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鬼の眷属 作者:上泉護
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藤原基成

ハエプトとヌマテの心配そうな顔を(おぼろ)に見ながら、チプの中でショルラは目を覚ました。
「ここは?・・・」
ハエプトがショルラの額に手を置いて、優しく言った。
「ショルラ、湯船で倒れたの、アトゥイが気づいてここまで運んだのよ」
羞恥(しゅうち)でショルラはカーッと全身が熱くなった。
”アトゥイに裸を見られた・・・だらしないとこを見られた・・・”
思わずポロポロと涙がこぼれる。
ヌマテはきょとんとして、なんで泣いているのかまったく解っていない。
ハエプトはヌマテに
「少し、外に行ってなさい」と言った。
「えっ、なんで?」
「いいから!」ヌマテは釈然としないといった顔でチプを出て行った。
ハエプトは泣きじゃくるショルラに
「ショルラ、なにも思い(わずら)う事なんてないわ。安心して」
「でも・・・・」
「あの子は本当に女心が解ってないんだから・・・」呟く様に言った。
「でも、ちゃんとショルラの事は大切に思っているわ、それは今までもこれからもまったく変わらないから・・」
「でもね・・アトゥイの事も解ってあげて・・あの歳で、このポンコタンの人達の命を預かる重責を背負っているの・・もともと、虫も殺せない様な優しい子だったのに・・・酷な事だと思うわ・・親馬鹿かもしれないけど、あの子はよくやってる・・・自慢の息子よ」
「はい・・・」
「あの子は今、みんなを無事にアイヌモシリに連れて行く事で精一杯なの・・・だから解ってあげて・・」
「はい・・・」ショルラは気を取り直す事が出来て涙を拭いた。
その時、アトゥイの声が聞こえた。
「いぃ?」
ショルラがはっとして身構える。
「えぇ」とハエプト
アトゥイはチプに入って来るとハエプトに目配せし、ショルラに
「大丈夫?突然湯に沈んだからびっくりしたよ」と言った。
ショルラはアトゥイの目を見る事が出来ず、うつむいて真っ赤になっている。
「やっぱりどこか悪いの?」心底心配してショルラに尋ねた。
「大丈夫よ!アトゥイ本当に解らないの?」とハエプト
「えっ?まさかシサムの蔵でなにか・・・」と素っ頓狂な事を言い出した。
「ばか、もういいわ、出ていきなさい!ヌマテに戻る様に伝えて」とハエプトにやりくるめながらも、ショルラの事を心配して聞いた。
「ショルラ、本当に大丈夫?」
「うん・・・大丈夫・・」ショルラはアトゥイに微笑(ほほえ)む。
それを見て初めて安心したのか、アトゥイは
「よかった・・横になって休めばすぐ良くなるよ・・」と言って、チプを出て行った。
「まったく兄弟そろってニブイんだから、こんなとこは父親に似たのね」とハエプトは憤慨している。
「あの人も本当にニブイ人だったわ!」
その言葉を聞いて、ショルラは笑った。
「ふふふふ・・」
ハエプトも笑う。
「ふっふふふふ」
ヌマテが戻ってきて、笑う二人を不思議そうに見ている。
「雪の峠は過ぎた様だから、明日出発という事になったよ」とヌマテ
「シイヒラ達は?」とヌマテに聞いた。
「横のチプで出発の準備を手伝ってる」
ハエプトはショルラに向き直ると
「私達は手伝ってくるから、ショルラは横になってなさい。いいわね」
「はい・・・」
二人が出ていき、ショルラは静かに横になった。
”裸の私を裸のアトゥイが抱きかかえてくれたのかな・・・”
などと思うと、ショルラの顔は茹蛸(ゆでだこ)の様に赤くなった。
まだ、頭がクラクラする・・・
チプの入り口の隙間から見える外の世界は、雪が止み静まり返っている。
さっきまで死ぬほど悲しかったショルラの心は、逆に幸せが満ちてくるのを抑えられない。
ショルラは自分で自分がおかしくなってしまったのかと思った。

鉛色の空に雲が垂れ込め、標高の低い金鶏山に暗雲がかかるかの様だ。
平泉の奢侈(しゃし)で絢爛豪華な邸宅群や、伽藍や仏閣、金鶏山も雪に埋もれている。
平泉館(ひらいずみのたち)裏の入り江には雪をかぶった交易船が停泊し、その横に朝廷からの勅使を乗せてきた船が並んでいた。
勅使を迎えた平泉館の一間には、上座に座る勅使の侍従と、下座に座る泰衡、国衡、そして藤原基成(ふじわらのもとなり)が並ぶ。
勅使は天皇の代理として宣旨を伝える事から、それを受ける側が官位において上位であっても、天皇への臣礼同様、敬意を払う事とされていた。
