【14】
「そもそも、“歯車を元に戻す”などという生易しい手段では、もうどうしようもない。それほど、この国の病根は深いのだ」
「と、言いますと?」
河上に促されるがまま、佐久間は続けた。
「神君家康公が幕府を開府し、家光公の頃に国を閉ざして以来、この国は一つの湖になったのだ。いや、正確には、水溜りに、な」
「水溜り?」
佐久間の言を繰り返す河上。佐久間は頷いてから続けた。
「そう。水の流れの無い、水溜りにだ。波も無いかわりに、清浄な水も流れ来ず、どんどん濁っていくばかりの水溜りに。そういう水溜りには、そういう環境を好むものしか住み着かない。汚い藻が生え、ボウフラが湧く。そして、どんどん水溜りは汚れ、またどんどん藻が生え、ボウフラが湧き……、その繰り返しだ。つまり、そういう状態が、ペリー来航前の日本だ」
「“ぺルリ”ではないのですか?」
と、河上は佐久間の言の揚げ足を取ったが、佐久間はそれを一蹴した。
「浅学者!!“ぺルリ”という読みは、オランダ読みだ!ヤツの国、アメリカでは、あれは“ペリー”と読むのだ!!」
「すいません」
「まあいい」
佐久間はさらに続けた。
「だが、癸丑の年、不意に日本は外国と交渉を持つことになった。さっきのたとえをそのまま使うなら、長い間水の往来が無く濁り濁った水溜りに、川の流れが押し寄せ、清水が入ってきたようなものだ。すると、水溜りを好んでいた、藻やボウフラたちはどうなるか、お前にもわかろう?」
「はい」河上は答えた。「その清水に流されてしまうか、あるいは清水の清さを嫌い……」
「死に絶えてしまうだろう。で、実際、現在の日本では、そういう藻やボウフラたちが断末魔をあげる暇もなく、どんどん流れに流され死んでいっている」
佐久間はきっぱりと言い放った。
「では、どうしたら?」
河上の問いに、佐久間は答えた。
「考えうる道は二つ」佐久間は指を二つ立てた。
「二つ?」
「一つ目は」佐久間は指を折った。「その清水の流れをせき止める方法だ。国をもう一度閉ざし、また一つの水溜りに戻る。つまりは、攘夷だな」
河上は意外そうな顔を見せたが、その顔を能面でも外すようにすぐに表情から追いやると、話を訊く姿勢を見せた。結局促された格好になった佐久間は、そのまま続けた。
「だが、攘夷ではならんのだ。それでは、結局諸外国との実力差が開いていくばかりだ」
「実力差?」
「お前は、ペリーの黒船を見たことがあるか?」
「あります」河上は頷いた。
「あれは、風の力で動くようなちゃちな代物ではない。実は、石炭というものを燃やし、お湯を沸かして動いているのだ」
「お湯?」河上は首を傾げた。
「仕組みについて説明するのが面倒だからしないが、そういう仕組みを蒸気機関という。……訊くが、現在の日本の船と、アメリカの船で戦争をしたら、どちらが勝つと思う?仮に、船の数は同数、砲門の数も同数、大砲の威力・精度共に同等と仮定した場合、だぞ」
佐久間象山は、当時洋学の第一人者であるが、彼が一番注意を払った西洋の学問は、「軍学」だった。日本が泰平を謳歌していた頃、数々の戦争を経験して洗練された「西洋軍学」に、佐久間は魅了された。実は、幕府は後にフランス式の軍制を取り入れることになるが、最初に西洋式の軍学に目をつけていたのは佐久間象山なのだ。
そして、佐久間が軍隊のことを引き合いに出したのも、そういう佐久間の興味と無関係ではない。たとえ話をするときには、自分にとって想像しやすいものを選びがちだ。
河上は答えた。
「当然、それは、アメリカが勝つに決まっているでしょう。機動力が雲泥の差なら、当然機動力が高いほうが勝つに決まっています」
さすがに河上は兵法を学んだことがあり、軍事関係の答えを出すのは早かった。
「そう。機動力一つとってもそうなんだ。そこまで考えが至れば、攘夷なんて不可能なことくらい、わかりそうなものだがな」
