貴族家の妻。
夕方頃、げっそりとしたシエーナが、ハリーとパウロを伴って宿に帰って来た。
俺は、朝の奴隷市に行ったきり、宿の部屋で読書だ。
現代から二百年ほど前に、東の砂漠を横断し、更にその向こうにある帝国、大楚帝国への冒険譚だ。
内容としては、前世の西遊記に近い。
「おかえり。」
本に栞を挟み、シエーナ達を迎える。
シエーナはよろよろとベッドに倒れ込み、それを見てハリーが眉をひそめ、パウロがにやりと笑う。
相当、お疲れのようだ。
「ハリー、すまないが、茶を頼む。」
「かしこまりました。」
多分、オーズとアルファドも部屋で待機している筈だ。
エンリッヒ侯爵家一行だけで、四部屋も占有している。
宿にとっては、ありがたい話なのかも知れないが、長期の滞在は迷惑だろう。
宿が流行る土地と言うのは、基本的に人の通過点だ。
長期の滞在客が増えると、その分客が他所に流れる。
今後の事を考えると、主要都市にはエンリッヒ侯爵家の別邸を建てた方が良いだろう。
「なぁ、シエーナ。別荘を建てようと思うんだが。」
言うと、ベッドにうつ伏せになったまま、顔だけこちらに向けて反応する。
「なぁに。ソドムの話聞いて、欲しくなったの?」
「そういう訳じゃないが。」
「あぁ、うん。言いたい事はわかった。旅が終わった後の事ね?」
「そういう事。」
うーん、と難しい顔をして、一生懸命考えるシエーナ。
シエーナは、はっきり言って賢くはない。
だが、見るべき所は見ている。
食べる事ばかり考えているようだが、出てくる食事の品目から、その都市の食糧事情などを正確に見抜いたりもする。
徐々に貴族の感覚が馴染みつつある俺より、庶民の感覚が残っているシエーナの方が、鋭い事を言う事もあるのだ。
「此処と、ローヌになら良いんじゃない?サンテミリオンとか、ラターシュは、まだ先にしておいた方が良いと思う。」
「その心は?」
「まだまだ、貧しい人がいるんだもん。泊まるとこ確保するのに別荘建てましたって、ちょっと理解しがたいんじゃないかしら。」
おお、それっぽい理由だ。
ベッドに寝転がったまんまじゃなきゃ、素直に感心できるんだがな。
「そうだな。もう少し、考えてみる。」
「あれば、便利だよね。」
要は、無くても良い、と言う事か。
まぁ、侯爵が泊まった宿、とか言って箔を付けたりも出来る訳だしな。
「お待たせしました。」
その後も、シエーナと別荘について話していると、お茶が到着した。
ハリーと、オーズが部屋に入ってくる。
微かに香るお茶の香りは、マルガンダの屋敷のモノだ。
久しぶりの香りだった。
「オーズ、部屋の外で控えていてくれ。」
テーブルに2セットのお茶。
前世で言う紅茶と言うやつだ。
前世の紅茶の味など忘れてしまっているが、こちらの紅茶も中々美味い。
白い角砂糖に、紅茶用の生クリームの様な牛乳。
おかわり用のティーポット。
それぞれを、見栄えのするように並べるオーズ。
俺が気にしないのだが、やはりハリーがいると緊張するらしい。
きちんと礼をして、部屋を出るオーズに、少し苦笑してしまった。
「さて、奥様。御茶も入りましたので、椅子に座られてはいかがでしょうか。」
「もうちょっと、このまま。」
「椅子に座られては、いかがでしょうか。」
「はい、ごめんなさい。」
もそもそと、動き始めるシエーナ。
家臣の言う事は聞くのに、旦那の言う事を聞かない侯爵夫人。
なんだかなぁ。
「で、ハリー。話があるんだろう?」
言うと、真面目な顔でハリーは頷いた。
あまり、良くない話なのだろうか。
「フィリップ殿からの、連絡です。他に幾つか、領地に関しての報告が御座います。」
「おい、ハリー。アルマンド様は、休暇中だ。領地の話は、お前が処理しとけ。」
パウロが割って入る。
気持ちはありがたいが、そういう訳にもいかないだろう。
「報告のみで、特に決裁などは頂かなくて良いとの事だ。そもそも、お前が判断する事柄でもない。邪魔をするなら、出ていってもらおうか。パウロ。」
