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窓の向こう、扉の外

作者: 砂握

 ふと気がつけば、教室には自分一人しかいなかった。

 少しだけ驚きながら周囲を見渡すと、出来の悪い鏡のように夕日を反射する四十ちょっとの机達が、静まりかえった教室の中できらきらと赤く輝いていた。

 人の話し声も気配もない。

 遙か彼方から運動部の威勢の良いかけ声と吹奏楽部の間の抜けた音がぼんやりと聞こえるだけ。教室に備え付けられた丸い時計は午後六時過ぎを指しており、眼をやった瞬間秒針が思い出したようにカチカチと音を立て始めた。が、不思議と静けさは余計に強まった。

 息苦しさに無言で喘ぐ。

 急き立てられるように机の中を漁り、無造作に教科書やノートを鞄に放り込んでいく。

 そう言えば、友人らに何度か肩を叩かれたような気がする。

 いつものように一緒に帰ろうと言われたはずだが、自分は何と答えたんだったか。思い出せない。担任の教師が教室に入ってきてホームルームを始めると言った辺りから……いや、今日一日の記憶がどうにもはっきりとしない。その原因はわざわざ考えるまでもないが、自覚するのはどうにも躊躇われた。

 自分だけじゃない、他人にも知られたくはなかった。

 だってそれを知られれば、自分も相手も微妙な気分になるだろうから。薄っぺらいその場だけの言葉など欲しくはなかった。だからせめて今日一日はそいつを胸の奥の奥、出来る限り眼に入らない場所に閉まっておく事にしたんだ。しかしどういうわけか無意識に思い出してしまいそうになるから、その度に忘れようと忘れようと己に諭し続け、結果として周囲の事が疎かになった――そういう話。それだけの話だった。

 ため息をつき、立ち上がる。

 無人の教室をさっさと横切り廊下に出る。大体予想はついていたが、そこにもやはり人影は見当たらなかった。昇降口を目指し早足に歩き始めるも、やがて勢いが弱まり、むしろ普段よりも遅いペースまで落ちていった。帰ってもどうせ一人だろうと、そう思ってしまったからだった。

 歩きながら窓の向こうの校庭を眺める。

 白球を追いかける野球部員、ハードルを跳んでいく陸上部員、ドリブルをするサッカー部員……校舎の中はこれほど静かだというのに、夕日に染まる校庭は生徒でいっぱいだった。

 斜めに伸びる影達が赤橙に輝く地面の上で楽しそうに踊っている。

 素晴らしい学校生活という名の絵を見ているような気分だ。ガラス一枚で分け隔てられているとは思えないほど遠く感じるのは、きっと住んでる世界そのものが違うからなのだろう。

「部活、か」

 眩しすぎる窓から眼を逸らし、首を傾げる。

 入っていれば何か変わったんだろうか。自由な時間が潰れる代わりに、部活仲間と新しい居場所を与えられる。もちろんトラブルはあるだろうし、上手くいかず止める事もあるだろうけど、努力次第で心の支えになるような何かを手に入れられたかも知れない。目的に向かって頑張ってる自分の姿など想像もつかないが、少しばかり楽しそうな気がする。それにもし部活をしていれば、今日この時間、こうして一人廊下を歩いていたりはしないだろう。それだけでも十分に価値のある選択だったんじゃないだろうか。

「――良いか、この単語はアクセント問題でも良く出てくるから発音も一緒に覚えておけ。まず名詞の場合は……」

 しばらくして教師と数人の生徒が詰める教室の横を通り過ぎた。

 黒板の上を走るチョークを眼で追いかける生徒達の顔はどれも必死で、廊下の外を歩くこちらには全く気づいていない。

 彼らの机の上に高く積み上げられた参考書の一番上には、有名大学の名前が大きく書かれた分厚い本があった。追い込み中の三年生か、一足早い二年生か。少なくとも補習を受けてるわけではないだろう。教室内に漂う独特の緊張感は廊下にいても伝わってくる。もし自分があの中に混ざろうものなら、きっと五分も経たないうちに〝用事〟を思い出すに違いない。距離こそ近いもののこの教室もまた、校庭と同じあちら側の世界――その一つだった。

