ナヴァレの死。
ナヴァレは、渓谷を抜ける前日から水すら口しなくなった。
こちらの問いかけにも、殆どの場合、微かに頷くか首を振るだけで応えている。
旅が始まってから、サルムートとダルトンは、時々ナヴァレと話しをしてしたようだが、俺は殆ど話す事はなかった。
「アルマンド様、ナヴァレが、呼んでおりますが。」
フィリップが、天幕に入って来て言った。
渓谷を抜けてすぐに日が暮れたので、野営する事にしたのだ。
マンシュタインは、渓谷を抜けて真っ直ぐ西に進んだ所に拠点を築いている。
明日の遅くても昼前には、辿り着けるだろう。
「わかった。すぐ行く。」
俺は、すぐに上着を羽織ってナヴァレの馬車に向かった。
寝間着だけじゃぁ流石にマズかろう。
「お呼び立てして、すみませんな。」
馬車で横になっているナヴァレが、掠れた声で詫びた。
唇はひび割れて、顔の皺も深い。
肌の色も土気色で、蝋燭の頼りない灯りが、それらを一層強調していた。
だが、相変わらず目だけが、意志の光を放っている。
正直、ここまでもっているのが、信じられない。
「元気そうじゃないか。」
俺は、あえて言ってみた。
言った事をすぐ後悔したが、ナヴァレはひび割れた唇で、薄く笑った。
「決めた、事ですから。」
俺は、何も言えなかった。
決めた事、要は意思の力か。
そんなもので、死を押し退ける事ができるのか。
そんな事が、人に可能なのか。
どうでもいい事が、頭を巡る。
もっと、大事な事がある。
それも、目の前に。
わかっているのに、頭が働かない。
ナヴァレの目は、意思を宿したまま、こちらを見つめていた。
俺は、目を逸らす事ができない。
ふと恐ろしくなるような、そんな目だった。
「私は、明日、死ぬ事にします。」
しばらく見つめあった後、ナヴァレは薄く笑ったまま、そう言った。
翌日、予定通り、昼前にマンシュタインの拠点に辿り着いた。
渓谷から真西、小高い丘を越えた麓に、村があった。
マンシュタインが、心血を注いで作り上げた村だ。
王都はもちろん、途中に寄った街にさえ、比べる事すらできないほど、みすぼらしい村だ。
北に牧場が、東から南には畑が広がっているが、どこか色褪せて見えた。
その向こう側に、地平まで広がる青々しい草原の方が、遥かに美しい。
「アルマンド様。」
村を見降ろしていると、フィリップが馬を寄せてきた。
「ナヴァレが、もう死ぬ、と。最期に、アルマンド様とお話ししたいそうです。」
俺は、一度目を閉じ、馬を降りた。
なんとなく、ナヴァレは馬車の中では死なない気がしたのだ。
ナヴァレは、担架に乗せられて、使用人に運ばれてきた。
首を横に向けて、村を見下ろしている。
「貴方の、村、ですな。」
「あぁ。」
「良い、村だ。」
「そうだ。良い村だ。ちょっとばかり、みすぼらしいが。」
「貴方の、夢に、似ている。頼りなく、中身のない、ただ広く、希望だけがある、そんな夢に。」
「やかましいわ。あとな、俺は夢なんか持っちゃいない。侯爵になってしまった。人一人も住んでいない領地を与えられた。王都にも長居していられない。俺は、やるしかないから、やっているだけだ。」
「はて、嘘、か。いや、無自覚、なのかも、知れませんな。」
「ないな。そんな綺麗なもんを持てるような人生を、俺は送って来なかった。家臣達や領民をきちんと食わせる事が出来れば、それで良い。」
「夢は、美しい、ですか。」
「あぁ、美しいな。眩しいぐらいだ。」
「私には、見えます。」
「なにがだ。」
「貴方が、この土地で、悩む姿が。民を、想う心が。」
俺は、言い返そうとして、息を呑んだ。
ナヴァレが、逝こうとしている。
それが、はっきりとわかったからだ。
「死ぬのか。ナヴァレ。」
ナヴァレは、応えなかった。
目を開いたまま、薄く笑みを浮かべ、ナヴァレは逝った。
俺の生涯で、最も付き合いが短く、最も強く影響を与えた家臣の死だった。