「なんだと。」
「やめろ。二人共。鬱陶しい。」
言うと、二人は揃って頭を下げた。
俺に、向かってだ。
「パウロ、お前が口を挟む事柄じゃないのは確かだ。気持ちは有難いがな。ハリー、お前もいらん言葉を吐くな。話がややこしくなる。」
「お互いに、ごめんなさいしないとね。」
お茶を冷ましながら、シエーナが締める。
その様子に、二人共非常に気まずそうな顔をしていた。
子供のような事ばかりするシエーナに、子供のような扱いをされたのだ。
まぁ、人間幾つになっても、そういうとこがあるもんだがな。
「目の前で、握手しろとは言わん。今夜、二人で飲みにでも行って来い。」
言うと、二人共気まずい表情のまま、苦笑いしていた。
「さて、話を聞こうか、ハリー。」
「はい。申し訳ございません。まず、一つ目ですが、キートス殿が結婚するそうです。」
「昨日聞いたぞ。」
「うん。知ってる。」
「えっ?」
「昨日、奴隷市でソドムに会ってな。あぁ、ギルドや商会との折衝を任せている男だ。そのソドムから、昨日聞いた。」
ハリーが、凄く残念そうな顔をする。
驚いた顔でも見たかったのか。
御期待に沿えなくてすまいね。
「では、二つ目です。アイラ殿が、妊娠されたそうです。アイラ殿を診た医師の診断では、三ヶ月ほどではないかと。」
「えっ!?」
マンシュタインの末娘、アイラ・ランシュムーサス。
正式に婚姻を結んだ訳ではないので、産まれる子はエンリッヒ家の傍流にすらなれない。
男子ならば、彼女の長兄であるポレスの養子に。
娘ならば、平民出身の家臣の息子に嫁がせるつもりだ。
思わず、シエーナの顔を見た。
特に変わった所はない。
俺と眼が合って、にこりと笑う。
「おめでとう。アル。」
めでたい事、なんだろうな。確かに。
「あぁ。」
「つきましては、アイラ殿の待遇に関して、御指示を頂きたいとの事です。」
俺の子を、産むのだ。
他の家臣からすれば、シエーナとは違う意味で特別な人間になるし、特別な功績をあげた人間にもなる。
エンリッヒ侯爵分家は作れないが、準一門となる家臣家を作る事になる。
娘を差し出した、マンシュタインの発言力は、これから増していくだろう。
「エンリッヒの姓を、与える訳にはいかん。マルガンダに屋敷を建て、使用人を増やしてやれ。俺には、それしか思いつかない。本人の希望は、あるのか?」
「特に聞いておりません。マルガンダに問い合わせておきます。」
あくまで、事務的にハリーは対応する。
シエーナの手前、素直に祝えないのだろう。
俺は、あまり自分の子供が産まれると言う気がしない。
産まれてすぐ、他所へ養子に行くのだ。
それは、エンリッヒ侯爵として、必要な処置で、行く先も直属騎士団団長の長男の家だ。
将来は、能力があろうとなかろうと、騎士団団長となる事が確定しているようなものだ。
決して、冷遇する訳ではない。
その後、領地の開拓や開発の細かい報告を幾つかして、ハリーはパウロと共に、部屋を出ていった。
「なぁ、シエーナ。」
「気にしないで。私達にも、すぐできるよ。」
言ったシエーナは、泣きそうな笑顔だった。
まぁ、そうだよな。
エルロンドがいるとは言え、俺の子供は多い方が良い。
血の力、と言う貴族には必要不可欠な力が、エンリッヒ家には酷く不足している。
エルロンドを支える兄弟、他家で血縁の当主を産む姉妹、子は何人いても足りない。
他の貴族家の娘を、側室として迎える事は既に避けられない。
それでも、シエーナが自分の子を産むまで待つつもりではある。
周りがどう言おうと、俺が急かす事ではないからだ。
「ばか。俺の台詞だ。お前が、気に病む事じゃない。」
「でも。」
「俺の子供を、産んでくれたら嬉しいけどな。貴族に必要な子供を、産むためにお前がいるんじゃないんだから。」
立ち上がって、シエーナの頭を抱きしめてやる。
「うん。」
俺の服に、溢れた水滴が染みる。
涙は良いんだけどさ。
鼻水は、ちょっとやだなぁ。