「勉強、ね」

 階段を下りながら、小さく呟く。

 成績は人に恥じるほど悪くもないし、人に誇れるほど良くもない。人並みの努力にそれなりの結果がついてきているのだ、何も不思議な話じゃない。目的がなければそんなものだ……自分だけじゃない。先ほどの生徒達は少数派、大多数は目指すべきゴールなんて見えちゃいないんだ。別に自分だけじゃない……でも、もしあの教室の一員となる事が出来れば、きっと苦しいだろうが前向きな日々を送れるんだろう。きっと今日という日など気にもかけないような必死な日々を。

「……何なんだよ、全く」

 下駄箱の前で足を止め、ため息をついた。

 別に、自分の現状にそれほど不満があるわけじゃないんだ。

 一人暮らしは気ままで結構だし、部活をしていないお陰でたくさん遊べるしバイトも出来る。行きたい大学も将来なりたい職業もないけれど、それはこれから見つけていく事だ。ほら、サラリーマンになった後にようやくやりたい事が見つかる大人だっているんだ、所詮子供の自分が人生だの何だのを語るなんて痛すぎる。結局、窓の向こうの話はただの言い訳。小さな棘が胸に刺さったようなこの感覚を誤魔化すために、事を大きな問題にすり替えようとしているだけなんだ。自分は何もしないくせに、当然のように周囲に何かを期待した……まだ期待している。今日という日が終わるまで、ずっとずっと。

「あー、嫌だ嫌だ」

 これまでの十数年間重要だとはちっとも思ってこなかったのに。

 むしろここ数年はうざったいとすら思っていたのに、誰も気にしてくれなくなった途端これだ。子供過ぎる。どれだけ構って欲しいんだよ馬鹿。いい加減諦めろ。今日はただの平日だ。うだうだ悩んでないでさっさと家に帰れ。

 顔を上げ、自分の下駄箱をきっと睨み付ける。靴を取り出そうと流れるような動きで腕を伸ばす――が、指先はスチール製の扉の寸前でぴたりと止まった。

「……でもまあ、メールが来てたら返事を出さないと悪いよな」

 家に直帰するという自らで終止符を打つ行為に、淡い恐れと未練が湧き起こり、気づけば無意識に逃げ道を探していた。しかし情けない事に、そんな自分に呆れつつも携帯を探す手を止める事は出来なかった。

「あれ……?」

 ポケットは空。蓋を開けて覗いてみた鞄の中にも、携帯電話の影はどこにも見当たらなかった。

 降って湧いたこれまでとは全く違う焦りに、心臓の鼓動が早くなる。

 慌てて回れ右、乾いた唇を舐めながら早足で歩き出す。階段を二段飛ばしで駆け上り、行きの十分の一ほどの時間で教室まで舞い戻る。自分の席まで駆け寄り、祈るような気持ちで机の中を探し続けた。が、祈りが通じる事はなかった。

「ど、どこかで落としたのか? 人目につくつく場所で落としたんなら、落とし物として届けられてるかも――」

 縋る思いで職員室に向かう。先生の一人に声をかけ、嫌な顔をさられながらも確認して貰う。

「携帯は届いてないわね」

 だが、得られたのは無慈悲な言葉一つ。期待があっさり裏切られた事を知り、思わず肩が落ちる。

「そ、そうですか……ありがとうございました……」

 電話を借りて自分の携帯にかけてみるか。いや、静かとは言えこの広い校舎の中で着信音を頼りに探し当てるのは不可能に近い。第一、学校にいる間はマナーモードにしてあるから、隣の教室に落ちていても気づきやしないだろう。放課後の今はともかく、日中学校は人が多いからいつか誰かが拾ってくれるだろうけど、少なくとも今日中には返ってこないに違いない。メールが来てるかどうかの話じゃない。弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり。何というかもう、やってられない。

「どこで落としたか覚えてないの?」

 さすがに気の毒になったのか、応対してくれていた先生が声を柔らかくして尋ねてきた。力なく首を振って返す。

「いえ、全く……」

「そう……」

 どんよりした空気が漂い始める。

 正直気力はほとんどない。が、ここに突っ立っていても意味がない上に迷惑になる。本来なら祝福をもらうはずの日に邪魔者扱いされでもしたら本当にどん底だ、傷口を広げないうちに退散するとしよう。

