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目撃、のち洒掃後、逃走の、のち

作者: 環 円

 よくあることなのだろう、か。


 断定と疑問を同時に感じてしまい、馨かおるはおもわずじっ、と見てしまった。見間違えだとおもい、もう一度見る。

 だが相手は気付かない。笑顔で話しかける隣にいる、可愛い女性に心も体も釘付けなのだろう。同性であっても振り向いてしまう可愛らしさをもつ存在に、馨は周囲の音を失った。


 今日という日は出かけるに最適な日であった。

 空は晴れ、雨の気配も無い。花粉の季節もほぼ終わり、灼熱の太陽が真っ白い光を放つまでのわずかな心地よい季節の休日であった。本来ならば約束が入っていた。行き先は秘密、と教えてもらえなかったが、久し振りの外出デートに心を躍らせていた。だがその約束は相手の都合により延期され、馨は部屋でひとりゲームするのも気が乗らず、財布だけを持って繁華街へと繰り出したのだ。


 ウインドウショッピングは、どちらかと言えば好きなほうだ。通勤で通る駅地下もなかなか面白いが、最近は複合施設がお気に入りだった。店それぞれの広さはかわらない。それなのに様々な商品を積み上げて雑多なイメージをコンセプトにした店舗や、壁や床の色を上手く取り入れ好感が持てるように飾られた服など見ていて面白かった。視覚に訴える購買意欲増加の効果を実践している店にはやはり、足が向くのだろう。客入りの傾向を見ながら馨はゆったりとした速度でぶらりと探索する。

 ここ数日はデスクに拘束されている時間が長かったせいか、無性に歩き回りたかったというのもある。

 ブルーブラックのジーンズに合わせたのはオフホワイトのV字セーターだ。着慣れたスーツの背筋が伸びるような感覚とは違い、休日ならではの開放感に自然と笑みが浮かぶ。夏糸で編まれたこのセーターは七分丈で気に入っていた。このセーターに合うスカートを探してみるのもよいかもしれない。気の早い店舗は空調に冷風を入れている。肌寒く感じれば少し厚手のシャツを羽織ればいい。靴はローファーだ。


 馨は降り注ぐ光に目を細める。


 興味をもっていたことを学び、それを仕事として就くことができた。ある意味、とても幸運であるといえる。

 そもそもからして経済学部へ進学を決めたのは、生産者である家族を不思議に思ったからだ。

 同級生の両親たちは会社に勤め金銭を給与という形で得ていた。これは労働力と時間を消費し、金銭を生み出す。しかし馨の家族たちは労働力と時間を消費し、物質を作り出していた。米をはじめ野菜や果物などだ。

 その物質は有り体に言ってしまえば生産物である。社会ではこれが商品となり、他者の持つ代価と交換されることによって経済が回っていた。

 しかし品によって価値が違う。得るためには片方がより物質を積まねばならない。たったひとつ、爪の指先ほどの金を手に入れるためには、りんごが200個必要、という具合である。これを解消したのが『貨幣』だ。硬貨は基本的に国によってその価値を認められている。1円がただのアルミニウムの薄っぺらな塊ではないと、1万円札がただの紙切れでないように国がお墨付きを与えているのだ。そうでなければりんごの方が断然、価値が高くなる。


 馨はその社会を、物と人と貨幣の結びつきと関係性を面白いと思った。

 商品経済のなりたちはそもそも交換相手が必要である。だがその交換相手が増えてくると問題が生まれる。同じものをつくるのか、それとも幅広くいろいろな種類に手を出すのか。取引する人の数も多くなる。交換する際の約束事も出てきた。どうすればいいのかわからなくなる。ならば解るように学べばいいのだ。

 知れば知るほど面白く、馨はおんなだてらに、などと親類に陰口を叩かれながらも両親が好きなように学びたいことを学んでおいでという後押しを得てすこぶる良い大学に通わせて貰ったのだ。


 そこで取れる資格はとりまくった。

 両親に出してもらったお金以上の成果を返そうとやっきになった、ともいう。

 資格試験には在学中、何度も落ちた。だがあきらめなかった。成るか成らぬかの二択である。宝くじも当たるか当たらないかの二択だから購入者がい続けるのである。ならば受かるまで受け続ければいい。そうして諦めることを諦めて、資格をひとつずつ積み重ねた。


 農大にでも進み、実家のためになることを、という親類の陰口を潰す目的もあった。

 農家は個人事業主だ。最近はコンサルティング業務を行なう事務所も増え、得た知識を実家で役立ててもらってもいる。

 公認会計士の資格をとり税理士となるまで口の悪い年配者もいたが、資格を得てからはなにもいわなくなった。と、いうより擦り寄ってくるようになった。今までさんざん悪たれ口をたたいてきたくせに、偉い先生になったのだからこちらにも恩恵を分けるべきだと、それが当たり前であるかのように要求してきたのだ。

 もちろん断った。応援してくれた家族ならばまだしも、血の繋がりがちょっとだけあるほぼ他人をなぜ助けなければならないのかと。何かして欲しければ先に金銭を寄越せと。馨はそれだけの努力をしてきた。見返りなくなにもするものか。そうすれば罵詈雑言が飛んだ。だれが育ててやったのかとか。どれほどこの家をたすけてやったのだとか。最終的に実家に寄り付くな、と両親をはじめとする祖父母も強く言ってくれたおかげでそのときはすごすごと帰っていった。が懲りたような素振りは数年経った今でも見せてはいない。塩を撒かれに毎年新年にやってくるのだ。砂糖に群がる蟻と同じである。どんなに駆除しても沸いてくる。それならば寄ってこないように対策すればいいのだ。相手がごねて得をしないように法律を学ぶ。そして難しい言葉を並び立てる。相手が意味不明になればこちらのものだ。


