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夏の星〜河上彦斎異聞〜
作:矢車



【25】完結


 彦斎は、さっきまで動いていたはずの男の抜け殻を眺めた。彦斎の位置からは、その抜け殻が動いていたころには“目”と呼ばれていた球体が見えた。けれど、その球体は、その本来の目的も忘れ、ただの肉塊になってしまった。ものを映すはずの器官には、もうもはや何も映す力は無いのだろう。そして、この男を肉塊に帰したのは、間違いなく彦斎だった。
 「彦斎先生!凄いです!」松浦は飛び上がった。「一刀の元に切り捨てるなんて、さすがです!」
 「何が凄いものか!」
彦斎は、思わず怒鳴った。
 「何が、凄いものか……」彦斎は、もう一度、けれどさっきよりも弱々しく、自分に言い聞かせるように呟いた。
 こうして俺は、どんどん後戻りが出来なくなっていくのだな。彦斎は、思った。そして、宮部先生の言っていた、「自分の間違いは認めがたい」という言葉の意味の端を、つかみ取ったような感触を得た。でも、それは知らなくても良かった事なのではないか、と思えてならなかった。
 彦斎はため息を吐いた。
 「ん?どうしたんだ、彦斎」
 ため息の真意を測りかねているのか、あるいは松浦を叱り飛ばした真意を測りかねているのか、ちょっと遠慮気味に聞く前田。
 彦斎は、答えた。
 「ああ、俺は、初めて大人物を斬ってしまった。いや、真に“人間”と呼びうるものを、斬ってしまった。いや、俺に“人間”のなんたるかを教えてくれた人間を、斬ってしまった」
 意味を判りかねた風の前田だったが、とりあえず、といった趣で頷いた。
 彦斎は続けた。
 「俺は、もう、人斬りを辞める」
 「ひ、人斬りを!?」前田は思わず声が上ずった。
 「ああ、もう俺に、人は斬れんさ」
 どこか、憑き物でも取れたようにすっきりと答える彦斎に、前田は訊く。
 「じゃあ、志士活動も……?」
 彦斎は、首を横に振った。
 「いや。俺は」彦斎は、力を込めて言った。「俺は、一生志士だ」

 「先生方はこれから、どうなさるんですか」
 松浦は、夕闇迫る道すがら、二人に訊いた。すると、二人とも、顔を見合わせて笑った。
 「そうだなあ」口を開いたのは、前田だった。「俺は、田舎にでも帰ろうかねえ」
 「ならば俺も」彦斎も口を開いた。「熊本に帰ろうか」
 「そうですか……」これ以上ないくらいに肩を落とす松浦。そのあまりに情けない顔に、彦斎たちは揃って噴き出した。
 「なんですか!!」ちょっとムキになる松浦。
 「ははは、お前、からかい甲斐があるやつだな!」
 「同感だ」彦斎は、前田の言葉に同意した。
 「ど、どういうことですか?」
 前田が、松浦の疑問に答えた。
 「俺たちの腹は、もう既に決まってる。……俺たちは、長州兵に合流するんだ」
 「え?」松浦は首を傾げた。「“長州を見捨ててでも俺たちは生きなきゃいけない”んじゃなかったんですか?なんで……」
 彦斎は、嗤った。
 「ああは言ったがな。やはり、長州には見捨てたくない仲間がいる。そして、世話になった者達がいる。そして、そういう奴らが俺たちを待っている。ならば、それに馳せ参ずるのが人間としての振る舞いだろう?」
 「そういうことだ」前田もまた、嗤った。「理屈では、長州に合流するなんてのは、愚行でしかない。でも、あいつらを見捨てるわけにはいかないんだよ」
 「で?」
 彦斎は、松浦の顔を覗きこんだ。
 「で、って……」
 困惑顔の松浦に、彦斎は訊いた。
 「お前はどうするんだ?」
 すると、松浦は困ったような、あるいは諦めてしまったような顔を浮かべた。
 「実は、決まっていないんですよ。今更彩辻一派に戻るわけにもいかないですし。かといって、志士の方たちにツテがあるわけでもないですし……。あ〜あ、僕こそ、田舎に帰ろうかな」
 「なんだ、決まってないのか」前田は、呆れたような声を出した。
 「だったら」
 彦斎の声が、不意に響いた。前田と松浦は、彦斎の顔を見遣った。
 彦斎は、言った。「俺たちと一緒に来ないか?」
 松浦はじめ、前田までも、え?!と言わんばかりの驚愕顔を彦斎に向けた。
 「え?それって……」
 松浦の言葉を遮って、前田が訊いた。
 「……な、なあ、彦斎。今の言葉、もう一度言ってくれないか?い、いや、もう一回でいいからさ」
 彦斎は悪びれもせず、かといって気負いもせず、前田の注文に答えた。
 「ああ、“俺たちと一緒に来ないか”と訊いたんだ」
 その彦斎の言葉を聞いた瞬間、二人は「え!?」を連呼した。
 「何を驚く」彦斎は不満げな顔を隠さなかった。「道に迷う志士がいる。そして、俺は道を指し示すことが出来る。ならば、俺には義務が負わされる。“道に迷う志士に、道を教える”という義務が」
 「じゃあ…」松浦は、目を輝かせた。
 彦斎は、その目の奥に、夏の星のように弛まぬ志の炎を見つけた。
 「ああ、ついてこい」
 「やった!やった!」
 松浦は、辺りを駆け回った。
 「あらら、まるで子供だな」前田はため息を吐いた。
 「だが、俺たちにもああいう子供の頃はあった」彦斎は言った。
 前田は、彦斎の顔を、まるで初対面の人の顔を覗きこむかのように、遠慮がちに覗き込んだ。その視線にすぐ気づいた彦斎は、首を傾げつつ、顔を覗きこんでいた理由を問いただした。
 すると、前田は答えた。
 「お前って、そんな奴だったか、って思ってさ」
 「ふん、知らん」
 「だが彦斎、お前、人斬りを辞めるのはいいが、これからどうするつもりだ?」
 「そうだな」彦斎は、さっきからずっと走り回る松浦を目で追いながら、答えた。「俺は今まで、小さな実を間引く仕事をしてきた。だが、これからは」
 「これからは?」
 「これからは、大きな実を育て上げるような仕事がしたいな。そして、その大きな実を、世に問えるような、そういう人間になりたいな。長州の、吉田松陰先生だって、志士だろう?ならば、実を育てるのだって、立派な志士だ」
 「そうか」
 「かく言うお前はどうなんだ、前田」
 「俺か?」前田は困惑した表情のまま、頭を掻いた。「そうだな、あんまり何をしようって決めていないんだよなあ。困ったもんだ」
 「人斬りはもうやらないのか?」
 「はは、馬鹿言え。俺は、お前あっての人斬りだ。お前が人斬りを廃業するなら、俺も廃業だ。まったく、お前のせいで失業だよ」
 「悪いな」
 「は、冗談だよ」
 「……なんだ、冗談か。じゃあ、どうするんだ?人斬りを続けるのか?」
 「いや、そこは本気で言ったんだ。……人斬りは廃業、結果失業。でも、今更家中に帰るわけにもいかないし」
 「そもそもお前、帰る家中があるのか?」
 彦斎の問いに、前田は答えた。
 「あ?俺、因幡松平の家中だぜ?一応籍は残ってるはずだ。…家中の連中とはそりが合わなくて、半ば放置されてるけどさ。今、どこの家中も人が足りないからな、きっと俺みたいな奴が今更戻っても、喜んではくれるんだろうな」
 「そうか」
 「でもまあ、決めた。これを期に、俺、家中から抜ける」前田はまるで踏ん切りをつけるように「脱藩」を口にしつつ続けた。「んで、今まで通りお前についていくとするか。お前の周りに居れば、楽しいことも多いからな」
 「楽しいことか。これからは、地味な活動になるから、楽しくはないだろうが」
 「は、何言ってんだ。俺はお前さえ居れば、どんなつまらない日々でも楽しいだろうよ。お前には悪いが、俺が死ぬかお前が死ぬまで、お前について行くぞ」
 前田は、これ以上ないほどに真っ直ぐな笑顔を見せた。
 「あ、前田先生のお言葉、僕も同感です!!」
 走り回っている松浦も、真っ直ぐな笑顔を彦斎に向けた。
 彦斎は、宵闇迫り墨のような色が塗りつけられていく京の街の色を、ただただ目に焼き付けていた。
 
