破綻。
目覚めると、俺は一人でベッドに寝ていた。
人を呼んで、アイラはどこに行ったのか聞いてみると、何人か使用人を連れて街に買い物にいったそうだ。
今はもう昼前らしい。
昨夜の事は、よく覚えている。
何故、自分があんな風になったのか、理解できない。したくもない。
最近、そういう事が増えている気がする。
感情の波が激しくなる時が、よくあるのだ。
躁鬱、と言う言葉が頭に浮かんだが、わからない。
この世界に精神科の医者など、どこを探してもいないのだから。
俺は身繕いをして、屋敷に戻った。
使用人が、慌ただしく働いている。
今日の夜には、家臣やその有力な部下、領内の有力な商人などを呼んだ新年会がある。
シエーナはもちろん、アイラやエルロンドも出席するし、総勢で百名ちょいは来る筈だ。
アイラは、身を飾るものでも買いに行ったのかもしれない。
首筋に、いくつか痣がある筈だから、それを隠す何かもいるだろう。
「おや、お久しぶりです。アルマンド様。」
使用人に混じって、サルムートが麻袋を担いでいた。
「なにやってんだ。サルムート。」
「嫁に狩り出されたんですよ。報告したい事がありますので、後で伺います。」
「休みは、きちんと休め。」
「嫁に言って下さい。」
言って、サルムートは笑った。
良い歳のはずだが、若々しく見える。
窮屈な場では大人しくしている事が多いのだが、こういった仕事の方が好きなのだろう。
楽しそうだ。
いや、違うな。
仕事が楽しいんじゃない。
生きる事を、楽しんでいる。
サルムートは、溌剌としていた。
「アル?」
声がした方に目だけ動かすと、いつの間にかシエーナがいた。
流石に今日は、きちんとした服装をしている。
「どうしたの?」
麻袋を担いで屋敷の奥に去って行くサルムートの背中を見つめながら、俺は涙を零していた。
何故だかわからない。
俺の左頬を、伝っていく。
「わからない。」
本当に、わからない。
「大丈夫?」
シエーナに目を戻すと、少し焦ったようにそわそわしている。
俺は、大丈夫なのか。
わからない。
今世で、そんな事を俺に聞いたやつは誰もいない。
「大丈夫そうには、見えないか?」
「それは、泣いてるもの。どうかしたの?」
そうか。
そうだよな。
そりゃそうだ。
こんな所で泣いてりゃ、大丈夫には見えないよな。
「なんでもない。」
駄目だ。昨日から、少しおかしい。
とりあえず、部屋に戻ろう。
落ち着いてから、少し寝て、新年会に耐えれば、今日は終わる。
きっと、明日には治ってる筈だ。
「そんなわけないでしょ。」
立ち去ろうとした俺の腕を、シエーナが掴んだ。
「アイラと何かあったの?」
知ってたのか。
いや、部屋にいなけりゃ気づくな。
いくらシエーナでも。
「何もなかった訳じゃないが、多分それじゃない。」
「どういう事?」
「わからない。」
「話してくれないの?」
「話せないんだ。話さないんじゃない。」
「話せるようになったら、話してくれる?」
「多分。」
「多分じゃダメ。ぜったい。」
「約束は、できない。」
「どうして?」
「わからないんだ。本当に、何も。」
自分ではない誰かが話している気分だ。
「頼む。一人にしてくれ。」
「ダメ。逃げないで。」
逃げ、だと。
いや、確かに、これは逃げだ。
それは、わかる。
全てを投げ出したい。
ずっと、何処かでそう思ってはいなかったか。
「夜には、顔を出すから。」
言って、俺の腕を掴んでいる手を振り払って、俺は立ち去った。
シエーナの、ひどく切迫した目が、怖かった。
全て、見透かされてるんじゃないか。
ふと、そう思ってしまったのだ。
早足で部屋まで戻ると、俺は大きく深呼吸して、ソファーに腰を降ろした。
部屋を見渡す。
見事に、必要最低限のものしかない。
貴族にしては、殺伐な部屋だ。
前世で俺が住んでいた八畳一間の部屋は、もっと色んなモノがあった。
テレビやDVD、ゲーム機も二種類ほど持っていたし、小説やビジネス書用と漫画用の本棚が一つずつ、小さな黒のテーブルに座椅子が二つ、それとボーナスで買ったちょっと贅沢なシングルベッド。
今も、はっきりと思い出せる。
滅多になかったが、何も予定がない休みがあると、コンビニでお菓子を買い込んで、読みたかった本をベッドで読みながら摘まむのが好きだった。
そんな日は、自分で飯を作らず、近所の中華屋で済ます。
休みの日だから贅沢しようと思って行くのに、毎度メニューを見ると、安く済むよう計算して注文していたのも覚えている。
仕事は、ただ仕事だった。
毎日淡々とこなし、余程な事がない限りは残業などせず、さっさと定時で帰った。まぁ定時でも11時間ほど働いてたが。
給料は手取りで20万をちょっと越えるぐらい。
ボーナスは年に二回だが、大した額ではない。
休みは週休二日、起業に向けてのセミナーや人脈作りにほとんど費やし、たまに学生の頃の友人や仕事仲間と飲みに行っていた。
そんな事も、思い出せる。
本当に、恵まれていたと思う。
戻りたいとは思わない。
戻れる訳がないのだ。
あそこにいた俺は、確かに死んだのだから。
今でも、前世の思い出と共に、横から途轍もない衝撃と同時に意識が飛ぶ瞬間を覚えている。
あの世界に、俺はもういないのだ。
どうしようもなく、身体が怠い。
いや、気力が萎えている。
今まで、自覚する瞬間はあったのに、気づかないふりをしていたモノが、一度に襲いかかってきた気分だ。
エリーゼに、もう一度会いたかった。
なのに、シエーナを愛し始めている自分がいた。
日に日に成長するエルロンドが、恐ろしかった。
書類をめくるのが、酷く億劫だった。
フィリップやキートス、マンシュタインやパウロ、そして戻ってこないハリー。
自分は、彼らの主に相応しいのか。
豊かになりつつある領地を、どうしたら良いのかわからない。
ラドマンがあぁなったのは、俺が出しゃばったからじゃないのか。
マンシュタインも、ローフェンもそれに気づいていなかったか。
フィリップやキートスに、こんな俺を気づかれていないか。
アイラには、酷い事をした。
いや、俺の妾になった事自体、彼女の不幸じゃないのか。
他にも様々な事が頭を巡る。
不意に、胃が軋んだ。
軋みは、すぐに痛みになった。
堪えきれず、その場で吐いた。
胃液しか出てこない。
水差しから、グラスに水を注いで、飲み下す。
それも、すぐに逆流してきた。
なんだ。
これは。
おかしくもないのに、笑いそうになった。
シエーナが心配して部屋を訪ねて来るまで、俺は必死に笑いを堪えていた。
笑うだけで、俺は死ぬんじゃないか。
そんな恐怖が、全身に鳥肌を立てていた。