 広い横断歩道を歩く。

 いくつもの縞々が重なり合い、人があちこちからいっせいに歩き出す。

 その中を前進しながら作付けが終わり、次の種まきを始めただろう実家の家族が愛してやまない羊羹でも送ろうかと店のある方向へ足を向けたときだ。


 足が、止まった。

 後ろからスマホを見ながら歩いていた誰かがぶつかり、「いたっ、とまらないでよ」そういいながら舌打ちされても、そんな言葉など馨には聞こえなかった。



 太く固い毛質であるため長く伸ばすとあっちこっちに飛び回る馨の髪とは違い、その可愛い女性は柔らかそうな、染めたことのないような綺麗な髪をひとつにまとめ肩に流していた。性格も見た目での判断になるがほんわかとして優しそうな面持ちをしていた。釣り目がちでどんなに目元をマッサージしても変わらない、じ、と見つめるだけで睨んでいると間違われてしまう馨とは正反対と言えるだろう。


 相手、とは交際して5年ほどになるひとだった。付き合いは、それなりにある。専行が同じだったのだ。出入りしていた研究室も同じである。

 相手はとても人気のある人物だった。特に女性には。だが男性にも慕われていたと第三者的に一歩はなれた位置で見ていた馨はそうおもう。彼は馨からしてみれば、天上人だった。学生という限られた期間だけ、接触できる限定である。


 馨の実家は農家だ。日本に住む多くのひとたちの食を支えていると密かに誇りを持っている。実家周辺の作物を食べたことの無い人はいないだろうと言い切れるのは、スーパーには必ず、田舎の県名があったからだ。

 そして馨には歳の離れた弟がひとりいる。両親は、できれば弟に継いで欲しいと思っているに違いない。

 だが馨は弟が継がなければ、あの家と畑を自分が継いでもいいなぁと思っていた。

 弟にもそれは言っている。やりたいことをやればいい。両親はそれを許してくれる。やりたいことをやって改めて農業がしたいとおもったならば継げばいい。嫌だと思ったらお姉ちゃんがやるから重荷に思わなくてもいいと。


 弟は笑った。

 やりたいことがまだわからないから、とりあえずどっちでもいい。

 サッカー選手になれなかったら、畑や田んぼ手伝うのも苦じゃないし、いっしょにやろう。

 そんな弟の髪をくしゃくしゃとお姉ちゃんはかき乱した。馨の弟はできた弟なのだ。

 けれど姉は知っている。弟はサッカーをやめられない。行き着くところまで行き、それこそ怪我でもして走れなくなるまで、足掻いて這いずってでも続けるだろう。夢は叶えるためにあるものだ。姉である馨の、やりたいことの半分以上は終わっている。で、あるからこそ弟には夢を追いかけてほしかった。だからその環境を作る。


 彼は馨に気付かず歩き去ってしまった。ちらりと見られ、歩き去られるのも嫌だが、結果的に彼はいなくなってしまった。体が重く頭の奥が痛んだ。

 気分でも悪いのかと声をかけてくれた親子連れに礼を述べ、馨は急ぎ横断歩道を渡りきる。

 そして呆然としてしまった理由に馨は気付いてしまった。


 お付き合いをしている彼はどちらかといえば結婚する相手としては対象外、だった。

 見た目良し、将来性よし、ついでに家柄も良いとくれば女性ならば誰でも一度は思い描くだろう玉の輿。それが非現実な想像である、とわかっていてもシンデレラに憧れる女の子は多いものだ。

 味わったことのない贅沢というやつがしてみたい。そう思う人間は多いはずである。


 馨の理想は農家に嫁いできてくれる男性だった。少なくともこの大学にはいないだろう、そう思っていた。経済学部にいる誰しもにいえることだが、将来の展望をしっかりと持っている人間がたくさんいた。目的をもって学びに来ている学生が多数だったのだ。意欲的な人間に囲まれ、知っていた知識の補強や理解の度合いを深めていくことは馨にとって楽しい、のひとことだった。無論、壁にぶち当たったこともある。どうしても納得できず、教授に相談し、本を読み、頭を掻き毟ったのも一度や二度ではない。


 都会の生活も楽しいが、田舎はまた別の楽しみがある。緑ばかりで何もない、のではない。緑しかないからいいのだ。都会のように徒歩十五分圏内に生活必需品を売る店がなく不便であっても、だからこそ田舎に帰りたいとおもっている。


 彼は、都会にしか住めないひとだ。それは十分わかっていた。付き合っているからわかる、彼が居なければ回らない仕事も多いのだ。さすが世界に名を轟かせる大企業の血筋だけはある。本家じゃない、分家だよ、とは彼の言だが。

 ずっと迷っていた。なぜ彼が自分と居続けるのかがわからなかったのだ。聞いても曖昧に微笑むだけで、しっかりとした答えを貰ったことは無い。だが愛している、と大好きだという言葉は溢れるほど与えてもらってはいたが。しかし、愛や好意だけでは世を生きていけないのも確かであるのだ。彼と交際していて利点があるのは馨だけだった。馨は彼になにも与えられていない。