おごそかに勅使が宣旨を読み上げる・・・
平泉に持ち込まれた宣旨、それは、
「義経追悼宣旨」である。
藤原泰衡および藤原基成に、源義経を討てという物だった。
泰衡・国衡・基成はおごそかに宣旨を受けると共に、
”源義経は行方知れずの為、今すぐ討ち取る訳にはまいりません”との意を伝え、この歴史上の一幕は閉じた。
泰衡は義経を除いた一門の軍議において、遺命に従いこれを拒否する事を明らかにした。
それに対し、一人を除き全員が賛成したという。
ただ一人反対したのは、元鎮守府将軍、藤原基成その人である。
ここで藤原基成という人と、その異母弟の”藤原信頼(ふじわらののぶより)”という、義経の父、源義朝(みなもとのよしとも)に深く関与した公卿の、二人について触れておきたい。
藤原基成とその弟信頼の父、藤原忠隆(ふじわらのただたか)は、鳥羽院政期、院近臣として活躍した人物で、鷹狩、馬術にも造詣(ぞうけいを深め、公卿でありながら武の道においても一目置かれる存在で、平忠盛ら武人とも広く交流した。
後に信頼と敵対する信西も「数国の刺史を経て家富財多し。性、鷹、犬を好む。人がために施しを好み、その報いを望まず。世、その態度に伏す」と述べている。
その器量の大きい父親の元、なに不自由なく基成、信頼兄弟は育った。
父親のそういった姿を幼い頃から見、教訓を受けて(はぐく)まれた兄弟達は、他の公卿の家庭とは少々違う価値感を持った公家へと成長していく。
忠隆の武を好む資質をより強く受け継いだ四男の信頼は、後白河天皇に愛され、その寵臣として絶大な権力をふるう様になっていく。
天養元年(1144年)叙爵し、久安二年(1146年)従五位上に進んだ事を初めとし、久安四年(1148年)に土佐守、久安六年(1150年)に武蔵守と、父の知行国の受領を歴任すると、
仁平元年(1151年)正五位下に進み、翌仁平二年(1152年)には右兵衛佐、久寿二年(1155年)には従四位下・武蔵守に任ぜられ、とんとん拍子に出世街道を昇っていった。
そのあまりにも早い出世は周囲から疎まれ、後白河天皇に近侍するや、
「あさましき程の寵愛あり」と言われるまでの寵臣となった。
その後も、出世昇進が遅滞する事無く、保元二年(1157年)、右近衛権中将より蔵人頭・左近衛権中将に任ぜられ従四位上から正四位下、翌保元三年(1158年)に正四位上・皇后宮権亮を経て従三位より同年二月に、26歳の若さで正三位・参議になり公卿に列せられる。
同年には権中納言に任ぜられ、検非違使別当・右衛門督を兼ねるに至り、後白河天皇の譲位後は院別当となった。
またこの頃、幼い頃に叩き込まれた武の力の重要さを再認識し、信頼は異母兄の基成を陸奥守および鎮守府将軍として奥州へ送り込み、軍事貴族の奥州藤原氏三代目秀衡に基成の娘を嫁がせ、姻戚関係を結ばせた。
この時基成は、非凡な弟の尻に敷かれた傀儡的な存在で、出世街道を凄まじい勢いで昇っていく異母弟の信頼に、
”いいように扱われていた”と当時を振り返り基成は思っている。
またそれとは別に信頼は、自身の武蔵守の後任に弟・信説(のぶとき)を任せる事により、坂東武士支配にとって最重要である武蔵国の国衙支配の権限と、武士にとり必要不可欠な馬や武器を産出する陸奥国を押さえる事によって、坂東支配を進めていた頼朝、義経の父、源義朝へ強い影響力を与えていく事になった。
保元の乱直前に発生した大蔵合戦において、源義朝が罪に問われる事無く兵を起こせたのも、当時の武蔵国の知行国主であった信頼の了承を得ていたからである。
信頼はそれらに加え、当時最大軍事貴族であった平清盛の娘と、信頼の嫡男・信親との婚姻をはかり、信頼は朝廷における実力者となった。
武家にとり必要不可欠な物資を産出する奥州と深いつながりを有し、頼朝・義経の父、源義朝を配下同然に治め、他の軍事貴族に影響力を持ち、なおかつ都における最大の軍事貴族である平清盛とも、婚姻を通じて同盟関係を結ぶ事に成功をおさめた実務に有能な信頼が、朝廷における地位を上昇させていったのも当然の事と言えた。
信頼の野望はそれらに終わる事無く、関白藤原忠通の嫡子基実の妻に信頼の姉妹を送り込み、その腹から後の関白、基通が生まれる事となる。
そんな権力の中枢にいる弟の手足となって基成は働き、自然と朝廷に太いパイプを持つにいたった。
しかし、栄えある者が必ず迎えねばならぬ運命、栄枯盛衰。
基成がそれを最初に見る事になったのは、弟の凋落(ちょうらく)であった。
