【13】
佐久間の目に、清水寺の、青い木の葉たちの織り成す色が飛び込んできた。それに、心を奪われたのだ。
「思えば、この数ヶ月、忙しくて木々の変化になど興味を払っていなかったな。大人物、というものは、かくも忙しいものか」
と、夏の木漏れ日を浴びつつも、国事に思いを馳せる。
「確か、京に来た頃は、まだ桜が咲いていたな」
一橋公に請われて京に来た形の佐久間象山だったが、それだけで納まる男ではなかった。
三月に京に上って知り合いのツテで屋敷を借り、そこを拠点に定めてから、佐久間象山は己のツテを総動員させて、朝廷とのパイプを作り上げた。公卿の某と知己を得、その公卿の口から帝に意見上申を出来るまでになった。もちろん、「一橋公の客人」という“伝家の”ドスを利かせた点はあるにせよ、京に上がるまで、まるで朝廷とつながりの無かったことを思えば、やはり佐久間象山という人間は“ヤリ手の男”なのだろう。
そして、佐久間は次なる一手を打とうとしていた。
それは、帝を遷す計画である。
佐久間という男は、帝、というものを、「大義名分のありか」程度に理解していた。
“帝を獲ればこちらの勝ちだ。何故なら、「帝に弓を引くものは逆賊だ」という儒教道徳に、皆毒されているからだ。つまり、帝とは、軍事的な要衝よりも、はるかに重要性の高い『要衝』なのだ”そんな割り切った考えを憚ろうともしない。
けれど、この佐久間の読みは、見事に当たっている。と、言うのも、佐久間を京に招聘した張本人である一橋公自身も、後に、帝の取り込み工作に失敗した上、軍事行動を見せたがために逆賊扱いされ、失脚する羽目になることからも判ろう。
そう、佐久間は、その帝という『要衝』を獲ろうとしているのだ。
佐久間は、公卿某にこう論じた。
「今の京は、池田屋の件で明らかな通り、非常に危険である。池田屋の件は事前に防げたから良いものの、これからこういう事態が起こらないとも限らない。帝の御体は地上に唯一つ、神聖なるものにして、臣下たる我々は万難を排し、有事に備えるべきである」と。
公卿某は訊きかえす。「では、どうすればいいのでおじゃるか?」と。
そうなれば、公卿は佐久間象山が張っておいた蜘蛛の糸に足を絡め獲られている。佐久間はこう上申する。
「仮に、帝に覚えめでたい会津などの兵を増員する、という手もござろう。しかし」佐久間は、その可能性をアリでも踏み潰すように握りつぶす。「帝の覚えめでたい兵たちは、もうすでに精勤を極め、これ以上の増員はならない。かといって、これから新規に信の置けない兵を恃むのは、極めて危険である」
当然、公卿某は訊き返す。「他の手はないのか!」と。
「一時的に、帝を江戸にお遷しになられてはいかがか?」佐久間はちょっと挑戦的に、あるいは皮肉っぽく提案する。「幕府は、帝にとって一番の忠臣たち。命を懸けてでも帝の御盾となりましょう」
さすがに、公卿某は首を横に振る。「箱根山の向こうには、鬼が住むというではないか。それに、かの地には異国の者も多いと聞く。そのようなところに帝をお遷しになど出来ん!」
やれやれ、と佐久間はここでため息を吐く。まるで、あなた方が文句ばかり言うから、という風に。そして、佐久間が本当に提案したいことを、この刹那で口にする。
「帝を、彦根にお遷しになられては?」
「ひ、彦根、だと?」
「ええ。琵琶湖の方にある、井伊家の城下町ですよ。京からそれほど離れてはおりませんし、しかもそこには“井伊の赤備え”と名高い、井伊の兵が沢山おります」
「だが、彦根といえば、あの不忠者・井伊直弼の彦根であろう?」
その公卿某の意見を、佐久間は速やかに封殺する。
「その不忠者は、既に死にました。そして、今の彦根城主は、忠義者で有名でござる」
「むう…」
実は、別に直弼の後の彦根城主・井伊直憲は忠義者として知られた人物ではないが、佐久間には読みがあった。どうせ世間知らずの公家たちのこと、「忠義者」と吹き込めば、たとえ本人が不忠者であったとしても忠義者と映るであろう、と。
事実、その読みは当たった。
その公卿某は、見事に佐久間の張った網にかかり、もはや佐久間の意見を、随意に帝に具申するだけの木偶人形と化した。その公卿は、「その意見、帝に上申しておこう」と、佐久間に約するまでになったのだ。
「あと、一歩だな」
暑い風が吹いた。