 ……ひとつだけあった。会うときに必ず欲しいといわれるものがある。それは塩にぎりだ。実家で作った米はおいしい。これに異存はない。


 付き合いを、そろそろやめるべきなのだろう。そんな時期に入ったのだ。だから彼と、彼の側で笑む女性を目撃したに違いない。どことなく安心している自分に唇を結ぶ。


 彼に似合わないと何度も言われた。彼に相応しくないとさんざん虚仮にされて慣れてしまった。

 どうやって彼に取り入ったのか教えて、と言われたことがある。彼にはすでに婚約者が居り、お前などただの遊びであるのだとも。

 そんなことは言われなくともわかっている。聞かれるたびに彼に構われる理由を、馨こそが知りたかった。

 だから少しばかり冒険がしたくなったのだろう。彼に興味を持たない馨が珍しいのだ。ただそれだけの話である。そうおもうことにした。


 嬉しかった気持ちが、なかったわけではない。けれどその後すぐに、罰ゲームかどうかを尋ねた馨もかなり捻くれているだろう。彼は否定していたが、疑いを晴らしたわけではない。

 彼は馨にとって観賞用だった。

 見て楽しんで終わるものにどうして手を伸ばすのか。彼をアクセサリのように横に置いて楽しむのは自分自身に自信を持っているひとだけの愉悦だろう。

 彼を例えるなら胡蝶蘭だ。開店を祝い、開業の祝いなどに贈られる定番の花といえる。大輪の、茎に沿って並ぶ花は見た目からして豪華だ。しかしこの花にはさみを入れ、切花にするひとはほぼいない。居ても少数だ。


 彼の周りは絶えずきらきらしていた。

 馨は瞬く光が好きだ。実家から見上げる星や、某電波塔から見る夜景を見ていると胸にわだかまる悩みなどちっぽけにおもえてきた。星の光は何万年もかけて地球へと届いている。そんな星の光を見ることができるのは、実のところ幸運以外のなにものでもない。馨が抱く悩みなんて、輝き続ける星に比べたら一ミリにも満たないのだ。それに大変だ、大変だと自分を追い込むより、行いの中に楽しみを見出すほうが建設的だとおもえたのだ。家々を照らす光も必ず灯る。終わらない悩みもないのだ。


 だから驚いた。

 大学2年の時に告白を受け、断り続けて2年、社会人となる卒業の年に彼から再び告白を受けたときは。

 馨はいつも通り即座に断った。

 勤める会社も違うし、社会人一年目である。時間を作って会うよりも、仕事を覚えたかった。学生の間に蓄えた知識がどれだけ通用するのかも知りたかったのだ。そして実家で作る野菜や果物をいつかは売りさばく。そのための交渉術を体得しにいきたかった。


 都会に骨を埋めるつもりは無い。経験と実践を積んで田舎に帰るのだ。だから付き合えないと一刀両断した。

 しかし彼は諦めなかった。


 壁ドンという流行の、簡易な檻をつくり馨に迫ったのだ。

 このまま攫われて監禁されるか、お付き合いに頷いて社会実務を積むか。

 冗談であったと今ならばわかる。監禁なんて現実的ではないし、上げて落とすのは交渉術の基本だ。

 それから5年、長いような短い日々だった。けれどそれも終わる。


 見たことをなかったことにはできなかった。そしてふと、連絡してみようかともおもう。けれど履歴を探そうと掲げた指が、震えた。信じられない自分がいたのだ。電話をして、なにもないよ、と言われたとしてもそれを果たして受け入れられるかといわれたら否だ。歩いていたのは彼だと自信をもって断言できる。彼を信じたい、彼から解放されたい。おもいがせめぎあう。いつからこんなに怖がりになってしまったのだろう。そう考え、苦笑する。そんなものはじめからだ。恋愛に決まった形などない。出会い、心を通わせ、共に歩こうと決めたひとそれぞれに形があるのだ。

 馨と彼との間にある感情は、最初からずれていた。だから終わる準備を整えることにした。逃げよう。もういいはずだ。陰口を言われても、いわれの無い中傷を投げられても気にしない振りをしてきた。けれどもう、いい。

 出会いがあれば別れもある。5年という月日は馨にとって決して短くはなかった。優しくしてもらった。初めての男性でもあった。時には意見の相違もあったし、どうしても我慢ならず無視したこともある。昨今の情勢について意見を交換しつつも討論したり、機密に触れない範囲で未来予測を語り明かしたりした。

 彼といて、楽しかった。

 情もある。愛か、恋かははっきりしてはいないが、手を繋いで生きていけたらいいとおもいはじめていた。

 田舎に、今度、よかったら、着いてきてくれないかな。両親に紹介したい。お付き合いしているひとだと。

 用意していた言葉は使われることはもう、ない。そのうちに霧散するだろう。…してくれないと、困る。


 いい機会なのだ。

 歳の離れた弟も今年、無事大学生となった。実家から遠く離れた大学だ。ずっと続けていたサッカーの、なんとか、というチームからお誘いがあったそうだがお断りをして大学へと進んだのである。弟はその大学でもサッカーをしていた。5月にあったリーグ戦では見事勝利し、駒を進めたとメールを送ってくれたのだ。

