【22】
「俺たちは、時代を変えたいんだ。天皇を敬い、攘夷を実行できる、そんな国を造りたいんだ、何に替えても。損な生き方だが、俺は受け入れている。志と引き換えに何かを失ってしまうということを」
前田も、まるで彦斎の言葉に同意するように頷いた。
彦斎は、松浦を見据え、そして訊いた。
「お前に、受け入れることが出来るか?」
「……」
無言になった松浦。その松浦の答えを待つ彦斎。
彦斎は、こういう男だった。右に行くか左に行くかを相手に問う。そして、その答えが相手の口から出るまで、直立不動のまま、ただ待つ。
そして、彦斎自身もまた、そういう生き方をしてきたのかもしれない。常に周りを問い、そしてその何倍も自分自身を問うてきたのだろう。彦斎の立ち姿には、数々の問いに答えという形を与え、そしてその答えを己の寄る辺としている男の影が確かにあった。
不意に、松浦は口を開いた。
「やらせてください」
彦斎は、松浦の目を見据えた。まるで、夏の星のように瞬かない目を。そして、志で輝く夏の星のように、確かな目を。
彦斎は、匙を投げたようにため息を吐いた。
「……初めてだからって、特別扱いはしないぞ」
「もちろんです」
「そして、もう一つ条件がある」彦斎は言った。
「なんです?」怪訝な顔をして、松浦が訊いた。
「ふん、前と条件は同じだ」彦斎は言った。「“俺たちに同道するのは、一回だけ”という約束はしたな?その約束は守れ。それだけだ」
「そういえば……、なんでそんな約束を?」
彦斎はふいに嗤った。
「いや、ただ単に、俺自身がネクラなものでな。あまり、仲間は増やしたくないんだよ。俺には、前田一人で充分、ってことだ」
「そうですか……」肩を落とす松浦。
だが、前田は笑った。
「いや、でも、彦斎が俺以外と仕事するのは、けっこう珍しいんだ。そんなに気をおとすもんでもないさ」
こうして、佐久間象山を暗殺した三人として知られることになる、前田伊左衛門、松浦虎太郎、そして、河上彦斎の三人が、暗殺の舞台にそろい踏みしたのだった。
佐久間象山は、京の往来、佐久間邸近くで馬の背中に揺られていた。
鷹司め、保守の公家どもに取り込まれやがったな。佐久間の苛立ちまでは手綱に伝わらず、牧歌的な速さでしか馬は歩かない。馬丁が綱を引いているのも、馬がパカポコ歩く一因なのだが。
公家・鷹司卿の邸宅を訪れた佐久間だったが、鷹司は翻意していた。
『やはり、帝を京からお遷し遊ばされるわけには行かない』
もう既に鷹司は懐柔できていたとすっかり安心していて、しかも鷹司を突破口に策を実現しようと考えていた佐久間は、さすがに面食らった。鷹司に食って掛かった。すると、困った顔を浮かべた鷹司卿は、口を開いた。
『なにぶん、前例のないことにより……』
何が前例だ!佐久間は怒鳴った。癸丑の年以来、この国は前例のない世界に飛び出しているというのに、どうして朝廷だけは涼風の中にいようというのか!!
