夫婦喧嘩。
その後、細かい打ち合わせや、計画の修正などを行って、会議は解散した。
いつの間にか、夜更けになっていて、俺は執務室で一人、遅い夕食を摂った。
フィリップは各部署の監督に駆けずり回る事になり、しばらく屋敷にいない。
今夜は、俺を含め、みんな徹夜になるだろう。
キートスの部下達が、決定した事を書類に起こし、俺の印を求めてくる。
他にも、実際に動くとなると、細かい裁可が必要になる所が出てくる。
サンヴェラ達を送り出す場所も決めねばならない。
とは言っても、それらがあがってくるまでは、自由時間である。
食事を終えると、俺はコーヒーをメイドに頼み、うちの領地の地図を眺めながら、一息ついた。
不意に、ノックの音が聞こえる。
もう書類が来たのか、と少々げんなりしながら、入るよう促す。
入って来たのは、寝間着姿のシエーナだった。
「どうした。こんな夜更けに。」
「目が覚めてしまって。み、皆さんお忙しいそうにして、何かあったのですか?」
不安気な顔で、シエーナは言った。
こんな時に、かまっていたくない。
「大した事じゃない。気にするな。」
「でも、あんなにキートスが慌てているところ、初めて見ました。フィリップも先程屋敷を出て行ったようですし、マンシュタインもポレスもいました。この間、お役目をもらったトロンテスまで。」
「だから、なんだ。」
「ぜ、絶対に何かあった筈です。」
「言っただろう。大した事ではない。」
「でも、こんな事は今までありませんでした。」
「何度も言わせるな。大した事じゃない。」
「嘘ですッ!」
突然、シエーナが大きな声を出した。
それに、執拗だ。
普段の彼女ではない。
彼女自身、大声を出した自分に動揺しているようだが、それは俺も同じだ。
「どうしたんだ。シエーナ。」
焦りと苛立ちを抑え、俺は尋ねた。
こんな形で、ぶつかる事になるとは思っていなかった。
何故、今なのだ。
「わ、私は、あなたの妻です。」
「そうだな。」
「貴族として、出来て当たり前の事ができない、どうしようもない妻かもしれません。」
シエーナの声が、震え始めた。
「でも、私だって、話しを聞く事ぐらいできます。なのに。」
シエーナは、こちらを見つめたまま、涙を零し始めた。
必死なのだろう。
いつもなら、俯いて泣いている顔を見られないようにして、いつまでもグズグズと泣くのだ。
「あなたは、私を見てくれない。」
あぁ、その通りだ。
俺は、シエーナを妻に迎えたかった訳ではない。
侯爵家に必要な正妻が欲しかっただけだ。
普段は領地の事で忙しく、たまに空いた時間はエルロンドと過ごす。
ここのところ、疲れている時などにはアイラの館に行く事もあった。
シエーナと過ごすのは、月に二回かそこらだ。
そして、それが政略結婚と言うものだ。
「だから、なんだと言うのだ。所詮、こんなものだろう。」
そんな事は、シエーナもわかっている筈だ。
貴族の結婚など、ろくな事がない。
妾にしたって家臣の娘だ。
それが、貴族なのだから、仕方ない。
俺は、納得したかどうかは別として、それをもう受け入れていた。
「エリーゼ様とは、あんなに仲が良かったのに?」
涙を流し、微笑みながら、シエーナは言った。
俺は、声が出なかった。
胸が、締めつけられるような、エリーゼが逝った時のような、そんな感覚が、全身に広がる。
「一度、お見かけしたのです。ラランドで。」
ラランド。
新婚旅行で寄った、芸術都市だ。
よく覚えている。
俺を主人公にした演劇を見に行った。
あそこに、いたのか。
「奥様をあんな幸せな顔にさせる人なのでしょう?」
「違う。」
「なのに、どうして、私には。」
「違う。お前だからではないんだ。」
「なら、どうして。」
「エリーゼだったから、だ。」
言うと、シエーナは顔を伏せた。
我ながら、残酷な事を言ったと思う。
だが、嘘ではない。
どれだけ遠い所にいても、エリーゼはエリーゼだ。
他の誰にも代えられない。
「私は、なんなの?」
しばらく顔を伏せ、沈黙が続いた後、シエーナが呟いた。
「俺の、正妻だ。」
「それだけ?」
「それだけだ。」
「愛しては、くれないの?」
「できない。」
「どうして?」
「君も、わかっている筈だ。」
「わからないわ。私は、一生懸命、勉強した。それでも貴方は」
「そんな事、俺は求めちゃいない。それは、君の逃げだ。貴族らしく在れば、君を愛する事になると、本当に信じてたのか?」
「だったら、どうすれば良いの?」
「俺の、正妻であり続ける事だ。すまないが、それしか俺は求めていない。」
本心ではない。
それは、俺が一番よくわかっている。
ずっと、目を向けないようにしてきただけだ。
俺は、怖いのだ。
シエーナを、もし俺が愛してしまったら、エリーゼを忘れてしまうんじゃないかと。
そして、それを見たエルロンドが、酷く傷つくんじゃないかと。
恐ろしくて仕方がない。
普段のシエーナが怯えるような仕草をする度、極度に緊張している様子を見る度、それが自分の姿と重なる。
そんな自分を、見たくはなかった。
ここ最近、気づいた事だ。
フィリップにも、言っていない。
「シエーナ。すまない。仕事が、まだ残っているんだ。自分の部屋に、戻ってくれ。」
何か言おうとしたシエーナを手で制し、言った。
いつまでも、こんな時を耐えていたくない。
シエーナは、しばらく涙を流しながら俺を見つめ、執務室を出ていった。
思わず、深く溜息をついて、コーヒーを口に含んだ。
ぬるく、ただ不味かった。