 農大のサッカー部、と侮ること無かれ。意外に強いのである。

 プロとも互角に戦えると部活の皆で豪語しているらしく、いつでも挑戦を受けて立つと。大きく出たなぁと馨はおもうが、それでこそ男である。夢を夢で終わらせるのではなく、現実にするために足掻く姿はとても格好いいのだ。是非とも夢を現に変えてもらいたいものである。そしてお姉ちゃんにマネージメントさせてくれないだろうか。この国を背負って立つまでに必要な知識は詰め込んでおこうと密かに決心する。

 それに加え、毎朝の出荷の手がひとつ少なくなるのはかなり両親の足腰に打撃を与えるだろう。戻るっきゃない。取れたての野菜ほど美味しいものはないのだ。

 思い返してみればここ最近、会うときはいつもホテルだった。出張が多いらしく、睡眠と馨が足りていないとベッドに直行することがおおくなっていたようにもおもえる。彼の安眠のため抱き枕になるのはやぶさかではない。彼の寝顔は可愛いのだ。そっと髪を梳いてやれば頬が緩むのもいい。何をするのでもなく、ごろごろとしながらゆったりとした時間を過ごすのも案外悪くないものなのだ、とおもっていたからだろうか。

 以前はアクセサリをこれでもかと押し付けようとしてきたが、あまりにも馨が突っぱね過ぎたのか、口に出すことは無くなった。その代わりと言ってはなんだが美味しいものが増えたような気もする。

 ……同僚が言っていた。消えるものばかりになってくるのは、別れが近くなっているのだと。

 なるほど、聞いた時はそうなのかと気にもしていなかったが、その状況に直面すると納得もいく。



 その日から馨は淡々と練った計画を実行に移した。

 勤めている企業の社員から、委託・契約社員となり地元に戻っても現在の顧客からメールや電話で対応できるように体制を整えた。半独立である。引き止められるのは思いのほか嬉しいものだと知れたのは収穫だっただろう。しかしここに留まるつもりはなかった。辞めないでほしい、そう言われても首を縦に振れない理由がある。離れなければならなかった。地位や名誉、出会った方々と築いた信頼など捨てるにかなり勇気がいる決断だ。けれど、しかしなどと迷っている暇など無い。馨がこの会社を去っても、馨が去った穴を埋める誰かはいるだろう。けれど家族は違う。少なくとも馨の家族は違うのだ。

 彼に最終通告を告げられる前に去らなければならない。面と向かって言われ、笑顔でさようなら、など言える確信が持てなかった。

 去る鳥後を濁さず。

 失踪するなら、自然消滅を狙うなら、徹底的に綺麗にしてゆく。

 大丈夫、彼には出身地すら伝えていない。よもや追いかけてくるなどありえないが、念には念を入れて根回しだけはしておくに限る。

 両親はなにもいわなかった。ただいいよ、と受け入れてくれた。


 給与は減るが仕方が無い。だが田舎に帰ればお金を使うほうが難しくなる。

 必要なものはすでに家にあるからだ。

 毎日スーツを着るわけでもない。畑仕事をするときは動きやすい木綿のズボンだ。日焼け対策におおきな笠も被る。日焼け止めは必須だろう。ブランド物の鞄より、大判の手ぬぐいのほうが便利になるのは多様性に富んでいるからだ。包んでもよし縛ってもよし、袋にしないならば汗も拭ける。


 日の出と共に起き、星を眺めながら寝る。両親と共に新鮮で栄養価の高い野菜を育て、出荷するのだ。都会とは違う充実した日々が待っているだろう。

 本当に必要なものだけをネットで買うとしても、お金の使い道は限られてゆく。

 田舎のいいところは時間に追われないところだ。それに衝動買いも抑制できる。うっかり一目ぼれをして購入する危険が減るのはよいことだろう。


 ***



 居を移して一ヶ月、スカイプでお得意様の相談を受け、のんびりと田舎生活を満喫していた馨の前に彼が現れた。

 馨の実家は山奥だ。熊も出る。夏は登山客が数多く訪れ避暑地としても有名な県であるが、今まで暮らしていた地域とは比べ物にならないくらい人口密度が低く過疎地としても有名である。お隣さんまで8キロくらいあるし、県道も細く山崩れがあると孤立してしまう陸の孤島になりうる地域だ。


 そんな場所に現れた彼に馨は思わず目を擦った。しかも時間は朝の六時半である。

 山奥にスーツとは全く似合わない。けれどいつも通りきらきらとしていた。ここまでどうやって来たのだろう。

 運転免許は持っていた。何度かドライブに連れて行ってもらっているから間違いないだろう。乗り心地の良い国産車であった。それを運転してきたのだろうか。けれど視界内には車などない。


 「やあ馨さん、久し振り」

 「えーっと、わざわざご足労頂きありがとうございます? わざわざこんな山奥かつ早朝にどのような用件でございましょう」


 馨は籠一杯に収穫したほうれん草を抱えたまま、にっこりと笑む。勤め人であったときのようなスマートな出来る女を強調するようなスーツ姿ではない。機能性を重視した農作業着だ。アウトドアメーカーの衣類のため、汗をかいても着心地が良く、雨がぱらついても山登り用のためかなり弾いてくれる。虫除けや日焼け対策、葉で腕が切れたりしないように自分を守るための衣類であるが、可愛くないしそれになにより化粧もしていなかった。


