【20】
だれですか?そう訊くと、宮部先生は答えた。
「一つは、日本人にも関わらず、異国と結ぼうとしている輩。例えば、井伊大老。あれは嫌いだ。二つに、改革が必要だというのに、手をこまねいてばかりの俗塵。殆どの日本人がそうだろう。そして、三つ目は……」
三つ目は?彦斎が促すと、宮部先生は、呟いた。
「異国の人間や、異国と結ぼうとする輩、改革をしたがらない者たちを許せない、自分自身だ」
分かりません。彦斎はそう言った。一つ目と二つ目は分かります。でも、三つ目の“自分自身”とはどういうことなんですか。そう訊くと、宮部先生は困った顔を見せて、言った。
「彦斎。竹林を知っているか」
もちろんです。
「竹林は、人間の手を加えなければどんどん他の森を駆逐していく。そして、やがてはそのあたり一帯が、竹林で包まれてしまうだろう。だが、そうやって森を駆逐したのは、竹の一本一本なのか?それとも、“竹林”という一まとまりによってなされたものなのか?」
意味が、わかりませんが。彦斎が言うと、宮部先生は微笑みながら続けた。
「竹の一本一本は、皆、上に上にしか伸びない。横には伸びていかないものだ。なのに、なぜ、竹林は広がっていくのだ?」
それは、地下に茎があって、それが伸びているからでは?と彦斎が答えると、宮部先生は困ったような顔を見せた。
「まあ、そうだがな。だが、地下茎が伸びるのは、竹一本の意思で伸びている、というよりも、“竹林”の意思で広がっている、とは思えないか?」
竹林の意思?
「そう。竹の一本一本は、決して悪ではない。決して、他に対して攻撃的ではない。だが、その竹が寄り集まったはずの竹林には、なぜか攻撃性がある。…私は、時々思うのだ。個の意思と、集団の意思は、常に別物なのではないか、と」
それは……。彦斎は言いよどんだ。
最後に宮部先生は、呟いた。
「竹林は、森を食い荒らす“悪”だ。だが、竹の一本一本は美しい。それを、私は理解できないのだ。竹林が悪であったとしても、それを構成する竹は、必ずしも悪ではないのに」
「おい!彦斎!!」
前田の何度目かの呼びかけに、彦斎は目を開いた。
「……あ、ああ……」
彦斎は、心ここに在らずな生返事で返した。
前田は、まったく、とため息を吐いてから、彦斎に訊いた。
「おい、どうするんだ?佐久間の件は?」
「なあ、前田」不意に、彦斎は前田を見据えた。
「なんだ?」
「佐久間は、“異国と結ぼうとしている輩”だな?」
「ああ。あいつは開国派の異国かぶれだからな」手短に、前田は答えた。
「じゃあ、そういうヤツを、許していいのか?」
「?なに言ってるんだよ、お前?攘夷を看板にする俺たちからしたら、佐久間は許すわけにはいかない人間だろうがよ」
「そうだな……」
「?」
首を傾げる前田の目を見据え、彦斎は言い放った。
「佐久間を、斬るぞ」
「……いいのか?」前田は、彦斎に訊いた。
「構わない」彦斎は言い放った。「宮部先生を斬ったのは、武州の浪人、近藤某とその一味だという。そんな、名のない者を斬るよりは、佐久間を斬ったほうが、先生もお喜びになるだろう」
「お前がそれでいいなら、構わないさ、俺はよ」
「よし」
二人は、立ち上がった。
「ふうん、なるほどな……」
佐久間象山は自宅の客間で、腕を組んで唸った。
「いかがいたしましょう?」
一橋公の命を受けた家臣が、佐久間の顔色を覗き込む。
その佐久間も、さすがに策が浮かばない。半ば諦め気味にため息を吐いた。
「まさか、長州が、京に派兵してこようとはな」
情勢は、急雲風を告げていた。
池田屋事件によって長州の志士たちが多数死んだ。このことが、長州の志士たちを暴走させた。高杉晋作ら慎重派の制止も聞かず、久坂玄瑞などの過激派が暴走してしまったのである。久坂率いる長州藩兵が、京に今にも到達せんとしている。
その報が、一橋家に伝えられたのである。
