラヒラと舞い、血の海に舞い落ちた。
風にでも倒されたのか、棚橋の提灯は地面で倒れ、炎上し始めていた。なにかを暗示するかのようだった。
「なあ」
棚橋は口を開いた。
「なんだ」
“西神”に、棚橋は訊いた。柳の口調を真似るように。
「なんで、夏の星って瞬かないか、知ってるか」
何を訊いてるんだ、俺は。俺はこんなところでこんなことを訊くべきなのか。訊くべきじゃないだろう?そんな疑問が、棚橋の頭の中で渦巻いていた。本当なら、別のことを言うべきなのだ。なんでアイツを殺した、と詰め寄るべきなのだ。しかし、棚橋の口を衝いて出たのは、そんな言葉だった。
“西神”は答えた。
「知らん。興味もないな」
「まあ、そう言うなよ」前置きして、棚橋は言った。「夏の星が瞬かないのは、人の志で輝いているからなんだ、って柳が教えてくれたよ」
「ほう、興味深いな」“西神”は言った。「人の志は、弛むことなく、輝いているということか」
「訊くが」棚橋は続けた。「お前は、あの星のように、輝いているのか?」
しばしの沈黙。“西神”は無表情だったが、何かを思案しているようだった。
沈黙を破って、“西神”は答えた。
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