 彼が来訪するとは思うわけがない。ありとあらゆるものをきっちりと処分してきたのだ。それに彼の方から放置されるとおもっていた。ああまさか、やはり別れに際し、最後の一撃を放たないと気がすまない性格をしていたのだろうか。それとも連絡をすべて断って振り切った馨にたいしてのお仕置きしにわざわざやってきたのだろうか。いや、それはない。ないはずだ。


 だって、言っていた。

 引越しするから、と連絡した友人のひとりが荷物の箱詰めを手伝いにきてくれたとき、彼がお見合いをしたらしいとラインで回っていたことを。馨というお付き合いしているひとがいるのに、ひどすぎる、と。

 馨が勤めている事務所の方針で、情報守秘の観点からラインやSNS関係は仕事で使う携帯には入れないようにと伝えられていた。使うならプライベート用で、と。なぜ会社が口を出してくるのかと言えば、月3,500ではあったが補助が出ているからである。


 両親は昨日から居ない。山ひとつ向こうの温泉に腰痛を治しに行っている。帰ってくるのは今日の昼過ぎだ。動揺を表情に出さないようにっこりと笑む。膝が今にも崩れ落ちそうになっていることは絶対に悟られてはいけない。


 「出荷の準備をするので、しばらくお時間をいただけますか」

 「もちろん、邪魔はしないよ。それに僕もついていくから」


 洗って袋詰めにするのは母屋の隣にある作業場だ。農協へ渡す注文分を選別してゆく。

 それが終われば軽トラックで回ってきてくれたお隣の小父さんへ収穫物を託して終わりである。いつもならば父が持っていくが、今日だけは特別に持って行ってくれることになっていた。


 一連の作業が終わるまで縁側に座って待っていた彼が動き出す。

 世間話などは挟まれなかった。即本題である。


 「ねえ、どうして居なくなったりしたのかな、黙って、しかもことごとく形跡を消してまで」


 そんなに僕のことが疎ましかったのかな。それとも好いてくれていたからこそ、かな。拗ねるにしても徹底しすぎたね。初めて家の力を使ったよ。使わせたのは、使わざる状況に持ち込んだのは君が初めてだ。

 と、いつもより凄みを増した気がする輝きを放つ彼に、思わず顔が引きつった。

 馨はおもう。言っていいものか。

 それに馨は拗ねてなどいない。逃げたのは、認める。怖かったのだ。

 忘れようと決めたあの日のことがまざまざと思い出される。見てしまったのだ。あの女性と仲睦まじく歩いていたのを。とてもお似合いのふたりだった。馨の顔面偏差値は平均であろう。それに比べ彼はかなり数字が高い。あの女性もそうだった。美男美女の取り合わせは目に至福だ。彼はとりあえずの女避けにと馨を選んだのだとわかっていた。突出したものなどもっていない。あの大学に通っていた多くが卒業と同時に持ちえる知識を馨も同じように得て社会に出た。


 なぜ彼がこんなところまで来てしまったのか、わからない。

 わからないふりをしていたかった。


 そうでなければ期待してしまう。ほんの少しでも気にかけてくれていたなど。

 思い上がりも甚だしいが、もしそうならとても嬉しいとおもう。


 「見たの。知りたく、なかった、です。隠すなら、ずっと…隠して、いて欲しかった、です。………お、お幸せに、なって…ください」


 引きつりそうな喉を叱咤し声を絞りだす。

 あの日、一緒に出かけようと誘ってくれた空が晴れ渡りとても気持ちが良かった日の事は忘れたくともおもいだしてしまった。夢で見るのだ。悪夢として。未練がましい女だと馨は奥歯を噛んで鼻を啜った。


 「僕には君だけだ。どうしたら信じてくれる」

 そっと両手を頬に添えられ、そのまま上を向かされた。交じり合うのは視線だけではない。

 彼はいい訳をしなかった。取り繕ったりもしなかった。馨が見たのはまさしく彼であったからだ。思わず飛びのいた。距離が開く。


 「馨、好きなんだ。愛している、君は頑なに信じてはくれないけれど、この想いは初めて告白したときから変わらない」


 彼が一歩、踏み込んでくるたびに馨は後ずさった。彼は以前と変わらずキラキラとしている。だがその中に渦が見えてしまった。まさしくあれば銀河系である。その瞬間、弾かれたよう踵を返して走り出した。彼は革靴にスーツだ。追いつけはしない、そうおもったのもつかの間だった。

 都会で暮らしていた馨であるが、元々が山育ちである。歩くのが好きだった。網の目状に交通網が整備されている都会であったが、時間があるときは電車に乗らず地上を歩いていた。一駅なら楽勝である。二駅、三駅ほど行けばなんだか楽しくなってきた。高めのヒールでもなんのそのだ。隠れ家的な店や絶景が見られる穴場を見つけるのが密かな楽しみとなっていたくらいだ。だから足腰には自信があった。


 のだが、三歩しかもたなかった。プロレスで言うなら、コングが鳴った直後にノックアウトである。

 彼に手首を掴まれ、引っ張られ、くるりと体が回転したなぁとおもった時にはもう、彼の腕の中に閉じ込められていた。かぎなれてしまった彼の匂いに包まれ、心臓が跳ねる。


 「ああ、馨のいいにおいがする」


 つむじの辺りで声が聞こえた。それから唇が手あたり次第に触れてくる。耳もかじられた。


 「あの美人さんはどうするつもりですか! 婚約者なのでしょう!?」

 両手で彼を押し返そうと力を込めるが、ピクリとも動いてくれない。そうだ、彼は隠れ細マッチョなのだ。泳ぐのが大好きで、プールに入ると延々と泳ぎ続ける変人であった。競ってえらい目にあったのは良い思い出だ。

 「どこからそんな嘘を仕入れてくるのだか。ああ、学生時代に群れてきていたあの集団かな。まだ馨にちょっかいを…うん、わかった。潰しておくからもう、気にしないで」


 気にするもなにも、潰すってどういう事かな!?