佐久間は珍しく和装だったが、襟を少しはだけさせて、そのまま体をあおいだ。別にそんなことをしても涼しくなることはないが、気分の上では涼しくなる。だが、やはり気分だけで遮れるほど、今年の夏の日差しは弱くなかった。
「……帰るか」
佐久間がそう呟いた、その刹那だった。
「……佐久間象山先生と、お見受けいたします」
と、穏やかな低い声が佐久間の背後から響いた。その声の感じからは、知性と教養を感じさせた。まるで、どこかの大名の掃除坊主のように、控えめで細やかだった。
佐久間が声の方に振り返ると、目の前に、短身痩躯で年のころ20歳代後半ほどの男が立っていた。全体に紺色の服を着て、刀を二本差している。緊張してはみたが、刀の柄に、汚れ防止のためにつける柄袋がつけられていたので、少々緊張を解いた佐久間であった。
「なんだ?お前は?お前は俺のことを知っているようだが、俺はお前を知らん。名乗れ」
と、佐久間は言葉に面倒くさそうな響きを持たせ、その男に訊いた。
その男は、少し悩んだようなそぶりを見せたあと答えた。
「……申し遅れました。拙者」
「拙者?」
答えを促す佐久間。その男は言い放った。
「河上彦斎と申します」
「ほう、聞かん名だな。生まれ国は?」
「肥後です」
「肥後、か」
確かかの国は、尊攘派と俗論派の二つに分かれているはず、と、肥後の情勢を思い出そうとした佐久間だったが、途中でその作業を取りやめた。なにせ、佐久間象山は「開国派」という、非常に敵の多い持論を持っている男だからである。名前と生まれ国だけで、今目の前にいる男が自分にとって敵か味方かを判断できない、と匙を投げたのだ。
佐久間はため息を吐いて、言った。
「で?何の用だ。俺は忙しい。俗物に付き合う暇は無いんだが」
大抵こう言えば、「有名人だから声をかけました」という手合いはすごすごと引き下がる。だから、佐久間はいつも見知らぬ人間に呼び止められたとき、こう言う。だが、河上を名乗る男は答えた。
「当代の大学者・佐久間先生に、お聞きしたいことが……」
ほう?
「なんだ、聞きたいこととは。馬鹿な質問には答えんぞ」
では、と前置きしてから、河上は口を開いた。
「この国は、癸丑以来、すっかりおかしくなってしまいました。まるで、歯車のずれた時計のように。なぜです?なぜ、この国の歯車は狂ってしまったのでしょう?」
長年色んな人間を見てきたが、こんな根本的な質問をかましてくるヤツは初めてだ。一体コイツは……。と、佐久間は女のように真っ白な、河上の顔を覗きこんだ。
この時代、しかも京にいる二本差しで心ある者ならば、大抵のものは「憂国の士」だった。皆、ペリー来航、つまり癸丑以来この国を襲う混乱の原因を、自分なりに究明し、そしてその原因を、自分の考えた方法で糺そうとしているものばかりなのだ。だから、「憂国の士」同士でぶつかり合い、血沫が飛ぶのだ。つまり、「憂国の士」は、自分なりの「日本の混乱の原因」と、「日本をどうすべきか」という二つの持論を持ってしてしかるべきだし、少なくとも「日本の混乱の原因」くらいは捉えているはずだ。
にもかかわらず、今目の前にいる河上なる男は、その根本を佐久間に問うている。今まで佐久間に意見を訊きに来た人間たちは、「如何に日本を変えるか」を訊きに来るのに、今目の前にいる河上は、「どうしてこの国は混乱しているのか」という、佐久間のような「憂国の士」からすれば前提でしかない質問をぶつけてきたのだ。今までそういう人間を見たことが無かった佐久間は、現代で言うカルチャーショックに襲われているのだった。だが、佐久間が知らないだけで、実は当時「なぜこの国は混乱しているのか」という理由を求めている人間も、実は佐久間が知らないだけで、かなり多かったはずだが。
「あの、佐久間先生?」
河上の呼びかけに、ようやく自分が押し黙ってしまっていたことに気づいた佐久間は、少し考えてから、河上の問いに答えた。
「その質問は、簡単だ」佐久間は、まるで初めて言葉を発する子供のように、たどたどしく言葉を編んだ。「それは、その前まで閉ざしていた国を、開いたからだ」
その答えに、河上は意外そうな顔を見せた。だが、河上はその表情を追いやってから、さらに訊いた。
「では、どうすれば、この国の歯車を元に戻すことができるのでしょうか」
そうだな、と前置きしてから、佐久間は続けた。
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