【24】
「まったく、馬鹿馬鹿しいよな」棚橋は何かを嘲笑うように呟いた。「本当の標的はお前なのに、その前段階で、まさか右腕をなくすことになるとはなあ。まあ、彩辻という奴も、どうやら柳の殺害に一枚噛んでるようだからな。どうでもいいが」
彦斎は、訊いた。
「お前、体は平気なのか?」
棚橋は、鼻につく声で、笑った。まるで、世の中全ての矛盾を笑い飛ばすかのようだった。そして、その笑いが収まったころ、答えた。
「ははは、平気なわけ無いだろう。お前に斬られ、それで彩辻にも斬られ。でもな」棚橋はまたもや破顔一笑して、続けた。「どうしたわけか、死ぬ気がしない。どれだけ斬られても、もはや痛くはない。どうやら、お前を斬り殺すまでは死ねないようだ」
「そうか」
彦斎は、つかつかと棚橋の前に進み出た。
「ああ、そうだ」
棚橋も、彦斎の前に進み出る。
そして、互いが互いの間合いギリギリに立った瞬間、二人は己の刀を振り出した。
彦斎は、右足を大きく踏み出した必殺の胴抜き。そして、棚橋はどういう剣尖か判別できないほどに乱雑な、まるで棍棒でも振り回すかのような一撃。
その二人の剣尖は、虚空で交差し、ぶつかり合った。そして一瞬遅れ、金属同士がぶつかり合う独特の音が響いた。
どちらかと言えば。彦斎は思った。俺の方が優勢か。
今の撃ち合いは、どちらかと言えば彦斎に分があった。それが証拠に、彦斎の体勢は微動だにしていないのに、棚橋は足一歩分体勢を崩した。つまりそれは、彦斎の剣と棚橋の剣には、確かな実力差があることを意味している。
「ははは」
不意に、棚橋が笑った。
「なにがおかしい?」
彦斎の問いに、棚橋は答えた。
「俺の方が、優勢だな」
もう一度、打ち合った。彦斎は、片手の袈裟切り。もはや、棚橋のそれは剣を扱う振りではなかった。今度の打ち合いは、棚橋の剣尖を彦斎の剣尖が確実に撃ち払った。
「判らないのか?」彦斎は言った。「お前と俺の剣尖には、これだけの雲泥の差がある。どう見ても、お前の方が劣勢だろうが」
棚橋は体勢を崩しながらも、次なる剣尖を繰り出してきた。だが、彦斎はそれを難なく己の剣尖で打ち落とす。その拍子に、棚橋は地面に倒れこんでしまった。
「……帰れ。お前を斬る気はない」
彦斎は、そう言い放った。
彦斎は、今目の前にいる男を斬る気は全く無かった。佐久間象山を斬ってしまった以上、その護衛を務めていた男など、もはや興味もない。
だが、棚橋は地面から立ち上がり、彦斎を睨みながら、叫んだ。
「じゃあなんで、お前は柳を斬った!」
あまりの棚橋の剣幕に、彦斎には答えられなかった。
棚橋は続けた。
「佐久間先生を斬るのは判らないでもない。だって、あの人は要人だ。あの人を殺せば、確かに時代の流れを変えることは出来るかもしれない。でも、柳一人斬ったって、時代は変わらない!!柳一人斬ったって、日本は何も変わらない。琵琶湖から水を一滴抜いたって、琵琶湖なんだろう!?」
彦斎には、棚橋の言っている喩えの意味は判ったが、同意を求めるようなその口調に、ちょっと首を傾げた。誰かから、そんな喩え話でもされたのだろうか、そして、錯乱してその人に言っているつもりなのだろうか、と彦斎は思った。
棚橋は叫んだ。
「そうなんだ!!お前は、お前たちは、いつもそうなんだ!!人間の一人ひとりを水滴くらいにしか考えてないんだろう!?そして、人を斬ってしまっても、「それが日本の為なのだ」と理由をつけて、お前たちは得々としている!!「水滴の一滴なのだから、悲しむことはない」と!!「水滴もまた、次の時代の糧になる」と!でも、だとしても、柳の人生はどうなる!!時代のために死んでも、柳という人間の人生には何の意味もない!!」
彦斎は、心なしか俯いた。