 疑問を口にする前に、ふさがれてしまった。息をするのも一苦労だ。息継ぎする暇も与えてもらえない。


 縁側に座った彼の膝の上に対面で乗せられた馨は息絶え絶えになっていた。

 自分の実家の、縁側である。


 「ねえ、馨。選んで。僕をお婿さんにするか、君がお嫁さんに来るか」


 頭がぼうっとなっていた。酸素が足りない。

 久し振りであったし、なにより彼がまったく手加減してくれなかったせいでもある。


 「ここが好きなの。ここの野菜は世界一おいしいの。ここの野菜売って、ばりばり稼ぐの。だからお嫁さんにはいかなーい」

 口付けは続く。

 「じゃあお婿さんに貰って。一緒に暮らそう。僕も畑に出るよ」

 「うー、良家のぼんぼんには無理ですー。都会とは比べ物にならないくらい虫出るもん。飛んでるもん。泥だらけになって、朝も一杯かいて、畑仕事なんて出来ないんだもーん」


 ああ可愛い。とろけている時の馨だ。

 そんな声が耳元で聞こえたような気がした。なんども口付けが顔の至る場所に落ちてくる。

 ひさびさの馨を堪能したあと、彼は馨の背筋を震わせるような低音を響かせて言った。


 僕の手並みを見てもらってもいい? 虫なんてへっちゃらだよ。軍手貸してくれるかい。

 そして逃げないという口約束が効力を持たないっていう実例が示されてしまったから、まず契約書を交わそうか。


 馨は再び口付けられる。そして意識が朦朧とした時点でなにやら茶色の紙に名前を書き記し、捺印を押してしまったのだがはっきりと意識を取り戻したときにはもう、引き返せないところまで至っていた。

 いつの間にか帰ってきていた両親と彼が食卓を囲み、馨が採りたての野菜を使ったてんぷらを揚げていたのだ。

 その他、彼が好きな小芋の煮っ転がしをも。


 その全ては彼と共に畑へ入り、収穫してきたいろいろだった。

 両親は馨が連れ帰ってきた婿に喜び、ひととなりを知ればさらに歓迎の意を示した。馨が実家に戻ってきたのは婿を得たからである、と大はしゃぎだ。

 茶色の紙の下部には馨と彼の父の名が並び、あっという間に公的な夫婦の契りを交わすまでとなってしまった。

 馨が反論しようとしても、その機会はことごとく彼によって潰された。彼の新しい一面を目の当たりにし、潔い諦めも必要なのだと知る。



 「ねえ悠斗さん、結局なんだったのかな」

 「ん。なにが?」


 ふたり仲良く父が運転し母が助手席に乗る軽トラックの荷台で揺れながら馨は尋ねた。

 「あの綺麗な、ひとって誰だったのかなと」

 「ああ、来月の婚儀で会えるけど。妹なんだ」


 彼はあの日から馨と、その家族と暮らし始めた。彼はスーツケースひとつに荷物を詰め込み、身ひとつで乗り込んできたのだ。ちょっとは疑問におもえと馨は両親に進言したが、こんな田舎に婿に来てくれる奇特な殿方を逃すなどとんでもない、そう反対に説得されてしまったのである。しかもこんな情熱的な青年はなかなかいない。よし、婿に来てくれ。そして好きなだけ娘といちゃいちゃしてくれ。君はもう家うちの家族だ。そう言って父が彼の肩を叩いた。


 ちなみに婚儀は実家から20キロほど先にある由緒あるらしい神社で執り行われることになった。神前式とはいえ、奉られている神様は土神さまで、産めや増やせや、を地でゆく柱様である。知り合いご近所、顔も合わせたことの無い誰かまでが参加する氏子宴会になる可能性もあった。けれどそれでいいのかもしれない。大々的に祝われるのだ。逃げも隠れも出来ない関係となる。


 彼曰くあの日、本家の次男との顔合わせが行なわれたのだという。彼、悠斗の妹はお見合いであることを知らなかったらしい。しかも本家の次男と彼の妹はかなり険悪な関係でもあった。妹のことを次男坊が好き過ぎて意地悪し過ぎた結果であるという。

 彼は両親と従兄弟である次男に泣きつかれ、妹に同行した。目的地にさえ連れて行ってくれたらあとはなんとかする。方法は問わない。その代わりと言っては何だが、付き合っている彼女との結婚を許諾しろと要求したという。

 彼の両親はごねた。当たり前だ。分家とはいえかなりの裁量を与えられている息子には、家柄がつりあった娘さんをと、と考えていたからだ。


 かしその後が良くなかった。彼が妹を送り届けたその日の行動が元で、彼は馨を失ってしまったのだ。

 彼は気付いていた。あの交差点で馨と鉢合ったことを。

 だが妹を連れ、馨に挨拶すれば、確実に妹は逃げていただろう。それでも良かったのだが、従兄弟と妹のこじれにこじれたすれ違いだけはどうにかしてやりたかったのだ。従兄弟のためではなく、妹のために。