 彦斎たちは、この後歴史の大きなうねりに飲み込まれることになった。
 彦斎たちが合流した長州兵は、結局その数日後、幕兵と衝突することになってしまった。その結果、長州は、幕兵の背後に控える禁裏に弓を向けた「逆賊」と扱われることになった。
 そして、長州は二度も日本中を敵に回して戦争をせざるを得なかった。
 その激動の流れの中で、いつも気さくに笑っていた前田が、彦斎の前から姿を消した。彦斎に、形見の品を慎ましやかに残して。そしていつからか、少年のようにハニかんでいた松浦もまた、彦斎の前から消えていった。形見すら残さずに。彦斎は、仲間が去っていくたび、慟哭はおろか、涙一つ見せなかった。彦斎は、ただ可能性を信じた。新しい時代の可能性を。そして、それまでは涙は見せまいと、歯を食いしばり続けた。
 そして、新時代がやってきた。

 けれど、その新時代は、彦斎の意に沿う時代ではなかった。だから、彦斎は新政府の首脳になれるだけの人脈がありながら、栄達の道を蹴り、熊本で塾を開いた。
 よくそこで彦斎は塾生たちに言った。
 「俺は昔、実を間引いてきた。それが正しかったとは思わない。正しかったことか判らないからこそ、俺は今、実を育てるべく生きている」
 だが、そんな彦斎を、時代は許さなかった。
 中央政府に危険視された彦斎は、無実の罪を着せられた上、一切の取調べもなしに、斬首と相なった。
 
 「今日は、晴れているな」
 「私語を慎め!」斬首の執行人が、彦斎に言った。
 彦斎の膝の前には、首を落とされたあとに、残った体を突き落とされるべく掘られた、深い穴があった。それはまるで、地獄に続く洞窟にも見えたし、極楽に続く階にも見えた。
 「いいではないか」彦斎は言った。「どうせ、その私語とやらは、あと一刻もしないうちに訊けなくなるのだから」
 ふん、と執行人は鼻を鳴らした。「佐久間象山を白昼堂々切捨てた、あの河上彦斎が私語とはな」
 「なあ、君」
 「私語を慎め!!」
 「まあ、いいではないか」彦斎は続けた。「訊くが」
 「なんだ」
 「お前に、志はあるか」
 「さあな」執行人は、刀の目釘の様子を確認しながら答えた。
 「志がないなら、夏の星を眺めろ。そうすれば、志が何たるか、わかるだろう」
 「ああ、そうかい」執行人は、少し緩んでいた目釘を、コンコンと指で叩いて奥にやりこめながら答えた。
 彦斎は、ふう、とため息を吐いた。
 そして、どこまでも続きそうな空を仰ぐと、誰に言うでもなく、呟いた。
 「俺は、夏の星のように、弛まぬ志を誇れたか?」
 私語を慎め!という、役人の声が、彦斎の耳に入った。














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