それは光と闇、人間の奥底に流れるどす黒い執着がいきつく落とし穴の様に、突然目の前にポッカリとその巨大な口を開けた。
保元の乱の後、摂関家の地位は低下し、治天の君が不在になるという政界の混乱が生じると、その混乱に乗じ急速に力を伸ばしたのが、後白河天皇の乳母を妻とする信西である。
保元三年(1158年)、後白河天皇が退位し二条天皇が即位すると、信西は院近臣、天皇側近の中に自らの子供達を送り込み権勢を振るう様になった。
その事は旧来の院近臣や権勢を得ようとしていた二条天皇側近達の反感を買い、院近臣と天皇側近の間で信西排斥の動きが生まれた。
その中で軍事貴族達に強い影響力を持つ信頼は反信西派の中心となり、やがてそれは平治の乱へと発展する。
平治元年12月9日(1160年1月19日)、平清盛が熊野詣に出かけた留守を狙い、信頼は源義朝、源光保、源頼政を誘引し京で挙兵して、信西を捕えて斬首した。
信西を討った功により、信頼は朝廷最大の実力者と成りあがった。
余談ではあるが、この年運命の子が誕生する。強い怨みを抱えた信西の生まれ変わりか、それともただの偶然か?それは今もって解らぬ事だが、確かにこの(とし)にその子は生まれたのだ。
その子は義経や弁慶、アトゥイの運命に多大な影響を与えていく事になる。
話を戻そう。
そんな弟信頼を、奥州の地より京へ戻って来ていた基成は、傍観者として間近で見ていた。
信西排斥に成功した連合政権は、元々院近臣と天皇側近との利害がたまたま一致した程度の政権だった為、、その後の院政重視か天皇親政を目指すかという政権の問題を抱えたまま挙兵し信西を排除した為、天皇親政を支持する勢力と信頼、その他の軍事貴族の連合であるこの政権はすぐに瓦解した。
政権瓦解後の短い混乱期には、二枚舌をつかいこなし、自らの生き残りをかけ暗躍する見苦しい公家達が、基成の元にまで来たものだ。
その先の見えない短い混乱期は、平清盛という巨頭によって終わりを告げられた。
それまで中立的立場を保っていた平清盛が帰京すると、天皇派は清盛と手を結び、二条天皇を六波羅(清盛方)へと御幸させる事に成功し、この事により権勢の正統性を失った信頼に、反乱者の烙印が押された。
もともと天皇側近であった源光保らの軍事貴族は賊軍となった信頼方から離脱し、信頼に対する依存度が高い源義朝のみが信頼の陣営に残る事になる。
清盛の婿となっていた信親は二条天皇の御幸の直後、信頼の元に戻され、平家との婚姻関係も解消された。
平治元年(1160年)12月27日(2月6日)、天皇の宣旨を得て攻めかかってきた官軍との戦闘において、清盛の大軍の前に信頼、義朝はあっけなく敗北し、東国へ落ち延びようとするが、掌中の玉である二条天皇をむざむざと奪われた不手際に対し、武家にすぎぬ義朝から「日本一の不覚人」と(ののし)られ信頼は拒絶された。
信頼は仁和寺にいた後白河院にすがり助命嘆願するが、朝廷は信頼を謀叛人の張本人として許さず、公卿でありながら六条河原で斬首された。
享年27。
そのあまりにも早い、栄華の果ての無残な死を目の当たりにした基成も、縁座によってふたたび陸奥に流された。
基成は弟の死よりも、己の流浪の運命を呪ったものだ。
また、義朝と共に落ち延びようとした頼朝は捕まったものの、助命され伊豆国の蛭ヶ小島に流され、義経は、母常盤御前と共に一条長成の元へやられ、命をつなぎ、後に鞍馬寺に預けられる事となった。
陸奥に流された基成はというと、秀衡の岳父として高舘館に住み、奥州藤原氏の政治顧問的な立場を確立した。
そして・・・
栄華を誇った平家の世も、頼朝、義経に滅ぼされる事となり、基成は二度の栄枯盛衰、盛者必衰の(ことわり)を見る事となった。
基成の目には、それらの裏にある朝廷権力の揺るがぬ姿と、何枚もの舌を使いこなし暗躍する、魑魅魍魎の公家達の姿が見えたに違いない。
安住の地と思われたこの奥州藤原氏の屋台骨を揺るがす重大事に、これらの経験をし、目の当たりにしてきた基成が、どのような考えにいたったのか?想像に難くない。
厳しい緊張感を持って、これまで朝廷権力の海を奥州藤原氏という大船を導いてきたと自負する基成は、少数派となった奥州藤原一門の中で暗躍し始める。
それは、自らが嫌った魑魅魍魎の公家達と、なんら変わらぬ姿であった事は皮肉な事と言えよう。
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