 思惑は交差する。

 彼ははっきりいってここ数年で彼だけの身ではなくなっていた。彼が居なくなればおもわぬところに弊害が生じてしまう場所にはめ込まれてしまった。生まれはどうしようもない。裕福な家に生まれたからこそ得られた知識や交友関係、人脈もある。だが心はどうにもならなかった。その手を握りたくて仕方が無い。家の名で引かれたりしないだろうかと。そして勇気を振り絞って告白したとき、彼は玉砕した。家を継ぐからという理由で、振られたのである。

 ある意味、彼にとって目から鱗がぽろりと落ちた。断られるとはおもっていなかった、という驕りがあったのだ。

 用件がそれだけなら失礼します、そう言って去ってゆく彼女の背をただぽかんとして見送ったのは良い思い出だ。彼女の有無を言わせぬはっきりした態度に闘志が燃えたともいう。


 両の親にとって、長男である彼は特に、大切に育てたきた自慢の息子だ。次男や長女も大事であるが、やはり長子は違う。期待をかけていた。よその家でも問題になりやすい本家との関係も良好である。文句も言わず、己の境遇をそういうものだと通っていた中高一貫校で悟ったのか、親が敷いたレールをしっかりと踏んできた息子だった。それがどうしたことだ。大学在学中に見出したらしい趣味に時間を割くようになったのだ。

 それは農業である。

 国を支える基本産業のひとつであるが、人を動かし企業というひとつの組織を動かす頂点になるはずの人間が、なぜそのような土とまみれるような趣味を持ったのかすぐさま調べさせた。結果は息子が思いを寄せる存在ゆえであった。

 

 在学中は目をつむっていた。

 わざわざ大人が口を挟むことでもないと、そのうちに疎遠になるだろうとおもっていたのだ。

 それが社会人となる年に交際を申し込むなど、誰が想像できただろう。

 

 それでも無理矢理別れさせ、反発を生むのを良しとしなかった両親は待った。

 そして彼女が息子から離れようとしているという情報を得、不審におもわれないよう下支えしたのである。

 息子に知れたとき、両親は悪手を打ったのだと初めて思い至った。


 両親が妹の送りを彼に懇願した日時を知ったとき、彼は密かに舌打ちをした。

 彼女に連絡しなかったのは、家の名を出したくなかったからだ。彼女は彼が、自分と付き合っているのは都合がいいからだと心得ていた。互いの男避け、女避けである。彼女は嫁いできてくれる男性を望んでおり、惰性で付き合うつもりはないと態度で示していた。農業と聞くだけで多くの男は忌避する。それでも彼女はそして彼はそんな田舎者をわざと構っている。それは確かに抑制となった。今は近寄ってくれるなという合図であると多くの女性たちに悟らせたのである。


 そして社会人となった。付き合いは続き、彼は彼女との距離を計りながら月日を重ねた。

 彼女に納得してもらうために、人脈も新たにいくつも結んだ。それは彼女にとって有利になるように、である。従兄弟に悩みを打ち明けたあとに紹介してもらった、農業に携わっている官僚や大学教授などの顔ぶれをしれば、どれだけ疎い彼女であっても本気だと知れるはずだ、と準備も万全に整えていた。彼女が彼を離せなくなるように、付加価値をつけてきたのだ。


 だが結果的に彼は馨を見失ってしまったのである。

 なんだかんだと締結間近の契約がいくつも重なり、あちこちから応援を要請された。馨に連絡をとる暇も無い。メールを送ろうと画面を開けば呼ばれそのままとなってしまった回数など覚えてはいなかった。全てが後手に回ってしまったのだ。

 本物の怒りとは怒鳴り散らすものではないと己の身をもって知った。怒るという感情は相手を許しても良い、この感情の行き場さえ確保してくれたなら納めても良い、そういう意思表示でもある。だがそうでない場合、淡々とした冷たさしか持てないものだ。

 彼は両親に絶縁をつきつけ、上司でもあった本家の伯父に辞職を願い出た。草の根を分けてでも探し出す決心をしてからの行動は凄かったと周りが口を揃えたくらいだ。何が凄かったのかは語ってもらえなかったが、そもそも評価してほしかったわけではなかった。

 他の女はいらない。馨でなければみな同じだった。理屈ではなく、本能的に馨以外の誰も要らなかったのだ。

 跡継ぎは弟がいる。お前が継いでくれと言えば弟は嫌な顔をした。どこにでもある話であろうが、兄弟がいると跡継ぎ問題で揉めるものだ。兄があんなにできるのにどうして弟はできないのかと。当たり前である。彼と弟は全く違う人間だ。性格も違うし、興味を示すものも違う。大人はその経験則から己の観点に誰かを当てはめてしまいがちだが、自分と同じものではないのである。意に沿わなくてあたりまえであった。しかしながら比べられ続けた弟にとって兄とは超えられない壁になってしまうものだった。


