侯爵と後妻の夫婦仲。
「おかえりなさいませ。」
屋敷に着き、フィリップと、シエーナ、それに数人のメイドが俺を出迎えた。
シエーナは何か言いたげにモジモジしている。
「あぁ。早速、皆を集めてくれ。当面の資金の目処が立ったからな。しばらく、忙しくなるぞ。」
言うと、フィリップは頭を下げて屋敷に入っていく。
シエーナは、まだモジモジしていた。
こいつのトロさは筋金入りだ。
数ヶ月もフィリップがついて、この様か。
「どうした。シエーナ。」
俺の声に、メイド達の顔が強張った。
感情が、出ていたのかも知れない。
結婚した今となっては、知ったこっちゃないが。
「お、おかえりなさいませ。旦那様。」
旦那様。
そうか。確かに、おかしくない。
貴族としては、まったくもって正常だ。
なのに、こんなに胸を締め付けられる。
俺を、アル、と呼ぶ人は、もういないのだ。
二人で目を覚ましたベッドの上で、おはようのキスをしてくれる人も
一日の終わりに、どうでも良いような事を楽しげに話す人も
もういない。
わかっている事だが、シエーナはそれを俺に突きつけた。
いや、彼女は悪くない。
俺が馬鹿な期待をしていただけ。
毎回、期待してしまう俺が弱いだけ。
それだけだ。
「ただいま、シエーナ。」
俺は、なんとか声を捻り出し、笑顔を作った。
シエーナも、ぎこちない笑みを浮かべる。
「少し、歩こうか。」
言うと、シエーナはこくり、と頷き俺の横に並んだ。
屋敷の、会議に使っている大部屋まで、極力ゆっくりと歩く。
「作法や座学の進み具合はどうだ?」
「え?あ、その。ごめんなさい。中々上手く行かなくて。」
「別に責めている訳じゃないんだ。謝らないでくれ。勉強は君のペースで、ゆっくりやれば良い。」
「ごめんなさい。どうしても緊張してしまって。」
「問題は、そこじゃないと思うが。まぁ、良い。そのうち慣れるさ。僕は、そうだった。」
「本当、ですか?」
「あぁ。なにせ、人とまともに話すのも久しぶりだったからね。特にダンスの習得には苦労した。」
「そうですか。でも、私はやっときちんとお食事できるようになったぐらい、ですから。旦那様とお出かけできるのは、まだまだ先ですね。」
「うちの領地で、出かけてまで行く所なんてほとんどないがね。いずれ、そういった町も作りたいが。」
「どんな町を、ですか?」
「まずは、農業都市だな。食べる事に困らない事が、第一だから。次に商業都市。作った食糧を、物流に乗せる事ができれば、領民達にも、他の事に目を向ける余裕が出てくる。芸術や学問だな。そういったモノで生活が成り立つ町を、いつか作りたい。」
「ずっと、お忙しくされているのでしょうね。」
シエーナの声には、憂いが滲んでいる。
彼女の心の動き方が、俺には手に取るようにわかる。
彼女は、自分を責めてしまう。
自分は貴族らしくないから。
自分は何の役にも立たないから。
自分は迷惑をかけてばかりだから。
自分は子供を産んでいないから。
だから、愛されてなくても、家臣から疎まれても、エルロンドが懐かなくても、マルガンダはおろか屋敷からさえほとんど出してもらえなくても、仕方がない。
哀れだった。
俺がシエーナを愛せないのは、彼女がエリーゼになろうとしているからだ。
仕草や行動に、それが出る。
家臣がシエーナを疎ましく思うのは、息が詰まるからだ。
主君の正妻が、家臣に頭を下げてばかり、気を遣ってばかり。
家臣は逆に頭を下げねばならないし、そうならない為に彼女といる時は、より気を遣わねばならない。
疲れるのだ。
エルロンドが懐かないのは、彼女に母親になる覚悟がないからだ。
何をするにも中途半端で、キチンと褒めもしないし、叱りもしない。
エルロンドは、それを見抜いているとしか思えない。
子供は、時に残酷で、常に正直だ。
屋敷から出してもらえないのは、領主の正妻としての自覚がないからだ。
教わる事をこなしさえすれば、それで良い訳ではない。
時には、高貴なる者として自らの意志を示さねばならない。
彼女の精神は、そういった自立には程遠い状態だ。
領民達の目にどう映り、どう考えるかはわからないが、決して良い方向で彼女を捉えはしないだろう。
シエーナは、何が問題なのかは理解している。
だが、どうしてそれが問題なのか、深く考えていないのだ。
彼女がそれに気づかない限り、俺達から手を差し伸べる事はできない。
「極力、時間を作るようにするよ。どれだけ、とは約束できないが。」
言うと、シエーナは寂しげな笑みを浮かべた。
それだけで、何も言わない。
シエーナに使える筈の時間を、マンシュタインの娘のもとに通う為にあてるであろう事は、わかっているのに。
マンシュタインの娘は、一週間後に俺の妾になる。
身内だけで、ささやかな宴を開くつもりだが、当然シエーナは出席しない。
元々、新婚当初からシエーナと夜を過ごすのは十日に一度ぐらいだった。
これから、それが更に減る。
新婚としても若い貴族の夫婦としても、極端に少ないが、シエーナは何も言わない。
我儘を言ってはいけない、と自分に課しているのだろう。
そういう所も、俺は気に入らない。
寂しげな笑顔に見送られ、俺は会議室に入った。
互いに、声はかけなかった。