温厚な鷹司卿と言えど、さすがに反論をしてきた。
『佐久間殿は、帝を愚弄しておいでか!!』
鷹司卿は、この一言だけ言い切ると、佐久間に一瞥もせず話し合いの席から消えた。けれど、その一言は、まさに霹靂のような言葉だった。その一言は、国家100年の計すらも引っ繰り返す力があることを、浴びせられた佐久間自身が誰よりも深く承知している。
「しくったな……。まさか、鷹司まで保守派に取り込まれたのか?」
馬の鬣の中で、そう見当をつける佐久間だったが、佐久間は気づいていなかった。実は、鷹司が佐久間と喧嘩別れしたのは、“保守派に取り込まれたから”というような、政治的な理由ではないことを。
鷹司が怒り出した理由が分からない、それが佐久間象山という人間の、“欠点”なのだろう。
「まあ、いいさ」
佐久間は、次なる策に向かい思いを馳せていた。
「公家がダメなら、今度は豚一公を使えばいい」
まるで、自分に言い聞かせるようにして、佐久間は呟いた。
佐久間の腹の中には、今度は一橋を使って工作すればいい、という黒い計算があった。だから、鷹司と喧嘩別れしたところで、あまり悲観的な気分になれないのだ。
そんな、頃だった。
突然、佐久間の行く手に、浪人風の男が二人、小路から躍り出た。一人は30歳くらい、もう一人は若侍、二人とも見ない顔だ。なんだ?佐久間が訝しく思ったのに呼応するように、その二人はまるで周りに見せ付けるように腰の刀を抜き払った。いきなりのことに、往来では娘や子供の悲鳴が響いた。そして、佐久間の馬を引いていた、馬丁も逃げ出してしまった。
ほう、俺を暗殺する気か。
佐久間は、手綱を思いっきり引いた。馬は、佐久間の言うことをよく聞き、刺客たちの1間目前で身を翻した。
そして、そのまま手綱をかけた。当然、馬は走り出す。
だが、その瞬間、刺客の一人、30歳代の方が刀を振りかぶり、佐久間に浴びせかけた。その剣尖は、佐久間の股に浅手を作ったものの、大したことはない。傷を問題にせず、佐久間は馬を走らせた。
三十六計逃げるに如かず、だな。抜き身のまま追ってくる刺客を、振り返って眺める馬上の佐久間。この瞬間、確かに佐久間は安心しきっていた。
だが。
佐久間の行く手に、突然陰が躍り出た。
その陰は、さっきの二人組よりもはるかに小さな陰だったが、はるかな威圧感があった。そして、その小さな体全体から殺気がにじみ出ている。
なるほど、挟撃か。思いのほか落ち着き払っている佐久間だった。
そして、佐久間は気づいた。今目の前に出てきた男が、顔見知りであることを。
思わず、佐久間は呟いた。
「河上彦斎、か」
短身痩躯、そして紺色の服。以前会話したときとは違い、刀の柄に柄袋をはめていない。それはつまり……。
「なるほど、お前、刺客だったのか」
佐久間は刹那の瞬間、全てを理解した。なぜ、河上彦斎が自分の前に現れたのか。そして、なぜ自分の器を図るようなマネをしたのか。全ての糸が、一つにつながったような気分だった。けれど、爽快感はまるでなかった。むしろ、淡い後悔だけがまるでうらぶれた寺の鐘のように、佐久間の心に響いていた。
そんな、やけに落ち着き払う佐久間だったが、馬まではそうは行かなかった。まるで、空腹の獅子のような、圧倒的な殺気を放つ人間に物怖じした馬は、手綱の言うことを聞かす、暴れだした。
それをなんとか押さえ込もうとした佐久間だったが、うまく行かなかった。体が、鞍から弾かれ、宙に浮いた格好になった。そしてそのまま体勢を崩した佐久間は、地面に落ちようとしていた。
その瞬間を、彦斎は見逃さなかった。
彦斎は、重力のくびきに支配されている佐久間に向かい、刀を抜き放った。柄を取り、右の足を大きく踏み出し、そして刀を鞘から抜き払い、斜め下から上に切り払う一連の動きを、刹那の瞬間に行なった。
その彦斎の剣尖は、佐久間の腰を捉えた。
「ぐお!」
彦斎は、さらに刀を持つ右手に力を込めた。まるで、天まで届くが如くに、刀を天まで払った。
腰から胸にかけて、致命傷を負わされた佐久間は、うつ伏せで地面に落ちた。
「……ぐ……」
初めて感じる、痛みを超えた感覚。痛みをはるかに超え、もはや何も感じない。まるで春の日のような心地よい倦怠。それだけが、佐久間を包んでいた。
「また、お会いしましたね」
彦斎は、佐久間に頭を下げた。
佐久間は体を何とか起こし、彦斎の顔を見る。
「……なぜ、お前はそんなに悲しそうな目をする?」佐久間はヒューヒューという、妙な音が混じる声で訊いた。佐久間には、それが自分の命が抜けていく音に聞こえた。「まさか、俺のことを哀れんでくれるのか?俺を殺そうとしている、お前が」
「いいえ」彦斎は、首を横に振った。
「じゃあ、お前は迷っているんだな」
その問いには、彦斎は答えなかった。
「ならば」
佐久間はフラフラとしながらも何とか立ち上がると、己の刀を抜いた。けれど、いつもと勝手が違う。きっと、腰に傷を負っているせいで、体に力が入らないのだ、と佐久間は勝手に考えた。そして、体全体を包む、心地いい倦怠感を振り払うように、佐久間は叫んだ。
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