 「お前の方が構築、上手いじゃないか」

 「兄さんのほうが人たらしだし」

 「提案書も直しなんていらないじゃないか」

 「それを実行に移してるのは兄さんだろ」


 という具合だ。

 なので兄は最終兵器を提示することにした。


 「このまえ食べた、わかめとたけのこの煮しめ、彼女が作ったんだよ」


 がたり、と弟が席を立とうとした。美味しいとご飯を三杯おかわりしたのを覚えている。

 兄が暮らすマンションに残業が続くと転がり込む弟であったが、いつも冷蔵庫の中にある惣菜が楽しみで行っていたふしもあった。

 料理好きの兄であったため、余り気にすることはなかったのだが。


 「カレイの煮付けもそう。おかわりが欲しいって言ったふきのおかか煮もね」


 そもそも弟が彼の家に来るようになったのは、忙しくて昼食すらゆっくり食べられないと持参した弁当をつまみ食いさせてもらったのが発端だった。誰が作ったのかはにっこりと微笑まれて曖昧にされたが、なるほどそうだったのかとようやくすとんと腑に落ちた。なぜなら兄の側には女の気配がまるっきりなかったからである。

 食事は生命維持活動に必要不可欠なものだ。洗練された料理は美味い。何年も修行し、身につけた技術で作られた美食は賞賛に値する。だが人は素朴なものが欲しくなる。家庭の味、という不変が存在し続けるのはちゃんとした意味があるのだ。弟はため息をひとつおとし、カボチャの煮物で手を打つと折れた。そぼろ入りだとなお嬉しいと注文をつけて。

 馨のつくる料理は亡き祖母の味だった。和食以外なら器用に何でも作ってしまう母だが、なぜか醤油を使った煮物が壊滅的な味になってしまうのだ。そんな母の元で育った兄弟は素朴な醤油味に飢えていた。彼らの彼女になりたがる女性たちが差し出すものは洋食が多く、和食を強請っても巧妙に偽装した店売りの品であった。比べるつもりは毛頭ない。どんなものであっても母とは比べ物にならないくらい美味しいはずだ。しかし彼や弟が生まれた家の名を意識し、勝手な理想を押し付けてくる女性だけは遠慮したかったのである。


 繋がりは切らない、そう弟と約束して兄は姿を消した。

 


 なぜ馨だったのか。

 簡単な話だ。

 馨は彼を差別しなかった。一線は引かれていたが、ひとりの人間として接してくれたのだ。

 研究室に差し入れられたおにぎりの味を今でも覚えている。手作りだった。実家から送ってもらった自慢の米だと、教授に笑いかけていた。


 一般庶民のこんなもの貴方に食べてもらえるものじゃない、ではなく、おいしいよ、どうぞ、と紙皿と割り箸を渡してもらえたのは初めてだったのだ。

 それがたまらなく嬉しかった。優しさに満ちた味に懐かしさも感じた。

 些細ではあるが、人が恋に落ちるのは小さなきっかけで十分である。


 馨はあの時と全く変わらない。ただ真っ直ぐに、彼が欲し求めてやまなかったものを与えてくれる。

 家の名や持ち得た財産をすべて放り出した悠斗を、馨は受け入れてくれた。借金こそないものの、仕事を辞め極潰し状態の悠斗を、である。


「大丈夫、悠斗さんひとりくらいなら私が養えるし」


 働かざるもの食うべからずだけど、と笑い、畑に出ては出荷できないだろう実りを宝物のように取り入れ、おいしいよと、今日もほら、もぎたてのトマトを悠斗に差し出してくれる。


 だから愛しい。

 悠斗は柔らかな微笑みを浮かべながら受け取り、奥さんの頬に感謝を込めて口付けた。


 「嘘も偽りも馨さんにだけは言わない。だから何でも聞いて、貴方に嫌われたら生きていけない」


 彼は笑む。

 熟れたトマトよりも真っ赤に染まった愛しの君と過ごす日々の尊さに幸せを感じながら。


 「うわあ、悠斗さん、予想を超えてましてよ!? 注文いっぱい来ましたのことですよ!?」

 「日本の野菜は安全安心美味美食だからね。売り込む場所を間違えなければこれくらいいくよ」


 「くぅ、無農薬のカルガモ農法米は自慢の一品ではございますが。数字で表されたら言い返せないっ」

 「可愛い奥さんと、その家族で作った農産物がJAPANブランドとして有名になるのはうれしいです」


 「でもどうやって送るつもり? 空輸するにしても既存の方法だとコストがかかりすぎるんじゃ」

 (こそこそと耳元で内緒話を)


 「それ、いや、いい案ですけれど」

 「ん? どうして急に敬語になるのかな」


 「職権乱用……というか、なんというか」

 「使えるものは使わないと、ね?」


 馨は後に語る。

 主人は悪巧みしている時が最も輝いている。だからきらっきらしている時は抗うこと無かれ、と。



***


 洒掃さいそう---水をそそぎ、塵を払うこと。身の回りを綺麗にする。

 

 どんなに痕跡を消したとしても、消した、という跡が残りますという意味合いを込めて題名に。


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[一言] 好きです。 地の文といっていいのでしょうか、思考の移り変わりがくるくる回ってとても楽しんで読めました。 お二人に幸あれ。 叶いますならばいつかその後やもっと小噺など、もっと読みたい、と思った…
[一言] ランキングからきました。 面白かったです。 ここまで一途に思われるとは主人公は幸せですね。 もちろん思われるほどの人物ではあるのですが。 ハッピーエンドで読後感がよかったです。 農村に希望が…
[良い点] いき違いからの仲直り。 使い古されたプロットながら、やっぱり安定感があって面白かったです。展開が読めてるからこそ中途の登場人物の感情の動きを見ながらにまにま出来ましたねw。 [気になる点]…
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