「ありがとうございました。失礼しま――」

 頭を下げてその場を去ろうとした時、背中にどんと何かがぶち当たった。振り返ると大きな段ボールを抱えた大柄な男性教師の姿があった。

「お、悪い悪い。荷物がいっぱいでな。ん、職員室に何か用か?」

「あ、えっと」

「ああ、斉藤先生。この子、携帯電話をどこかで落としたらしいんです。それで落とし物を捜したんですが見つからなくて」

「携帯? 落とすくらいなら持って来なきゃいいのによ……んー、そういやお前、今日俺の授業じゃなかったか?」

「え? ああ、そうです。四時間目が音楽でした」

 目の前の男性教師は見た感じは体育科だが、実はばりばりの音楽科である。とは言え指導はまさしく体育会系。無闇に腹に響く声で喋り続けるため、授業中少しでもぼんやりしようものなら次の瞬間身体がびくりと嫌な具合に震える事になる。お陰で生徒の授業態度は全校一。今日の午前中にあった授業も最初から最後まで気が抜けず――、

「もしかしたら音楽室にでも落としてんじゃないのか?」

「た、多分そうです! 今から行ってきます!」

 今日は朝から頻繁に携帯を確認していた。

 音楽室に移動した時も、家族からメールが届いてないかとメールボックスを何度もチェックしていて……確かそう、授業開始のチャイムが鳴るよりも早く先生が音楽室に入ってきたから慌てて机の中に入れたんだ。そうだそうだ、授業が終わった後はメールがいつまで経っても届かない事にふて腐れて、一度も携帯を手に取らなかった。きっとあのまま机の中に入っているに違いない!

「あっ、と――先生、音楽室の鍵を貸してください!」

 勢いのまま職員室を飛び出そうとして鍵の事を思い出し、慌てて後ろを振り返った。しかし何故だか音楽教師は難しそうな顔をして頭をかき、小さくため息をついた。

「鍵は開いてる……もし誰かに会ったら、そろそろ帰るように言っておいてくれ。頼んだぞ」

 後半の台詞の意味は良く解らなかった。

 だが、見つかると思ったら居ても立ってもいられず、聞き返す事もなく職員室を飛び出した。最上階の一番奥を目指し休む事なく全速力で階段を駆け上り、廊下を風のように走り抜けば、あっという間に分厚い扉の前に辿り着いた。

 肩で大きく息をしながら倒れ込むようにドアノブを回し、音楽室の中へと足を踏み入れる。

 瞬間、耳に軽やかなピアノの音が滑り込んできた。反射的に視線を伸ばせば、黄金にきらめく机達の向こう……教室の隅に置かれたグランドピアノで見知らぬ女子生徒が一人、どこかつまらなそうな顔をして鍵盤に指を滑らせていた。

「――ん? お客さん?」

 少し遅れてこちらに気づいた女子生徒は驚きと期待のようなもので顔を輝かせた。

 前者はともかく後者に心当たりがないせいで微妙に気まずい気分になりつつも、荒い呼吸の間で何とか否定を返す。

「い、いや、ただの忘れ物」

「……何だ。そっか」

 ため息が聞こえ、ピアノがつまらなそうな音を鳴らす。

 軽い罪悪感を覚えつつも、急げ急げと、今日の四時間目に座った席へと向かう。

 机の前で足を止め、ごくりと喉を鳴らす。汗ばむ手を机の中に伸ばせば、確かな感触が指先に現れた。そっと握りしめ外に引っ張り出すと、掌の上には見慣れた携帯電話の姿があった。

「良かった――」

 思わず喝采を上げたい気分になった。だが、達成感に酔いしれるより先に中身を確認しておきたいという思いが強まった。なぜだろうか、メールを操作する指にも液晶を確認する眼にも、疑う余地もないほど強い確信があった。メールボックスを開いた瞬間は、それこそファンファーレが鳴り響く寸前のような気分にすらなっていた。