棚橋は、彦斎に歩み寄りながら、続けた。
「なあ、柳の人生を、返してくれよ!!返せよ!!あいつは時代のために死ぬなんて、望んじゃいなかった!!普通に生きて、普通に働いて、普通に老いて、畳の上で死にたがっていたんだよ!なあ、返してくれ!返してくれ!返せ!返せよ!」
棚橋は、彦斎の前に立つと、刀を振りかぶった。それこそ、地軸の底まで斬るつもりなのかと疑うほどに大きく。そして、そのまま彦斎に向かって振り下ろしたが、もちろん、それが避けられない彦斎ではない。横に飛んで、その剣尖をかわした。
「返せないんだろ?」
横に飛んだ彦斎の顔を睨みつける棚橋。
彦斎は、棚橋の言葉に答えることが出来なかった。
「返せないなら」
棚橋は、またもや刀を振りかぶって、彦斎に迫り、またもや振り下ろした。彦斎は、それを避ける。
「……あの世で、柳に謝って来い!!」
その棚橋の叫びが辺りに響いた。その瞬間、太陽が雲に遮られたのか、空き地に降り注いでいた光が、不意に消えた。
ここに来て、彦斎はようやく言葉を発した。
「悪いが、まだ俺は死ぬわけには行かない」
「なんだと?」
「俺は」彦斎は言った。「この国を変えたい。そして、この国を救いたい。だから、俺は人を斬ってきた。だから、俺はまだ死ねない。俺が間引いたがためにたわわに実った、大きな実を見るまでは」
「そしてお前たちは」棚橋は穏やかに言った。だが、その声は、今までの絶叫よりもはるかに深く彦斎の心に突き刺さる。「居直るわけか。“この国を変えるために、犠牲は止むを得ない”と」
「居直れるわけ、ないだろう」彦斎は呟いた。
「なに?」
「きっと俺は」彦斎は言った。「死ねないのだ。あの世の淵から、俺の斬った人間達が覗き込んでいるからな。“俺を斬っておいて、結局何も為せずに終わるのか?”と俺に罵声を浴びせかけながら。そう、俺は」
彦斎は空を仰いだ。その瞬間、雲間に隠れていた太陽が顔を覗かせ、陽光が空き地に降り注いだ。
「夏の星のように、瞬きもせず、燃え続けなくてはならない。たとえこの身を焼き尽くそうとも、俺はこの世で生きなくてはならない」
彦斎は、全身の毛が逆立つような気分に襲われた。それは、自分の言葉の意味の重大さを、重々理解しているからだ。あの自分の口を衝いて出た言葉は、自分の来た道がたとえ間違いだったとしても、それを認めるわけにはいかない、という意思表示でもあることを、彦斎自身が一番理解しているのだ。
「そうか」
棚橋は、彦斎に迫った。左手の刀を、既に振り上げている。
彦斎は、覚悟を決めた。
抜き放っている刀を一旦鞘に納め、構えた。そして、棚橋が振り下ろすよりもはるかに速く抜刀し、右足を大きく踏み出し、思い切りよく斬り上げた。
彦斎の剣は、棚橋の体を二つに分かった。
「おい!彦斎!!」
前田たちが空き地に着いたのは、もう既に全て事が済んだあとだった。前田の目には、まるで円舞曲の舞台のような空き地に、血刀を右手に握ったまま佇む彦斎、そしてその足元に転がる男の死体に、まるで墓標のように突き刺さる刀が映りこんだ。それはまるで、何かの劇の一幕のようだった。
「どうした、彦斎?」
前田の問いに、ようやく顔を向ける彦斎。だが、彦斎は顔を向けるだけで、問いに答えない。
「彦斎先生!」
続いて、松浦が彦斎に声をかけた。だが、目の前の惨状に、松浦は声を失った。
「……おい、彦斎」前田は訊いた。「コイツは誰だ」
アゴで、男の死体を指す前田。その言葉に、ようやく彦斎は答えた。
「……佐久間の護衛で、柳という男が居ただろう?その同僚だった男だ」
「敵討ち、か」
「ああ」
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