そして、一橋の客人であり、ご意見番でもある佐久間に、この報がもたらされたのである。
「で?敵の数はいかほどだ」
「いえ、それは……」一橋家臣は言いよどんだ。
ふん、一橋め、普段威張り散らしておるくせに、敵の実数も把握できていないのか。…まあいい。多分長州のことだ、きっと数千しか兵を出せまい。仮に、戦になったとしても、幕府兵で駆逐できる数だ。それに、今は薩摩もいる。……いや、むしろ、薩摩が曲者だな。佐久間は考えをめぐらせる。
当時、京には薩摩と会津、桑名の兵がいた。会津も桑名も、どちらかと言えば保守的なものたちで、あまり心配がない。むしろ心配なのは薩摩だ。薩摩は、英明なる君主のもと数々の俊英が揃っていた。一番予断を許さないのは、薩摩の動きであった。
「薩摩の動きを、掣肘せねばならんな……」
「は?」
「いや、なんでもない」
佐久間は、首を振ってから、一橋家臣に意見を述べた。
「そうだな。とにかく一橋公にあられては、長州に撤兵を求め続けられよ。とにかく今回の件、出来るだけ穏便にことを計られよ。ただし、もしものときのために、禁裏周辺には、守備兵を配されるが良かろう」
「しかし、それで禁裏を守れるでしょうか」
「心配なかろう。長州は、京までの強行軍で疲弊している。それに、数もせいぜい数千といったところだろう。片や、禁裏守護兵は精兵が1万くらい居るのだろう?ならば、問題ない。だが、戦というのは、常に蓋を開けてみないと分からないものだ。守らなくてはならないものがある戦においては特に、だ。とにかく、玉を守るのが最優先。そのためならば、売られた喧嘩も買ってはならぬ。とにかく、ことの沈静化に計られたし。……そう、一橋公に伝えよ」
「は、はい!!」
一橋家臣は、押っ取り刀で部屋から出て行ってしまった。
一人、客間に残された佐久間は、未だ腕を組んでいた。
「長州め……馬鹿なことを……」
佐久間は、思わず苦々しげに吐き捨てた。だが、間髪を置いてから、言葉を継いだ。
「だが、なかなか乙なことをしてくれるものだ。まったく、長州には馬鹿者しかいないと見える」
佐久間からすれば、長州のこの度の行動は愚挙に見えた。なにせ、禁裏を背にした幕兵と対峙しようとしているのだ。それは即ち、禁裏に弓を引く行為に他ならない。いくら長州が、「帝の周りの歪臣たちに弓を引いている」と弁明したところで、その「歪臣」たちの後ろに帝が控えている以上、帝に弓を引いていることになってしまう。
つまり、この戦、最初から長州に勝ち目がないのだ。
だが、長州がそんな愚挙をしでかしてくれたおかげで、佐久間の策の歯車が大きく動こうとしている。思わず、佐久間の顔から黒い笑顔がこぼれた。
「これで、遷帝計画が上手く行くではないか」
そう。佐久間には、「帝を彦根にお遷しする」、つまり遷帝計画を持っていた。この計画を持つ佐久間にとって、長州の行動はこれ以上ない機会に見えた。
未だ帝をお遷しするのに難色を示す公家どもにチラつかせるドスには最適だ。「長州が攻めてきている。幕兵が如何に精強と言えど、確実に帝の安全を保障できない。もし、この件で帝がお隠れあそばされたりしたら、如何なさるおつもりか?」とでも脅せば、公家どもは血相変えて、彦根への遷都を認めることだろう。
佐久間の腹には、そういう黒い計算があった。
「歯車が、大きく動こうとしているぞ」
佐久間は一人、腹の底を唸らせるような笑い声を上げた。まるで、悪鬼のような、恐ろしい声だった。
「さあ、日本の国宝・佐久間象山による、畢生の策、今、ここに成そうぞ!」
もしかすると、今この瞬間こそが、佐久間象山という人間の、頂だったのかも知れない。けれど、頂というものの先には、当然下り坂しかない。その下り坂が、ゆるい坂道なのか、それとも断崖絶壁のように切り立っているのかは頂に上ってみないと分からない。
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