「あ」

 しかし、液晶に並んでいたのは迷惑メールの頭の悪そうなタイトルだけだった。

「――は、はは……」

 張り詰めていた糸が切れるように、身体からすとんと力が抜けた。

 そのまま椅子の上に崩れ落ち、今日したなかで一番大きいため息をついた。速く熱かった心臓の鼓動が、遅く冷たくなっていくのが嫌になるほど解った。

 ……何を期待してんだか。

 何かやり遂げた気になってるけど、実際は校舎を駆けずり回っただけ。落とし物に振り回されただけだ、自分から何か行動を起こしたわけじゃない。だったら何も変わるはずがないだろう? 当たり前の話じゃないか……。

「どしたの? えらく落ち込んでるみたいだけど。ひょっとして告白の返事が来てないとか?」

 顔を上げると、女子生徒が小首を傾げてこちらを見つめていた。言葉も雰囲気も軽かったが、どうやらあえてそうしているらしい。気を遣われているんだと思った瞬間、自然と苦笑が浮かんだ。

「……そんなドラマチックな話じゃないよ。何て言うかさ、もっと子供っぽい話なんだよ」

「うん?」

「ほら、こういう感覚ないか? 当たり前だった時はうざったいと思ってたけど、なくなった途端馬鹿みたいに気にかかっちゃうような事」

「ああ、なくなして初めて人はそれの大切さを知るってやつね。仕方ないんじゃない? だって我々はそんな生き物なわけだし」

 女子生徒は肩をすくめた。様になったその仕草に笑みを返し、痒くもない首の後ろを指で掻く。

「まあ、そうなんだけどさ。でも、解っていても自分に振り回されるのは苛つくだろ? 今日はこんなに悩んでるけど、明日になればどうでも良くなってるんだ。ホント、俺ってガキだよなって思っちゃって。今日は朝からずっと自己嫌悪ばっかりなんだよ」

「うーん。漠然としすぎて良く解らないけど、君は結局どうしたいの?」

「え?」

「問題はそこだよね。現状が理想と重なる場合なんてほとんどないんだ。そういう時、ただ愚痴を言って気に入らない周囲なり自分なりを受け入れるのか、それとも勇気を出して何か行動を起こしてみるのか――――」

 胸の真ん中を貫かれたような気がしてどきりとした。

 周囲にも自分にも不満は数え切れないほどあったが、それを変えようとした事は一度もなかった。それどころか考えた事すらあったかどうか……。

「あ、ごめん。今のはこっちの話」

 何も言えず呆然としていると、女子生徒が罰の悪そうな顔をして手を横に振っていた。そして長いため息を一つついた後、ゆっくりと話し始めた。

 ぽーんと人差し指が気の弱そうな音を奏でる。

「こっちも大した話じゃないんだけどさ……私、今学期から転校してきたんだけどね。ほら、二学期って微妙じゃない? クラス替えもないし、夏休み遊んだりして仲良くなっててさ、よそ者は入りづらいっていうか、女子なんてグループいくつも出来てるし。いや、別に孤立はしてないんだよ? 友達みたいのも出来たし。ただ、一歩引かれてるって言うか、一歩引いちゃってるって言うか」

「そっか……」

 気づけば自然と相づちを打ってしまっていた。

 職員室で見た音楽教師の言葉とその表情の意味がここに来てようやく理解できた気がした。あの音楽教師はひょっとするとこの女子生徒の担任か何かで事情を知っているのかもしれない。だから、放課後音楽室の鍵を特別に貸しているのかも……。

「打ち解けたいのに、どうすれば良いか解らない?」

 事情が漠然と解ったところでどうフォローすれば良いのか解らない。

 そこで出来るだけ当たり障りのない問いを口にしたのだが、返答はまるで予想外のものだった。

「その通り――って実は自信持って言えないんだよね」

 女子生徒は困ったように笑った。

「最初はそう思って努力してたんだけどね。でもね、途中から私何してんだろうって思い始めてさ。ここまで必死になって何を手に入れようとしてるんだ……って。今まで無意識に仲良くしなきゃって思い込んでたけど、よくよく考えればこれはこれで楽なんだよね。孤立はしないけど、一人になれる時間がある。悪くないよね?」

