翳り。
十万一千八百六十七人。
マルガンダから南、ローヌ河の南に広がる平原に移住する民の数である。
今は、その受け入れる準備に、エンリッヒ家の力を注いでいる。
サルムートと、今は屯田兵を束ねているメルヴィンが、身を細らせて居住地区を確保している。
整地はもちろんだが、森を切り拓いて最低限の農地を作り、買い集めた家畜の為に牧を作った。
サルムートは土壌についても、探っているようだ。
果実や薬草などもこの地域で作るつもりのようで、その適性が高い土地を探しているのだろう。
ドワーフ達には道はもちろん、河岸に船着場、家屋や倉庫を急ピッチで仕上げさせた。
他にも運河を掘る予定があり、これには移民の十万のうち、五千ほどを動員するつもりだ。
農耕を好まない者も当然いて、そういった傾向が顕著な者には土木工事や、鉱山、職人などとして、働かせる口を作ってやらねばならない。
相変わらず、資金だけには余裕があるのが救いだ。
黒麒石を始めとする墳墓の副葬品が、かなりの高値で売れた。
予め、販路の確保をしていたのが大きい。
墳墓の副葬品は、十万もの民を、なんとか一年は養えるだけの白金貨に替わった。
そして、副葬品はまだまだ増え続けている。
「落ち着く間もありませんな。」
執務室で、珍しくフィリップがこぼした。
当家の執事筆頭と家宰を兼任している彼は、俺からは見えない所で忙しい。
領地の実情の把握から、俺にあげるべき報告の最終チェックまで彼がしているのだから、キートスと同等か、それ以上に多忙だろう。
「本当に軌道に乗るか否かは、今にかかっているからな。」
書類を決済しながら、応えると、フィリップはニヤリと笑った。
いや、顔を見たわけではないんだが、なんとなくわかる。
「ここをなんとか凌げば、全てに余裕が出てくる。領民を食わせる為に金貨を使わずに済むようになれば、西も開拓できる。」
後は、ただ豊かになっていくだけだ。
戦役がなければ、だが。
「そうなると、また別の問題が出て来ましょう。」
「豊かになる、と言うのは陰もまた生まれる事になるのは、よくわかっているつもりだ。」
書類から目を離し顔をあげると、フィリップはニヤリと口元だけで笑っていた。
苦笑いに近いそれは、どことなく寂しげにも見える。
「なにが言いたい。フィリップ。」
「アルマンド様に、いつまでお仕えできるか、考える夜が増えたのです。私も、老人と呼ばれておかしくない歳になりました。」
それは、フィリップが死ぬと言う事か。
確かに、フィリップはそろそろ六十になる。
年齢で言えば、確かに老人と言って差し支えない。
「俺は、気持ちだろうと思う。お前は、気持ちだけは若い。」
言って笑う。
こんな話しは、したくない。
フィリップは、家臣筆頭と言う立場もある。
そして、それ以上の感情も、俺にはある。
ほとんど、肉親のようなものだ。
「そうですか。確かに、若い者共に負けまいと言う気概は、残っておりますな。」
言ったフィリップの顔に、はっきりと翳が差した。
何か、あったのか。
喉まで出かかったが、言葉にならない。
何故、こんな話しをする。
「お前には、まだまだ頼らないといけないんだ。道半ばで、逝く事は禁じる。良いな?」
言うと、フィリップは笑って、頷いた。
ふと、不安になったのかも知れない。
全てが上手く行き過ぎている。
何か、とんでもない事を見落としているんじゃないか。
本当に、これで良かったのか。
考え始めて、眠れない夜を過ごす事がないわけではない。
俺達の誰もが通る道だろうと思う。
そして、俺は通り抜けつつある。
フィリップにとって、それは今なのかも知れない。
何故、今この時にフィリップがこんな事を話したのか。
それは、わからなかった。