「しかし、日本はいくらでも兵が出せます。一方のアメリカは遠く、あまり多数を派兵できない。ならば、日本中が一致団結すれば、追い払うくらいは可能では?」
食い下がる河上の言葉を、佐久間はずばっと切り捨てた。
「いや、負ける。
……確かに、こちらが劣っているのが機動力だけだったとしたら、お前の考えは正しい。機動力など使わず、つまりはどっかりと構えて迎え撃てばそれでいい。だが、今の日本と外国の間には、大きな実力差がある。例えば大砲。日本の大砲の有効射程は四半里、って所だろう?だが、外国の大砲は、一里まで有効射程に含まれるという。そんな実力差では、刀で鉄砲に挑むようなものだ」
「しかし……」
なおも食い下がる河上に、佐久間は言った。
「お前、馬関戦争、って知ってるか」
河上が、知らないはずがない。なにせ、河上は、この前までその当事者たちと行動を共にして、よくその話を聞いていた。だが、彦斎は、
「いいえ」
と首を振った。
「そうか。長州で行なわれた戦争だ。いや、戦争と呼べる性質のものではないか。あれは、一方的な袋叩きだな」
佐久間は、馬関戦争の説明をした。
馬関戦争とは、今でいう下関戦争のことである。
長州は当時、尊皇攘夷論の風が吹き荒れていた。吉田松陰が遺した弟子達が、尊皇攘夷論を盛りたてていたのだ。
そんな長州には、海峡があった。関門海峡である。
洋の東西を問わず、海峡というのは交通の要衝である。特に、関門海峡というのは日本という国において重要な海峡であった。この海峡を制するものは、西日本を制する、とまで言われる海峡である。ちなみに、源平の合戦の最終決戦が下関の壇ノ浦であったことも、決して偶然ではない。
そういう要衝だから、当然異国船が通る。もし太平洋側から下関を通れないとすれば、九州を大きく迂回しなければ日本海側に達せないからだ。
だが、長州の尊攘派はそれが許せなかった。
そして遂に、長州は暴発した。
ある日、長州の尊攘派は、関門海峡を封鎖し、アメリカ商船ベンクロープ号に砲撃を加えた。もちろん、あくまで商船であるベンクロープ号にはなすすべなく、逃げまとうしかなかった。
だが、アメリカはその長州の攻撃を問題視し、たまたま横浜に停泊していた軍船の舳先を下関に向けた。
「どっちが勝ったと思う?わずか一艘の軍船と、長州の間での戦争。どっちが勝ったと?」
「……」
佐久間の問いに、河上は無言で通した。もちろん、河上はその答えを知っている。知っているが、言えないのだ。もし、それを言ってしまえば、「攘夷」などというものが、ただの夢物語、佐久間の言葉を借りるなら、水溜りの中で高いびきをかいて寝るボウフラの、自分勝手な夢程度のものにまで貶められてしまう。そのことを本能的に感じている河上は、何も言えないのだ。
「勝ったのは」佐久間はきっぱりと言い放った。「アメリカだ」
そう。長州はわずか一隻のアメリカ船に、負けたのだ。
しかも、その負け方も半端でなかった。当時、長州が持っていた軍艦は四隻だった。だが、その四隻中二隻は撃沈、一隻は大破。事実上、長州海軍はわずか一隻の異国船により壊滅させられたのである。
「判るか?もう、攘夷なんて不可能なんだよ」
「じゃあ、どうすれば?」
声の震える河上。その変化に、佐久間は気づいていた。
さてはコイツ、元々自分の持論を持っていたな?恐らく、攘夷論者だろう。そして、それを隠して俺に話を聞きに来た。そういうことだな?しかし、なぜ?なぜコイツはそんなことを?理解が出来ない。佐久間は心の中で首を捻りつつ、続けた。
「攘夷が無理なら、開国しかないだろう?」
「しかし、神州日本なら、神風が……!!」
そう抗弁する河上に、佐久間はまるで春の稲妻のような大声で怒鳴りつけた。
「馬鹿者!!!」
怒鳴られて、体だけでなく息まで硬直させる河上。一息置いてから、佐久間は続けた。
|