「そうだな……」

 一人になったら駄目なような雰囲気が学校にはある。

 入学当初、クラス替えの時は自分だってそれなりに焦っていた。休み時間喋る相手、昼食を一緒にとる相手、放課後一緒に帰る相手……それを揃えるまでは落ち着かなかった。

 でも、時折一人になりたい瞬間がある。

 人の中にいると息が詰まりそうな時がある。

 そういう時はどこか静かな場所に逃げ出したくなる。でも周囲の雰囲気に逆らえず、結局どんな時も人混みの中にいる――とそこまで考えたところで、なぜ彼女がここにいるのか何となく解った気がした。

「それに私クラシックマニアでね。最近の邦楽も悪くないと思うけど、あんまり興味なくてさ。こっちはバロックについて熱く語りたいのに、向こうはモーツアルトがピアノ弾いてたと思ってるんだよ? 転校する前は頑張って何人かそういう事話せる友達も作ったんだけど……ああもう、今の家にはピアノ置けないし、音楽の先生に無理言って放課後ピアノ使わせてもらってるけど、休みの日は弾けないしさ。こっち来てから良い事なんて一つも――」

「……人の来ない静かな音楽室で、一人でいるのも悪くないんだと、そう思い込もうとしているわけか」

「え?」

 見開かれた二つの大きな瞳を見た瞬間、不思議な気持ちになった。

 名前すら知らないのに、目の前の女子生徒がとても他人とは思えないほど身近な存在に感じられたのだ。まるで違う姿をした自分を目にしているような、そんな気がしていた。

「人と適度に距離を置き、自分一人の時間を重んじるやつは確かにいる。でもそういうやつらは結果的にそうしてるわけじゃなく、自ら選んでそうしているわけだ。君とは違う――君はさ、この放課後をこれっぽっちも望んでいないだろ」

「……私の事を何も知らない君が、私の事を語るわけ?」

 棘が飛び出したその言葉に、誰かがしたように肩をすくめてみせる。

「その通り。俺には君を語れない。俺はただ、見たままの事を言うだけだ」

「へえ。私の何が見えるって?」

「つまらなそうな顔。外からじゃ音も聞こえないこの狭い部屋の中に閉じこもってるくせに、誰かがやって来るのを待ってる。俺が入ってきた時の君の顔を見せてやりたいよ。まるで――ラブレターに書いた呼び出し場所に来た、片思いの相手を見るような感じだったぜ?」

「んなっ!」

 赤面したその姿を見て、やっぱり自覚はあったんだなと頷く。

「まあ、勘違いだったと解ってすぐにふて腐れたみたいだけどさ。と言うかあれだ、君の待ち人は永遠に来ないぞ? これも見た感じで悪いけど、君はじっと待ってるよりも走って会いに行くタイプなんじゃないのか?」

「ぬ……」

「さっき君が言ったとおりだ。現状に不満があるなら、諦めるか行動して世界を変えるかのどちらかだ。君がどうするかは知らないし、俺が口を出す事じゃない。もちろん、自分の趣味について誰かと楽しく話してる君の姿を見たいとは思うけどね。でもまあ、願うだけだ」

 なぜだろう、たった三分そこら彼女と話しただけで、肩の荷がすとんと下りた気がした。

 すると今まで絶対に不可能だと思えていたものが、実は笑ってしまうほど簡単なものだったのだと気がついた。自然と笑みが浮かぶ。

「俺はただ、俺を変える事にしよう」

「……どうやって?」

「まずは、そうだな。電話をしてこちらの要求を突きつける。そして要求が通るまで引き下がらない」

「……犯罪者の台詞みたい。一体どこにかけるの? 銀行? それともホワイトハウス?」

「実家だよ」

「――へ?」

「大体あれだ。親がノーリアクションってのはおかしいだろ。可愛い子供をなんだと思ってやがる、あの罰当たりどもめ。この際だ、慰謝料を含めた金銭的要求にしよう。そろそろ新しい靴が欲しかったんだ――お?」

 憤りに後押しされ、電話帳から実家の番号を猛然と引っ張り出そうとしたところで、死んだように静かだった携帯電話が手の中でぶるぶると震え始めた。

 見れば知らない番号からの着信である。

 イタ電だったらただじゃおかないと舌打ちしながら通話ボタンを押すと、慣れ親しんだその声が耳の横で勢いよく弾けた。

『あ、お兄ちゃん? あたしあたし、あなたの可愛い妹よっ!』

「……お前か。知らない番号だったから誰かと思ったぞ。携帯買ってもらったのか?」

『うんうん。ってなわけで、しっかり番号登録しといてね。暇な時は話し相手になってもらうから』

「はあ……何でも良いけど、ちゃんと通話料考えて使えよ」

『解ってる解ってる。それでさあ、お兄ちゃんさあ――』

「悪いが今は忙しいんだ。兄はこれからちょっと大事な用があってな、お前の相手をしている暇はないんだよ」

『うわ、つれない。まあ良いや。それじゃあ手短にまとめるから、耳かっぽじって良く聞きやがれ……!』

 電話越しに伝わるただならぬ気配に身構えた瞬間、


『お誕生日おめでとう!』


 予想外の――しかし今日最も欲しかったその言葉に、心臓がびくりと大きく跳ねた。

『ケーキとプレゼンツが九時くらいに届くから受け取ってね! あたしのもあるからちゃんと有り難がるよーに! それと再来月のあたしの誕生日、可愛い財布お、ね、が、い! それじゃーね!』

 ツーツーと言い始めた携帯をふらりと耳の横から下ろし、痺れたような感じのする指先で通話を終了する。祭りの太鼓のように景気よく鼓動を打ち始めた心臓に、口を利く事も出来ず動揺していると、ピアノの前に座る女子生徒が首を傾げて尋ねてきた。

「何の電話だったの?」

 疑問に対し答えを口にしようとしてようやく、それが何だったのか頭で理解できた。

 うるさい心臓に苦笑しながら口を開く。飛び出た声は、少しばかりうわずっていた。

「祝福――の皮を被った催促だな。まあ、一応感謝しておくか。しかしあれだな。こっちから電話しようとした矢先にあっちからとは……はは、俺が電話しようとしなかったら何も起こらなかったのか、そうでないのか。一体どっちなんだろうな、全く」

「……何言ってるの?」

「俺さ、今日誕生日なんだよ」

 自分でも驚くほどに軽い調子でそう答えると、女子生徒は驚いた顔をした。そして間髪入れず、満面の笑みを浮かべた。

「え!? そうなの!?」

「まあね」

「そっかあ。それじゃお祝いしなきゃね」

 女子生徒は大きく深呼吸をすると、両手を鍵盤の上に乗せ、見とれるほどに滑らかにピアノを弾き始めた。

 それは誰もが一度は耳にした事のある、その曲だった。

「はっぴばーすでーとぅーゆー、はっぴばーすでーとぅーゆー。はっぴばーすでーでぃあ……ふんふふーん。はっぴばーすでーとぅーゆー!」

 短いが最高の演奏が終わった後、しばらく動く事が出来なかった。しかし、どうだったとこちらを振り返った不安げなその顔を見た瞬間、何か熱いものが胸の奥から勢いよくこみ上げてきた。

「ははっ! ふんふふーんって何だよ、ふんふふーんって!」

「だ、だって私、君の名前知らないし!」

「それもそっか。まあなんだ、ありがと。嬉しいよ、ほんと」

「そう? なら良かった」

「でもあれだ。ピアノは凄く上手いけど、歌はぶっちゃけ今一だな」

「な、何だと!? 頑張ったのにそりゃないよ!」

「ごめんごめん。んじゃ、祝ってもらった事だし、俺はそろそろ家に帰るよ」

「……そっか」

 火が消えたように寂しそうな顔をした彼女を見つめ、首を捻る。

「君はどうすんだ? まだここにいるのか?」

「……私? 私は、そうだね――――」

 彼女は一瞬俯いた。だが、すぐに飛び上がるような勢いで上を向いた。

「うん。私も帰ろっかな。うん……待ち人も来たみたいだしね」

 夕日に照らされてきらきら輝く瞳がこちらを見る。心臓が今度はまた違う意味で大きく跳ねた。

「な、何だ……? まさか君にしか見えない誰かが……」

「照れんなよ。ほら、行こうぜ扉の外へよ!」

「ふん」

 

 断る理由など、どこにもなかった。   

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